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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
固定点1981編

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114/121

EP119. 闇に優しくない仮宿

 校門から少し歩いただけで、世界の“解像度”が変わった。

 昭和の夜は暗い――というより、暗さがちゃんと暗さとして残っている。

 LEDみたいに親切に輪郭を塗り直してくれない。

 だから、見えないものが増える。見えないものは、だいたい勝手にこちらを見てくる。


 背後の視線は、まだある。

 校舎を離れても、放送室の赤ランプを消しても、私の背骨に張りついたまま剥がれない。


 リツコは迷わない。迷いのない歩き方は、それだけで地図だ。

 私はその地図の端を掴むみたいに、半歩後ろを歩く。

 ――半歩。これが、今夜の私の生存距離。


 そして、門をくぐった瞬間に理解する。

 今夜の怪談は、校舎の中だけの話じゃない。

 “泊まれる場所”が現れたとき、人は一番簡単に捕まる。


 落ち着くな。

 馴染むな。

 明日を当たり前にするな。


 ……そんな命令を、私は自分の胸の奥に押し込んで歩く。


 校門から少し歩いただけなのに、景色の密度が変わった。

 街灯は黄色く、闇は闇のまま残る。昭和の夜は、暗さが“やさしい”んじゃなくて――手加減をしない。


 リツコは迷わない。迷いがない歩き方は、それだけで地図だ。

 私はその地図の端を掴むみたいに、彼女の半歩後ろを歩く。


 背後の視線は、まだいる。

 校舎を離れたのに、視線だけが私の背骨に張りついている。


 (……追ってくるの、やめてくれない?)


 口にしたら“確定”する。

 だから私は、息だけで不機嫌を表現して歩く。吸う、二拍。吐く、三拍。

 それで、なんとか自分の輪郭を保つ。


 リツコが言った。


 「近いから。……でも、驚かないで」


 驚かないで、って言われた瞬間、驚く準備をするのが人間だ。

 そして――私は驚いた。


 門が、ってレベルの門じゃない。


 黒い鉄門。背が高い。門柱が石で、名前が彫られている。

 『玖条』。

 字が、重い。字の重さで家格がわかるタイプのやつ。


 門の内側に、闇が続いている。

 闇の中に、木がある。庭がある。庭があるというより、敷地がある。


 「えっ……ここ、家?」


 私の声が、馬鹿みたいに薄い。

 リツコは当然みたいに頷いた。


 「うん。玖条家。……約三千坪」


 「……は?」


 また間抜けな声が出た。今日だけで何回“は?”って言ってるんだろ。

 三千坪。数字だけは理解できるのに、脳が映像を拒否する。


 三千坪って、校庭かよ。

 いや、校庭より怖い。校庭は共有物だけど、これは個人の領地だ。


 (……ああ、そうだ。玖条家)


 脳のどこかに、古いメモがある。

 玖条リリ――同じ苗字。

 “影村学園の理事”の家系。

 前に、リリ本人から聞いた気がする。軽い口調で、当たり前みたいに。


 当たり前の格差が、ここでは“景色”になる。


 敷地内を歩く。砂利が鳴く。

 砂利の音が、夜に刺さる。音が高い。乾いている。

 昭和の家は、音が生きている。音が生きてる場所は、人の気配も増幅する。


 屋敷が見えた。


 大きい。いや、デカ過ぎる。

 大きいのに、けばけばしくない。

 “代々の家”っていうのは、新築の豪邸より怖い。時間が積もってるから。


 玄関に灯りがあって、磨かれた木の床が見える。

 入った瞬間、匂いが変わった。


 木。畳。線香の残り香。

 あと、冷たい空気――人が多い家の“しつけられた清潔”の匂い。


 (……落ち着く、って言ったら負けだ)


 でも、落ち着いてしまう。

 落ち着きは、定着の入口。

 私は今、“定着しない努力”をしてるのに、空気の方が私を抱き込もうとする。


 リツコが靴を揃える。揃え方が正しい。

 私は靴を揃えながら、現実を揃えようとして、揃えられない。


 「……家の人、いるの?」


 「いるけど。今夜は会わせない。面倒だから」


 面倒。

 この規模の家で“面倒”って言えるの、強い。

 強いけど、強さが“慣れ”だ。慣れは、固定点の匂いがする。


 通されたのは、客間みたいな部屋だった。

 畳。座布団。低い机。

 時計が、静かに針を進めている。秒針の音が、やけに大きい。


 昭和の秒針は、時間を殴ってくる。


 「お茶、持ってくる」


 リツコが立ち上がった。

 私はその背中を見て、ふと思う。


 (……私、いま、どこまで安全?)


 安全という言葉の中身が、昭和では変わる。

 鍵より人間。

 システムより関係。

 端末より声。


 声――放送。

 赤ランプ。

 スピーカー。


 今日の怪談回の声が、まだ耳の奥に残っている。

 “気になる場所には立つな”

 “立ったら、向こうが気づく”


 私は、いま、玖条家という“気になる場所”にいる。


 湯気と一緒にリツコが戻ってくる。

 湯呑みを置く手つきが静かで、無駄がない。

 放送部っぽい雑さがない。

 この人、放送部だけど――別の顔がある。


 私は一瞬、壁の時計を見た。

 秒針の音が、やけに大きい。


 (……1981年)


 数字を頭の中で並べる。


 私は2025年で17歳。

 ここが昭和56年だとすれば、44年前。


 父は2025年で50歳。

 1981年なら、6歳。


 母は2025年で42歳。

 私を産んだのは25歳のとき。


 ――つまり。


 (……まだ生まれてない)


 母が、存在していない世界。


 その事実が、遅れて胸を刺す。


 私は湯呑みを持つ手を安定させる。

 震えたら、不自然だ。


 リツコは何も知らない。

 当然だ。

 彼女は1981年の女子高生で、私はそれを壊してはいけない。

 壊したら、未来が歪む。

 壊したら、母が消えるかもしれない。

 壊したら、私が消える。


 それを説明できない。

 できるわけがない。


 「……すごい家だね」


 私はそれだけ言った。

 未来の知識も、理事の家系の話も、口にしない。


 リツコは肩をすくめる。


 「昔からあるだけ。大きいのは、古いから」


 その言い方が、等身大だ。

 誇らない。自慢しない。

 “当たり前”として扱う。


 その無自覚な強さが、少しだけ羨ましい。

 私は畳の目を見つめながら、心の中で整理を始める。


 この世界は過去だ。

 私の家はまだ存在しない。

 私の母はまだいない。

 父は小学生。


 つまり、私は物理的にも社会的にも“居場所がない”。

 (……帰る場所が、まだ建ってない)


 笑いそうになる。

 笑えない。


 リツコが静かに言う。

 「そういえば……天城の話、さっき反応してたよね」


 私は一瞬だけ息を止める。

 止めない。止めたら怪しい。


 「ちょっと、気になっただけ」

 それだけ。


 未来では天城は巨大な意味を持つ。

 でもここでは、ただの“新しい学校”だ。


 リツコは続ける。

 「天城ってさ、影村のあとにできた学校なんだよ」


 私は頷く。

 知っている。

 でも知らないふりをする。


 「名前、皮肉だって言われてる」

 「皮肉?」

 「影の村と、天の城。

  上下のイメージ、わかるでしょ?」


 わかる。

 格差。序列。意識。


 けれど私は軽く頷くだけに留める。


 リツコは湯呑みに視線を落とし、続けた。

 「影村は昔の地名から。でも天城は、あとから付けた名前。

  “上”を名乗りたい人たちの学校、って揶揄されることもある」


 その声音に、ほんの少しだけ棘がある。


 彼女は理事の家の子だ。

 けれど無邪気に権力を肯定していない。

 そこに、安心してしまう。

 安心は、危険だ。

 「学生運動のときも、天城と影村はバチバチだったらしいよ」


 私は目を上げる。

 「……運動?」


 「うん。七〇年代。

  今よりもっと酷かったって」


 彼女は、教科書を読むみたいにじゃなく、実際に聞いた話を語る声で言った。


 「校舎に火炎瓶が投げ込まれたこともあるって。

  机を積んでバリケードにして、廊下封鎖して。

  イデオロギーとかいうやつでさ」


 火炎瓶。


 その単語が、赤ランプより鮮明に脳裏に浮かぶ。


 木造校舎。

 燃える。

 煙。

 叫び。


 リツコは続ける。

 「特に酷かったのは、今の先生たちが学生だった頃」


 私は、すぐに名前が浮かぶ。


 生島。


 あのいやらしい目。

 「教師たち?」


 「うん。あの人たち、学生のときはすごかったらしいよ。

  理屈と怒りで、沸点が高かったって」


 沸点。


 私は思い出す。

 今日の生島の目。

 あれは“抑えてる目”だった。


 抑えてるだけで、消えてない。


 「校舎、燃えたって聞いたことある」


 リツコは淡々と言う。

 「机は全部ひっくり返されて、ガラスは割られて、

  誰が味方で誰が敵かわからない空気だったって」


 私は想像する。


 赤ランプが灯る放送室。

 その前の時代は、炎の赤だったってことか。


 同じ赤でも意味が違うだけ。

 「……怖いね」


 私はそれだけ言った。


 本当はもっと言える。

 歴史の帰結も、社会の推移も、あの運動の失速も、その後の空気の変質も。


 でも言えない。

 言ったら、未来を確定させる。

 言えないということは、自分の知識を、内側で腐らせることだ。


 リツコは私を見た。

 「怖いよ。でもさ、今は違うでしょ」


 たしかに違う。


 でも――

 あの生島の目は、火炎瓶を投げた側の目かもしれない。


 私はそれを飲み込む。


 言わない。

 絶対に言わない。


 私は未来から来たかもしれない人間だ。

 けれどここでは、ただの“少し様子のおかしい転入生”。


 それでいい。


 それ以上になった瞬間、世界は私を修正しに来る。

 窓の外の闇が、少しだけ濃く見えた。


 あの視線まだいる。


 学園を離れても、三千坪の敷地に入っても、消えない。

 (……警告?)

 それとも……

 (……嫉妬?)


 キョウジの声が脳裏をよぎる。

 “こいつは嫉妬してるだけだ”


 私は息を整える。

 吸う。二拍。

 吐く。三拍。


 リツコは何も知らない。

 彼女はただの1981年の女子高生だ。

 火炎瓶の話を“割と最近起きた話”として語れる世代。


 私は、それを壊してはいけない。

 母がまだいない夜。

 私の家がまだ建っていない夜。

 それでも私は、誰かの家の客間で、湯気の立つお茶を飲んでいる。


 この状況そのものが、いちばん静かな怪談だ。


 そして私は、未来を一言も漏らさないまま、この夜をやり過ごさなければならない。


 湯呑みの縁に、熱が残っている。

 私はその熱を指先で確かめるふりをして、再び呼吸を整えた。


 ――だめだ。落ち着け。

 落ち着きすぎると、ここに“馴染む”。


 馴染んだ瞬間、世界線は私を「ここにいた人間」に書き換える。

 それがZAGIの狙いだとしたら、私は今、最も危険な場所にいる。


 畳。湯気。障子の影。

 優しいものが揃いすぎている。

 優しさは、定着の潤滑油だ。


 「……アスミさん」


 リツコが、急に声色を変えたわけじゃない。

 ただ、ほんの少しだけ、真面目の割合を増やした。

 彼女は湯呑みを置いて、私の顔をまっすぐ見た。


 「もしかして」


 心臓が跳ねる。

 言われる前にわかる。


 「……記憶、なくしてる?」


 来た。


 私は笑いそうになる。

 笑えないのに。

 この状況で“記憶喪失”は、あまりにも便利なラベルだ。


 便利で、危険だ。


 「……なくしてない」


 反射で言いそうになって、飲み込む。

 言い切ると矛盾が増える。

 曖昧にすると怪しさが増える。


 私は、表情を“困ってる”に寄せた。

 「……たぶん、ちょっと混乱してる」


 それは嘘じゃない。

 混乱の桁が違うだけだ。


 リツコは「そっか」と小さく頷いた。

 頷き方が、“信じた”じゃなくて、“受け止めた”だ。


 この子、強い。

 規範の強さじゃなくて、生活の強さ。


 「ね。変なこと言うけど」


 リツコは言い方を柔らかくした。

 まるで自分が変な人みたいな顔をして。

 「……もし、記憶喪失だったとしてもさ。別に、責めないから」


 責めない。

 その言葉が、意外なほど軽かった。


 重く言われたら私は潰れていた。

 軽く言われたから、逆に胸の奥がきゅっと痛む。


 「必要なものがあったら言って。協力する」


 協力。


 その単語が危険だと、私は知っている。

 協力は、関係の糸を結ぶ。

 糸は、固定点を作る。


 でも私は、拒否できない。


 拒否した瞬間、孤立する。

 孤立はこの時代では命取りだ。

 しかも私は“言えない”せいで、自分の位置を守る武器が少なすぎる。


 「……ありがとう」


 言ってしまった。

 舌が勝手に。


 リツコは、少しだけ笑って、話題をずらした。

 「ひとまず、部屋を用意する。自由に使っていい」


 その言い方が“家主”じゃなくて“友だち”のやり方だった。

 お嬢様のはずなのに、変なところで庶民的だ。


 私は思わずツッコミが出る。

 「……自由に、って。私、居候?」


 「居候」


 リツコが言葉を繰り返してから、軽く眉を動かした。

 「……一晩だけなら、客」


 「一晩で済む保証がないのが怖いんだけど」


 言ってから、しまったと思った。

 “怖い”を出すと、話が深くなる。

 でもリツコは深追いしなかった。

 代わりに、ちょっとだけ口元を緩めた。


 「まあ、うちは広いから。たぶん一晩じゃ足りない」


 「足りない?」


 「家が」


 ……家が足りないって何。


 私が目を瞬かせると、リツコはほんの少しだけ照れたように言った。


 「その、えっと……屋敷、広いでしょ」


 「うん」


 「歩き回らないでね。探すの大変だから」


 「探す?」


 「アスミさん」


 言い方が真面目なのに、内容が妙に生活感がある。

 「……迷子になると、私でも探しきれない可能性がある」


 「は?」


 思わず素が出た。


 リツコは肩をすくめる。

 「冗談じゃないからさ。三千坪」


 数字を出すな。

 数字は現実を刺す。


 私は笑ってしまいそうになる。

 笑うと、この家が“普通”になるから嫌なのに。


 「……三千坪で迷子って、もはや修学旅行じゃん」


 「そう」


 即答。


 「だから、勝手に探検しない。夜は特に」


 「夜は特に?」


 リツコは咳払いして、少し声を落とした。

 「……古い家だから。暗いし。危ないし」


 危ない。

 その単語が、さっき校舎で言ったのと同じ形をしていた。


 でも今度は、怖さの方向が少し違う。

 校舎の危ないは制度。

 屋敷の危ないは生活。


 生活の危ないは、妙に安心する。

 安心してしまうのが危険なのに。


 リツコは、そこからさらに笑い話の方へ逃げた。

 「それに、私も入ったことない部屋があるし」


 私は湯呑みを持ったまま固まる。

 「……え?」


 「ある」


 淡々。


 「屋敷ってそういうもの」


 そういうもの、って何?

 怖いのは怪談回じゃなくて、こっちだ。


 「なんで入ったことないの」


 「鍵が合わない。あと、理事室とか書庫とか、勝手に入ると怒られる」


 怒られる。

 その言い方が普通の高校生だ。

 “理事の家”の子でも、怒られる概念は同じらしい。


 私は思わず笑ってしまった。

 「……理事の家なのに?」


 「理事の家だから」


 切れ味がある。

 正しい子の切り返し。


 その瞬間だけ、空気が少し明るくなった。

 湯気が、やっと普通の湯気に見える。

 でも私の内側は、明るくならない。


 だって。

 入ったことのない部屋。

 鍵が合わない部屋。

 理事室、書庫。

 ――情報の匂いがする。


 情報は、私の武器になりうる。

 でも情報は同時に、罠でもある。

 ZAGIが「固定化」を狙っているなら。

 この屋敷は最高の装置になる。


 食事。寝床。安全。

 優しさ。笑い。日常。

 人間が「ここで生きていける」と錯覚する条件が揃っている。

 そして錯覚した瞬間、観測が“生活”に変わる。

 生活に変わった観測は、戻れない。

 私は笑いながら、内心で冷える。


 (……私、今、根を張りかけてない?)


 畳の目が、根の模様に見える。

 嫌な想像。


 リツコが立ち上がって言った。

 「じゃ、案内する。……ついてきて」

 その声が、さっき校門で聞いた「行こ」と同じ温度だった。

 私は頷いて立ち上がる。

 立ち上がった瞬間、足元が少しふわっとする。

 疲れじゃない。

 “安心”のふわっとだ。


 安心は麻酔だ。

 痛みを隠す。

 痛みが隠れると、人は動けなくなる。


 廊下に出る。

 長い。そして静かだ。木の床が、きゅ、と鳴る。


 「ほんとに歩き回らないでね」

 リツコが念押しする。

 「迷ったら、呼んで。……声、大きめに」


 声。

 放送部の声。

 校内放送の声。

 同じ声が世界線を揃える。

 私は喉の奥が少し冷たくなる。


 「……声、大きめにね」


 私が復唱すると、リツコは「そう」と頷いた。


 「うち、広いから。声は武器」


 その言い方が妙に現実的で、私は少しだけ救われた。

 この子、ただの優等生じゃない。

 生活の中で戦い方を知ってる。

 ――それが、また厄介だ。

 厄介なのは、居心地がいいから。

 やがて客間らしい部屋の前で、リツコが襖を開けた。


 畳。布団。小さな机。

 花瓶。掛け軸。

 “泊まれる”セットが完璧すぎる。


 「ここ。好きに使って」


 私は一歩踏み出して、畳に足をつけた。

 その瞬間。

 胸の奥で、何かが小さく鳴った。

 固定点の針が、糸を引く音。


 (……だめだ)


 私は、笑顔を作る。

 作ってしまう。

 「……助かる」


 言ってしまう。


 リツコは安心したみたいに頷いた。

 「よかった。……じゃ、私は隣。何かあったら呼んで」


 呼べる。

 頼れる。

 守られる。


 それが、今日の私には必要。

 でも同時に、今日の私が一番恐れているもの。

 襖が閉まる。

 静か。

 私は一人になって、布団の前に座った。


 (……ZAGIの目的が、“ここで暮らせる”って錯覚させることだとしたら)

 私は今、最短距離で罠の中心にいる。

 客間の匂いは、古い洗剤と畳の甘い湿り気。

 怖い匂いじゃない。

 怖くない匂いが、一番怖い。


 そのとき、廊下のどこかで、床がきゅ、と鳴った気がした。


 リツコかもしれない。

 家の人かもしれない。


 ――あるいは。


 あの視線の主が、屋敷の“入ったことのない部屋”から動いた音かもしれない。


 私は笑えなかった。

 でも、さっきよりは、少しだけ息ができた。

 畳の上に、私はまだ“異物”として座っている。

 異物のままなら、まだ戻れる。


 戻れるはずだ。


 私は自分に命令する。


 観測しろ。

 介入はその後。

 ……そして、絶対に“明日”に慣れるな。


 畳の目は整っているのに、私の中の線だけが揃わない。

 湯呑みの縁の熱は、やさしい。秒針の音は、容赦がない。

 やさしさと容赦のなさが同居している場所ほど、危険だ。人はそこで「生きられる」と勘違いする。


 リツコは何も知らない。

 1981年の女子高生として、現実的な心配をして、普通の冗談を言って、私に“部屋”を用意した。

 その優しさが、私を救う。

 救うからこそ、私を固定しようとする力にもなる。


 ——もしこれがZAGIの目的だとしたら。

 「逃げ場」ではなく「居場所」を与えて、戻る理由を薄めていく。

 人は鎖より布団に縛られる。檻より客間に住みつく。


 私は未来を言えない。

 言った瞬間、母の不在が“確定”してしまう気がする。父の幼さが“現実”になってしまう気がする。

 私の存在が、未来のどこかを欠けさせる気がする。


 だから私は、異物のままでいる。

 畳の上に座っても、客間に布団があっても、明日を誘われても。

 異物のままなら、まだ戻れる。――戻れると信じられる。


 廊下で、きゅ、と床が鳴った。

 リツコかもしれない。家の誰かかもしれない。

 あるいは、入ったことのない部屋の奥で、あの視線の主が笑ったのかもしれない。


 私は湯呑みを置き、息を整える。


 吸う、二拍。

 吐く、三拍。


 落ち着くな。

 ……でも、落ち着け。


 この矛盾を抱えたまま、私は昭和五十六年の夜を越える。


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