EP12. 観測女子とハイブマインド
観測の方法は必ずしも顕微鏡や数式だけじゃない。
ときには甘味と冗談、そして距離の近すぎる散歩道が最良のデータをもたらす。
これは調査なのか、それともデートなのか。
境界は曖昧で、けれど観測される瞬間にだけ輪郭を得る。
――笑いと照れと、ほんの少しの真実。
この日、僕とチイロは街の中で“尊い統計”を更新した。
土曜の昼下がり。
駅ビルの天窓から落ちる光は、平日の蛍光灯と違って少し柔らかい。改札の電子音が規則正しく鳴って、構内の空気を一定のテンポに刻んでいた。
「よっ、タナトス君」
振り向いた先で、雲越チイロが片手をひらひら。
黒のショートジャケットに、動きやすい短めのスカート。重心低めのスニーカー。髪は適当にまとめた風を装いながら、実は針金みたいなピンで完璧に固定されているタイプ。いつもの“理屈の壁”は少し薄めで、見た目のコンパイルは完全に女子高生ビルドだった。
「……で? 調査って聞いたんだけど」
「そうそう調査。――いや、デートって言った方が分かりやすいかな」
「いや、おかしいでしょ」
「だってそうじゃん?」
にやり、と片口角。わざと肩に軽く触れてくる。ミーム的接触。通りすがりのカップルが「いいなぁ」と漏らすのが聞こえ、駅の環境音に軽いノイズが乗った。
「今日は《ゲームマスター》としてじゃなく、《女子高生》として観測してあげる」
「観測対象は僕、ってこと?」
「そう。被験者Y。主要評価項目:①“俺/僕”スイッチの閾値、②ラブコメ圧下の意思決定遅延、③プリン投与後の幸福度変化。――テンプレに沿って行動すると尊い統計が綺麗に取れるから、よろしくねー」
「テンプレって言うな」
「テンプレは正義。物語は再現性が高いほど刺さる。みんながもう一回観たいは科学っしょ」
言い切ってから、彼女は改札をスイッと通過。Suicaをかざす手首の角度が無駄に綺麗だ。僕の足元に、半歩ぶんの置いていかれ感が生まれる。
「まずは第0相:導入の儀」
チイロはコンコースの壁面マップを人差し指でとん、と叩く。「行き先候補は三択――科学館/プラネタリウム/純喫茶。どれも“調査”と言い張れる安全地帯。ちなみに純喫茶には固めプリンがある」
「純喫茶にやたらとバイアスある気がする(笑)」
「意思決定は常にバイアスとの戦い。はい、A/Bテスト開始。直感で指さして」
「……科学館」
「ちっ、了解。被験者Yは“真面目そうに見えて結局理系の遊園地を選ぶ”傾向あり、と。じゃ、移動。エスカレーターは左配置で近接ね」
「ちっつて聞こえたような。でも、なんで近接が必須なんだ」
「ラブコメ距離って単位があってだね」
「ない」
「作った」
エスカレーターに並ぶ。半段分だけ彼女が前。視界の端にチイロのポニピンが揺れる。金属の小さい反射が、やたらと視線を攫ってくる。
金属の踏板が周期的に鳴って、僕らの距離を機械的に測るみたいだった。
チイロが半段前で振り向きかけ、やめて、また振り向く。
「……ん」
言葉にならない音。僕が首を傾げると、彼女は小さく手をすべらせて、僕のジャケットの袖口を一瞬だけつまんだ。
「落ちるから。安全係数の話」
「それ、今考えたよね」
「うん(小声)」
「ところでユウマ」
彼女は足元を見たまま、わざとらしく何気なく切り出した。
「“僕”モード、そろそろ**“俺”**に切り替わりそう?」
「どうだろう」
「駅の雑踏は人の役割を薄めるけど、並列観測者(=他カップル)の存在が**“俺”を誘導する。――はい、今の返答、“俺”寄りに0.3**。よしよし」
「数値化するな」
「するよ。数式に落ちない愛は、愛だけど研究じゃない」
科学館までの道すがら、彼女は街の看板をミーム採集みたいに読み上げていく。「あ、あのフォントは間違いなく**“懐かしレトロでエモい”を狙ってる!」「このBGMはローファイLo-Fi**で心拍落とす“購買導線”」「カップル密度、右側が高い。写真スポットが仕込んであるわー!」――彼女の頭にある“世界を読む辞書”は、論文とネットスラングの合成語でできていた。
「で、調査の本命は?」
「W1(並行世界1)の干渉痕を、ユウマの“徒然視野”で拾えるかどうか。無理に思い出させたりしない。――緩く、ね」
「女子高生モードって言いながら、やってることは観測者」
「うん。でも今日は“甘味による緩和”を前提にする。人間は糖で動く。これは統計の基礎だから」
「知ってる」
◆
科学館。エントランスの球体オブジェが回転し、床の投影が波紋みたいに広がる。親子連れと、僕らみたいな年頃の二人組がちらほら。
チイロがパンフを受け取り、秒速で読み終え、僕の手に半分押しつける。
「まずは錯視と知覚のゾーン。観測者の誤りは、愛でも時間でも致命的だから」
展示の鏡の前で、チイロが僕の横にすっと立った。鏡像がわずかに歪む。彼女は僕の肩に軽く触れ、二人の像の距離を微調整する。
「はい、尊い」
「何を観測したw」
「二人の像、並列配置で“カップルっぽ度”上昇。周囲の観客の視線ベクトルが右から収束。――公的承認は手っ取り早いバイアス」
「社会実験するな(笑)」
「するよ。社会は舞台、私たちはミーム♪」
通路の天井に緑の非常灯が二つ並んでいる。片方は薄くチラつき、もう片方は安定していた。
胸の奥がぎゅっと縮む。**「どっちが正解?」**という無意味な問いが、喉の裏に蘇る。
「ユウマ」
チイロが、僕の視線の先を読むのが異様に早い。
「二系統は冗長化。どっちも正解。……今日は逃げ道、ある」
言葉が、喉のこわばりを解すみたいに広がった。
続いて音の展示。残響筒に手を当てると、わずかな反響が返る。チイロが目だけで僕を見る。
僕は指先で筒を叩き、“旧教会のガラス片”の時の手順で短いインパルスを作った。
反射。耳の奥に、一拍遅れの自分の音。
チイロが、ほとんど聞こえない声量で言う。
「W1、今は来てない。大丈夫」
「……わかるのか」
「ユウマの呼吸。脈拍。瞳孔反応。――女子はね、人の顔色を見るのが世界でいちばん上手い生き物」
ほんの少しだけ胸が軽くなる。
彼女はそこで話題をぱきんと切り替えた。
反射が一拍遅れて返る。
耳の底を水の圧が這い上がってくる――
「ほら」
掌が僕の手の甲に重なった。チイロ。
「今のは1.2秒。水圧の帯域じゃない。……ここは体育館」
言い切りで、現実に留める。
「次、プラネのプレショー。暗闇コミュニケーションの時間だよ」
「暗闇はね、人の声域を半音下げるの」
囁きながら、チイロは自分の喉仏にそっと指を当てる。
「ユウマ、今の声……“俺”に0.5」
「また数える」
「数えるよ。暗がりは恋の増幅器だから」
◆
ドームの天井に星が散る。開演前の薄暗がり。座席は隣り合って、肘掛けは一つ。
チイロが「肘掛け戦争、始めます」と囁き、笑ってから、自分の肘を1/2肘だけ乗せる。
僕も1/2肘。ナッシュ均衡が取れた。
「ユウマはあっちの世界のことを“無かったことにしたい”って思ってるでしょ?その方が自分を信じられる」
星がまだ増光する前の低照度で、彼女の横顔だけが輪郭で存在している。
「それ、君の優しさの形だと思う。破壊係数が最小になる選択。ゲーム理論の安全戦略」
「……でも、愛は時々、安全じゃない」
淡い声で、だけどくっきりと言い切る。「アスミは“戻る”を選ぶ。君は“残す”を選ぶ。分岐ができた。その干渉が、いつか痛みになるかも。だから今日、私は女子として君の隣にいる」
「監視じゃなくて?」
「監視もする。けど今日は“味方”。――二者択一を強制するのは世界線の悪い癖だよ。第三の解は、往々にして笑いながら歩いてくるのだよ?」
照明が落ち、天井に星が増える。天の川のノイズが静かに広がる。
僕は、肘掛けの1/2を2/3に増やしてみる。
チイロは残りの1/3を保ったまま、指先だけで僕の小指に触れた。
接触面積:極小。効果量:大。
「はい、尊い」
彼女は自分で言って、自分で小さく笑った。
「これで“私も参戦してる”ミームが教室に拡散。四角関係の定常波、成立」
「わざとやってるな」
「うん。わざと。わざとは、優しさの練習でもあるから」
◆
上映後。ドームを出ると、館内カフェのガラスケースに琥珀色のプリンが整列していた。
チイロは迷いゼロの導線で注文し、二人分のトレーを僕に渡しながら、さらっと言う。
「ユウマ、**“俺”**になって。注文取りに行くときだけでいい」
「……“俺はプリン二つ、お願いします”」
「よくできました。言語ミームは自己同型。一回通せば、道ができる」
席につく。固め。スプーン先でわずかに抵抗、すぐに崩れる。口に入る。カラメルの苦味が、さっきの星空と同じ色温度で広がる。
チイロが満足そうに息をついた。幸福度スコアが目に見えて上がるタイプ。
「ねえユウマ。記録を選ぶの、私は好きだよ」
彼女はプリンをもう一すくいして、続ける。
「記録は残酷だけど、裏切らない。
改変は甘いけど、嘘をつく。
――どっちが正しいかじゃなくて、どっちを抱けるか」
「抱けるか!?」
「うん。夜、ひとりで抱えて寝られるか。朝起きて、もう一回選べるか。それが二者択一の実体」
一瞬、変なことを想像してしまった。
彼女はスプーンを置き、僕の目を見る。
その視線は冗談を全部脱ぎ捨てた、観測者の目だった。
「だから、今日みたいな日を増やして。笑って。糖を摂って。人を好きでいて。
そうじゃないと、どの世界線も燃費が悪い」
僕は、笑うしかなかった。
プリンの甘さと、カラメルの苦さと、彼女の言葉の温度が、同じ場所に落ちていく。
「……ありがとう、チイロ」
「どういたしまして」
彼女はまた、女子高生の笑顔に戻って、スプーンを掲げる。
「スプーン、交換して」
「え?」
「交差感染(笑)。じゃなくて、交差検証。
味覚比較は同一器具の方が誤差が減る」
言いながら、彼女は僕のスプーンをそっと奪って自分のプリンへ。
頬が、ほんの一瞬、灯った。
「被験者Y、第二相“街歩き”へ移行。尊い統計、更新開始」
「まだ続くのか」
「デートは帰宅するまでがデート。調査は論文が出るまでが調査。――両方やるのが科学でしょ?」
そう言って立ち上がる。
窓の外、午後の光が少し傾き始める。
昼と夕方の境目みたいにアンビエントな温度だった。観光客が群れ、ショッピング袋を提げた親子連れが写真を撮っている。
「ユウマ、撮ってあげるから並んで」
チイロが、スマホを片手に僕をつつく。
「は? いいよ別に」
「はいはい観測データだから」
返答より早く、彼女が肩に触れて引き寄せた瞬間――シャッター音。
――その一枚、まるでカップル写真。
僕は赤面し、チイロはスマホを覗き込んで爆笑していた。
「やっぱり絵になるねー、タナトス君。#尊い統計タグつけたらバズるやつだよこれ」
「やめろ……」
「これ、**ミサキ**に送ったらどうなるかなぁ〜。観測干渉グラフ、絶対跳ねるよ?」
「絶対やめて。お願いします!」
チイロはにやにやしながら親指をスクロール。「女子高生デート=観測値の一種ってまだ学会にないんだよね。論文化チャンス」
「論文化するな」
観測はひと段落し、街路樹の下のベンチに腰掛けた。ビル風が落ちてきて、彼女の髪がふわりと揺れる。チイロはコンビニで買ったジュースをストローで啜りながら、不意に真剣な顔になった。
「……ユウマ。ひとつだけ聞かせて」
その声色に、胸が跳ねる。
「学園祭の“あの日”を、どこまで覚えてる?」
空気が冷えた。
僕の脳裏に、断片的な映像が蘇る。
アスミの叫び、血の匂い、崩れる校舎、耳をつんざく悲鳴。だけど、そこから先が切れている。
「……断片だけだ。何人も倒れて……でも、気がつけばこの世界にいた。そこからは……」
言葉が途切れる。
チイロは目を伏せ、短く息を吐いた。
「やっぱり、――この世界そのものが、干渉フィールドを浴びてるのかも」
その声音は冗談めかしていなかった。
冷静で、けれどどこか必死な響きがあった。
彼女の視線はいつもの“ミームの海”ではなく、深い計算式の奥底みたいだった。
帰り道に駅前の雑踏の中、チイロが突然僕の腕を取った。
「え……」
そのまま人混みをかき分ける。まるで恋人のように。
チイロの指先が、ほんの一瞬、パルスみたいに僕の脈を測っていく。
「ちょ、ちょっと!」
「ねえユウマ。四角関係って、データ的に面白いんだよ」
「は?」
「観測者が三人より四人の方が、干渉パターンはもっと複雑になる。非線形相互作用ってやつ。だから――」
彼女はにやりと笑って囁いた。
「私も混ざってあげる。実験協力、よろしく♡」
心臓が爆発しそうになった。
データ収集?それとも挑発?
どちらとも取れるチイロの声。
そのとき、遠くから視線を感じた。
振り返ると――路地の影で、ミサキが立ち尽くしていた。
その隣にはアスミも。
二人とも無言で、こちらを見ている。
空気が一瞬で張りつめる。
尊い統計?
いや、これはもう臨界点を超えてる。
二人の背後に凄まじいオーラを見た。
ミサキの拳はわずかに震え、
アスミは無表情のまま唇を噛んでいる。
チイロは僕の腕を離し、軽く両手を広げる。
「被験者Y+A+M+C構成、四体干渉モード突入。群体的恋愛干渉=ハイブマインド現象。共鳴波形、もう測定不能レベル♡」
「遊んでないで説明しろ!」
「だってラブコメは科学だもん」
彼女は笑いながら、スマホでまた僕ら三人をフレームに収める素振りを見せた。
「はい、観測♡」
――けれど、その笑顔の奥に一瞬だけ、《ゲームマスター》の眼差しが覗いた。
「(でも……これはもう、監視対象外の乱流だな)」
彼女が心の中でそう呟いた気がして、僕の背筋に冷たいものが走った。
僕の心臓は、サーバーファンよりもうるさく跳ねていた。
笑いながら歩けるのは、もしかしたら今だけかもしれない。
観測は終わっても、余韻は続く。
笑い声とシャッター音、そして三角関係に新しい項が追加されたこと。
けれど、群体的に干渉しあう心の波形は、もはや僕の制御を超えていた。
ラブコメも科学も、臨界を超えればただの“混沌”だ。
――その混沌の中で、僕らは次に何を観測するのだろう。




