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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
固定点1981編

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117/122

EP122. 籍がある世界

 紙が一致して、映像も一致した。


 その時点で、私はもう「勘違い」で逃げられない。


 ――この世界は、私のいた世界じゃない。


 なのに、完全な異世界でもない。

 そこが最悪だ。


 私が「現実に触れないため」に作ったはずの避難用の固有名詞が、こっちではニュースで読み上げられる。

 しかも、生活の温度で、当然の事実として。


 国政連盟。黒川首相。南浜沖地震。

 そして――私が口にした瞬間に、世界が“先にあった”顔をする。


 固定される。

 その言葉が、いまの私には呪いじゃなく仕様に聞こえる。


 仕様なら逆算できる。

 逆算できるなら解除も設計できる。


 だから私は確かめる。


 世界が私の設定を拾うなら、

 私自身は――この世界に「席」を持ってしまっているのか。


 これは、その確認に失敗した記録だ。


 固定される。

 その言葉が、いまの私には「呪い」じゃなくて「仕様」に聞こえる。


 仕様なら、逆算できる。

 逆算できるなら、解除も設計できる。


 ――もし。


 もし、この世界が「設定を事実として適応する」なら。

 適応されて困る設定は、消せば消えるんじゃないか。


 なくせば、なくなる。

 なかったことにできる。

 上書きじゃなく、削除。


 それは感覚として、ほとんど仮想世界だ。

 現実が現実である条件――「勝手に変わらない」が崩れてる。


 だから私は、仮想世界の攻略法みたいな発想に引っ張られる。

 デバッグすればいい。


 ただし、ひとりでやると危険だ。

 危険というより、私の側が壊れる。


 それに、検証には観測者が要る。

 私の思考が世界を汚染してるなら、なおさら「他者の答え」は重要だ。


 ――リツコ。


 1981年の等身大の女子高生。

 私が未来の話を一切言えない相手。

 でも、私の生活を支えてしまう相手。

 支えられるほど、背後の視線が強くなる相手。


 私は公園から戻る道すがら、決める。


 リツコに質問をする。


 ただの質問じゃない。

 もし彼女が“仮想世界のアバター”なら、答えられない種類の質問。

 つまり、台本がないと返せない問い。

 世界線の自動生成が雑なら破綻する問い。


 あえて、そこを突く。


 怖い。

 でも怖いからこそやる。

 怖さは、検証の方向を指す。



 玖条家に戻ると、屋敷は相変わらず広い。

 広すぎて、空間が“気配”を飼っている。


 廊下のきしみ。

 障子の影。

 遠い部屋の気配。

 入ったことのない部屋。


 それら全部が、私を落ち着かせて、落ち着かせたぶんだけ、縛る。


 居間に行くと、リツコはテレビの前で雑誌をめくっていた。

 ちゃんと高校生の姿。

 足を崩して、肩の力が抜けてて、でも背筋が変にだらしなくならない。

 この子の「家の教育」は、姿勢じゃなく呼吸に入ってる。


 私が入ると、リツコは顔だけ上げて言う。

 「帰ってきた。どうだった?」


 言葉が普通だ。

 普通の言葉が、いまの私には凶器だ。


 「……情報、取れた?」


 私は頷きながら座る。

 座った瞬間、畳が柔らかい。

 柔らかいと心が緩む。

 緩むと固定が進む。


 ――だから私は、会話で自分の輪郭を締め直す。


 「リツコ。ちょっと、変な質問していい?」


 リツコが眉を上げる。

 「アスミさん、変な質問ばっかしてるけど、次はどの方向?」


 軽いツッコミ。

 助かる。

 この軽さは、私の逃げ道になる。


 私は笑いかけて、途中でやめる。

 笑い切ると“家”になる。


 「……答えにくかったら、スルーして」


 「うん。で?」


 息を整える。


 吸う、二拍。

 吐く、三拍。


 そして、私は“あえて”言った。


 「もしさ。――この世界が、誰かの“作り物”だったらどうする?」


 リツコが雑誌を閉じて、こっちを見る。

 笑わない。

 でも、馬鹿にもしない。


 その反応が、まず想定外だった。

 「作り物って、映画みたいな?」


 「……うん。そういう感じ」


 私は核心を隠す。

 未来も、ZAGIも、設定適応も言えない。

 だから抽象で刺す。


 「作り物なら、変えられるでしょ。設定とか。ルールとか」


 リツコは少し考える。

 考え方が、ちゃんと現実の人だ。

 「……変えられるかは、作り物の種類による」


 私は心臓が跳ねる。

 (……ちゃんと分類してくる)


 リツコは指を折って言う。

 「たとえば、“誰かの妄想”なら、作った人の気分で変わる。

  でも“遊び”として作ったものなら、ルールは逆に固いでしょ。

  ルールが固いから、遊びになる」


 その言い方。


 仮想世界の攻略本みたいなのに、妙に生活感がある。

 彼女は続ける。


 「で、もし作り物の中にいる人がルールを変えられるって思うなら、

  それってもう、その人が“管理者側”に触れてるってことじゃない?」


 「……触れてる」


 私の声が、自分でも嫌なほど小さい。


 リツコは首をかしげる。

 「うん。だから逆に怖い。

  ルールが変わるってことは、“誰かが変えた”ってことだし。

  変えた誰かは、責任を取る気があるのかって話になる」


 責任。


 その単語が、私の胸を殴る。


 責任。

 未来への責任。

 母がまだいない世界で、父が砂場にいた世界で、私が触れた瞬間から増殖する責任。


 私は、わざと軽い声を作る。

 「……じゃあさ、ルールを“消す”ってできると思う?」


 「消す?」


 「設定を無くす。なかったことにする。

  そうしたら、影響も無くなるみたいな」


 言ってしまった。

 言ってから、背中が寒くなる。


 背後の視線が、少しだけ濃くなる。

 湿る。

 生々しい。


 リツコは、呆れたみたいに息を吐いた。

 「アスミさん、そういうの……」


 笑うか?

 笑ってくれ。

 笑いで流してくれ。


 でもリツコは笑わなかった。

 「“消す”って、たぶん一番難しいよ」


 私は固まる。


 リツコは、言葉を選ぶみたいに続けた。

 「だって、消したいって思う時点で、“それがある”って知ってるでしょ。

  知ってるものって、消えない。

  消したいっていう意志が、逆にそこを強くする」


 ――やめて。


 それは、私が一番言われたくない答えだ。

 的確すぎる。


 リツコはさらに、悪気なく刺してくる。

 「なかったことにしたいなら、最初から触らないのが一番。

  でも触っちゃったなら、消すより、上書きの方が現実的」


 上書き。


 私は喉の奥が冷える。


 上書きってことは、また設定を作るってことだ。

 設定を作れば、また適応される可能性がある。


 つまり――出口のつもりで、さらに深い穴を掘る。


 私は笑いそうになる。

 笑えない。


 「……上書きって、例えば?」


 リツコは肩をすくめる。

 「“これはこういう意味じゃなかった”って、解釈を変えるとか。

  同じ出来事でも、呼び方で印象変わるでしょ?」


 呼び方。

 名前。

 固有名詞。


 新聞の中で、私の仮想が固有名詞になっていた。

 呼び方が固定を作る。

 固定が現実を作る。


 私は、自分の中で結論を出しかけて、慌てて止める。

 (……まだだ。まだ結論を出すな)


 結論は固定だ。

 固定は罠だ。


 私は、検証を進める。


 “アバターなら答えられない質問”の第二段階。


 私はわざと、あり得ない架空を持ち込む。


 「じゃあさ」


 心臓がうるさい。

 うるさい心臓は、世界に拾われる。


 「もし――“エクスエル”って国があるとする」


 リツコが瞬きをする。


 「エクスエル?」


 「うん。アメリカが母体になった新国家。

  ……どんな経緯でできたと思う?」


 これだ。


 もしリツコが“ただの生成キャラ”なら、

 ここで設定がない限り、雑な答えになるか、矛盾するか、フリーズする。


 けれど、リツコは、すぐに“話の骨格”を作ってきた。

 しかも、雑じゃない。

 「……アメリカが母体ってことは、内戦か分裂か、もしくは連邦再編だよね」


 私は目を見開く。


 リツコは続ける。

 「外圧で一気に割れるより、国内の亀裂の方が現実的。

  経済格差、宗教、移民、州の権限――そういうのが積もって、

  “合衆”の看板が保てなくなって、いくつかのブロックが『もう別でやる』って言う」


 ……高校生が言う内容じゃない。


 いや、言える。

 言えるけど、“言い方”が妙に報道寄りだ。


 放送部。

 リツコは報道にも詳しい。

 その設定が、ここで急に効いてくる。


 リツコは少し考えて、さらに補強する。

 「で、エクスエルって名前。

  たぶん“新しい理念”を掲げたんじゃない?

  旧アメリカの延長じゃなくて、“拡張”を名乗るとか」


 拡張。XEL。拡張の響き。

 私は背中が寒い。


 これは――即興じゃない。

 即興にしては筋が良すぎる。

 反射にしては構造が綺麗すぎる。


 リツコが私を見る。

 「……ねえ。なんでそれ聞くの?」


 来た。

 ここで私は踏み外せない。


 未来から来たとは言えない。

 設定が適応されるとも言えない。

 ZAGIもNOXも言えない。


 私は、曖昧な笑いで逃げる。

 「……なんとなく。頭の体操」


 リツコは半目になる。

 「頭の体操にしては重くない?」


 「重いのが好き」


 言ってから、しまったと思う。

 “好き”は固定だ。

 でもリツコは笑った。

 「ほんと変」


 その笑いが、救いになってしまう。

 救いは、定着の入口。

 背後の視線が、また強くなる。


 嫉妬。

 所有。

 「その笑いは私のものじゃない」と言われているみたいな圧。

 私は、笑い返せない。


 リツコは雑誌をぱらっとめくり直して、さらっと言う。

 「でもさ。作り物だとしても、生活は続くよ。

  朝ごはん食べて、学校行って、部活やって。

  そういうのって、誰が作っても意外と同じになる」


 その言葉が、私の胸に刺さる。


 生活。

 続く。

 同じ。


 同じになる、ということは、馴染むということだ。

 馴染んだ瞬間、“帰る”という概念が溶ける。


 私は、ひとつだけ確かめたくなる。

 確かめたくなってしまう。


 「……もし、作り物の中で“設定を作った人”がいたら。

  その人は、どうしたらいい?」


 リツコは少しだけ黙る。

 黙って、私の顔を見た。

 「……自分が作ったって自覚してるなら」


 その前置きが、怖い。


 「責任持つしかないんじゃない?」


 私の喉が鳴る。


 責任。

 また責任。


 私は、視線を逸らす。

 背後を感じる。

 濡れた圧。


 女の感情。

 生々しいもの。


 私は思う。


 リツコはアバターじゃない。

 少なくとも、雑な生成物じゃない。

 この子の言葉は、生活の重みがある。


 ――なのに。


 私の架空は事実として刷られている。


 この矛盾。


 “架空の設定”と“私の知らない彼女たちの実在”が、同じ世界に混在している。

 混在しているのに、破綻しない。

 破綻しないように、誰かが整えている。

 その整え方は、赤ランプみたいに優しくて、優しいぶんだけ、逃げ道を削る。

 (……私は、どこまで作ってしまった?)


 そして、もっと怖い問いが残る。

 (……次に私が思いついた設定は、また“印刷される”のか?)


 私は、二度と「タイムマシン」なんて言葉を、軽く思いつけなくなる。

 それでも、逃げ道がないなら検証し続けるしかない。


 今の私は、“帰りたい”と“固定されたくない”の間で、最悪な形の実験を始めてしまっている。


 リツコが雑誌から顔を上げて言った。

 「アスミさん。変なこと考えてる時、眉間がすごい」


 私は反射で眉間を触る。

 「……うるさい」


 リツコは笑う。

 「ほら。笑った。生きてる」


 生きてる。


 その言葉が、また固定点になりそうで、私は笑えなかった。



 世界が“設定”を拾うなら、次に確かめるべきはひとつしかない。

 ――私自身は、この世界に「席」があるのか。


 あるなら最悪だ。

 ないならもっと最悪だ。

 どっちに転んでも、固定の匂いがする。


 私は湯呑みの縁を指でなぞってから、顔を上げた。


 「リツコ。……私さ」


 声が一拍だけ遅れる。

 遅れるのは慎重さじゃない。怖さだ。言葉が世界に刺さる怖さ。


 「影村学園に……籍、あるの?」


 自分でも分かるくらい唐突だった。

 唐突すぎて、逆に嘘っぽい。

 でも嘘で濁すより、唐突で誤魔化す方がまだ生き残れる。


 リツコは一瞬だけ瞬きをして、それから「ふうん」と短く息を吐いた。

 「……そこ、気になる?」


 「……うん」


 それ以上は言えない。

 未来から来たとも、記憶があるとも、ないとも言えない。

 ただ、“自分の存在証明”だけが要る。


 リツコは立ち上がった。畳の上でも姿勢が崩れない。

 「調べる。名簿、家にあるから」


 「家にあるんだ……」


 声が思わず素で出た。

 名簿が「家にある」――その響きが、理事の家の現実を殴ってくる。


 リツコは肩をすくめる。

 「理事の家だから」


 昨日と同じ切れ味。

 それが一瞬、私を笑わせかけて、笑わせない。

 笑ったら“ここ”が完成する。


 「待ってて。ちょっと奥の部屋」


 リツコが廊下へ消える。

 襖が閉まる音が、やけに静かで――静かすぎて、私は逆に落ち着けなくなる。


 ひとりになった瞬間、屋敷の空気が厚くなる。

 床のきしみ。遠い気配。入ったことのない部屋。

 そして背中に張りつく視線。


 (……見てる)


 女の視線。

 湿っていて、生々しくて、“感情”の圧が強すぎる。


 守られると強くなる。

 関係が結ばれると強くなる。

 つまり私はいま、最悪な方向に進んでいる。


 だから私は、さらに悪手を打つ。


 テレビ。


 “映像”は紙より改ざんしにくい。

 改ざんできない、じゃない。しにくい。

 しにくいだけで、私は縋ってしまう。


 私は立ち上がって、居間のテレビの前に行く。

 木枠の古いやつ。画面が少し丸い。厚みがある。


 リモコン――を探して、手が止まる。

 (……ない)


 当然だ。

 昭和だ。

 テレビは自分で歩けない。チャンネルも勝手に変わらない。

 人間がひねる。


 私はテレビの横に回り込んで、チャンネルのダイヤルを見つける。

 私はニュースっぽい番組に合わせる。

 画面が砂嵐になりかけて、安定する。


 白黒じゃない。カラーだ。

 色がくすんでる。肌が少し黄ばんで見える。

 それが逆に、生々しい。


 画面の中で、アナウンサーが硬い顔をしている。

 背広が重い。髪型が固い。声が今より低くて、抑揚が少ない。


 『――続いて、海外情勢です』


 画面が切り替わる。


 国旗。

 見慣れない。

 見慣れないのに、“それっぽい”。赤と青と白の、どこかで見た配置。

 でも線の意味が違う。


 アナウンサーが言った。

 『――大西合衆圏の中核国家であった旧米州連合は、本日未明、正式に国号を変更し、

  「エクスエル連邦」を名乗ることを宣言しました』


 私は、音が消えた。

 正確には消えてない。

 テレビは喋っている。でも私の脳が、音を拒否している。

 (嘘……でしょ……?……今、なんて言った?)


 “エクスエル連邦”。


 さっき私が、冗談みたいに置いた言葉。

 検証のために投げた架空名。

 その名前が、テレビの中で、国家の宣言になっている。


 背中が冷える。

 冷えるのに汗が出る。

 汗が出ると、皮膚の境界が曖昧になる。

 曖昧になると、世界に拾われる。


 私は必死で息を吐く。


 吐く、三拍。


 画面の中では、記者会見の映像が流れている。

 マイクが多い。フラッシュが荒い。

 演説している男――大統領、なのか。肩幅が広い。笑顔が硬い。


 『――新体制の理念は「拡張と再編」。経済圏の再構築を優先し……』


 拡張。再編。


 リツコがさっき言った言葉が、そのままニュースに出てくる。

 私は喉の奥で小さく笑いそうになって、笑えない。

 これは面白いじゃなく、恐ろしい一致だ。

 (……私の思考が、本当に世界に反映されてる?)


 非科学。

 でもこの世界の方が、私の“非科学”を現実にしてくる。


 映像が切り替わる。

 地図。矢印。経済圏。

 説明がやたら具体的で、やたら断定的。


 そのとき、居間の襖が開いた。


 リツコが戻ってきた。

 手に、紙束。名簿っぽい。


 「見てた?」


 声が、いつも通りすぎて、私は余計に崩れる。


 「……リツコ、いま……」


 私はテレビを指差す。指が震える。震えたくないのに震える。

 震えるのは恐怖じゃない。整合の破綻だ。


 「エクスエルって……」


 リツコはテレビ画面を一瞬見て、ふっと息を吐いた。

 「ああ、これ。今日やたら騒いでるやつ」


 ――今日。

 今日という単位で、世界が動いている。

 私の知らない“今日”で、国が名前を変えている。


 リツコが私を見た。

 「だから聞いたんでしょ? エクスエル」


 合点が行った顔。

 まるで私がニュースを知っていて、確認しにきたみたいな顔。


 違う。

 私は知らなかった。

 私はさっき作った。

 作ったはずなのに、世界が先に名乗った。


 私は口を開けて、閉じる。

 言える言葉がない。

 言えない言葉しかない。


 リツコは机の上に紙束を置いて、淡々と言った。

 「で。名簿、見つけた」


 その淡々が残酷だ。

 私の世界がひっくり返っているのに、彼女は紙を持ってきた。

 生活の速度は落ちない。

 落ちない生活が、私を固定する。


 「……あった」


 リツコが指先で、紙の一箇所をとん、と叩いた。

 「矢那瀬アスミ。二年。転入扱い。籍、あるよ」


 籍がある。


 つまり私はこの世界で“最初から居た”扱いになっている。

 新聞の固有名詞と同じだ。

 架空が現実になった。

 そして私の存在も、現実に織り込まれた。


 私は声が出ない。

 出ないまま、背後の視線だけが濃くなる。


 女の視線。

 湿っていて、生々しい。

 嬉しそうに、怒っている。


 ――ほら。居場所できたね。

 ――ほら。逃げ道減ったね。


 そんな温度。


 リツコは、私の顔色を見て、少しだけ言い方を柔らかくした。

 「……大丈夫? ほんとに混乱してるだけ?」


 混乱。

 その言葉が優しいのが嫌だ。

 優しさは、定着の潤滑油だ。


 私はやっと声を出す。

 「……大丈夫」


 大丈夫じゃない。

 でも大丈夫と言わないと、彼女の“助けるルート”が発動する。

 助けられるほど、視線が強くなる。

 強くなるほど、私はここに縛られる。


 リツコは頷いた。

 「じゃ、ひとまず。学校には行ける。

  籍があるなら、変に騒がれない」


 変に騒がれない。

 その言い方が、救いの形をしている。


 救いの形は、罠の形でもある。


 テレビの中では、エクスエル連邦の特集が続いている。

 経済圏、軍再編、国号変更、理念――。


 私は画面を見ながら、自分の中で結論の手前に立つ。


 私の言葉が世界に刺さる。

 私の“仮説”がニュースになる。

 そして私は、この世界に籍を持ってしまった。


 最悪だ。

 でも最悪は、まだ底じゃない。


 だって今の私は、確定してしまった。


 ――存在が。


 リツコが、いつもの調子に戻ろうとして、わざと明るく言う。

 「ほら。とりあえず座って。ニュース、そんな怖い顔で見るもんじゃない」


 怖い顔。


 私は自分の顔を触って、気づく。

 眉間が、またすごい。

 私は笑おうとして、笑えない。


 背後の視線が、さらに強くなる。

 嫉妬。所有。

 あるいは、祝福みたいな圧。


 ――ようこそ。

 ――ここがあなたの世界。


 テレビのアナウンサーが、最後に言った。

 『――エクスエル連邦政府は、近日中に「新国民憲章」の草案を公表する見通しです』


 憲章。

 草案。

 公表。


 紙になる。

 残る。

 未来まで残る。


 私は、口の中で小さく呟く。

 (……私、どこまで作ってしまうの)


 リツコは知らない。

 知らないまま、私にお茶を入れようと立ち上がる。


 その背中が、あまりに普通で――普通だからこそ、私は怖かった。


 普通は、固定だ。


 そして私はもう、この世界の“普通”に足を踏み入れている。


 籍がある。


 その事実は、安心でも恐怖でもなく――

 拘束だった。


 私はここに“いることになっている”。

 新聞も、テレビも、名簿も、私の存在を否定しない。


 否定しないということは、証明が完成しているということだ。


 世界が私を受け入れたんじゃない。

 世界が、私を組み込んだ。


 固定。


 でももう私は、固定という言葉を怖がらない。


 仕様なら、逆算できる。

 逆算できるなら、境界も探せる。


 問題は、どこまでが私の影響で、どこからが元からの歴史なのか、その線が見えないこと。


 私は設定を置いた。

 エクスエル。

 それはニュースになった。


 私は自分の籍を疑った。

 それは名簿にあった。


 じゃあ次は?


 私が“タイムマシン”を本気で想像したら、この世界にタイムマシンの研究史が生まれるの?


 私が“消したい”と願ったら、それは消える?


 リツコの言葉が、静かに残る。


 ――消したいって思う時点で、もう強くなる。


 だから私は、軽々しく消さない。


 軽々しく作らない。


 でも、止まらない。


 だって私はもう、この世界に籍を持ってしまった。


 存在が確定した以上、観測をやめることは、逃避になる。


 私は逃げない。


 怖いけど、怖いまま進む。


 背後の視線が、今日も濃い。

 湿っていて、生々しくて、嫉妬と所有が混ざっている。


 ――ようこそ。

 ――ここがあなたの世界。


 違う。


 ここはまだ、私の世界じゃない。


 でも私は、ここにいる。


 固定される前に、私は固定の構造を解体する。

 私はまだ、帰ることを諦めていない。


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