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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
固定点1981編

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113/121

EP118. 夕闇ラヂオ

 赤いランプって、あんなに小さいくせに、世界の主導権を奪う。


 点いた瞬間から、空気が“私たちのもの”じゃなくなる。

 誰かの声が校舎の背骨を通って、全員の耳へ同じ速度で届く。

 同じテンポ、同じ間、同じ息。

 つまり、同じ心拍。


 昭和の校内放送は、便利な連絡網じゃない。

 校舎という閉じた器に、いちばん強い「共通の現実」を流し込む装置だ。


 私は“揃えられる”のが嫌い。

 ノード・ゼロで、位相が揃った瞬間に逃げ道が削れるのを、身体が覚えてる。


 なのに、ここの揃え方は妙に人間的で、温度があって、雑で、優しい。

 だから余計に厄介だ。


 これは、赤ランプが点いてから消えるまでの記録。

 戌神キョウジの声が、影村学園の輪郭を描き直した夜。

 そして――私の背中に、確かに“何か”が触れた夜。


 放送室の赤ランプが点いた瞬間、部室の空気が変わった。


 笑いが止むとか、姿勢が正されるとか、そういう儀式的な変化じゃない。

 もっと露骨で、もっと物理的。


 「音」が校舎の輪郭を作り直す。

 昭和の校内放送は、スピーカーという血管で校舎全体に同じ脈拍を流す。

 同じ声、同じテンポ、同じ息遣い。

 それは便利で、平和で――そして、怖い。


 私は椅子の背に指をかけたまま、息を整えた。


 吸う、二拍。

 吐く、三拍。


 “揃えられる”のが嫌いだ。

 ノード・ゼロで嫌というほど知った。

 位相が揃うと、逃げ道が削れる。


 けれどこの部屋では、その揃えられ方があまりに“人間的”で――

 だからこそ厄介だった。


 戌神キョウジが、マイクを握り直す。


 古いダイナミックマイク。

 金属の冷たさ。太いコード。

 触っただけで「電気」が生々しく伝わる。

 現代みたいに、ノイズ除去で磨かれた声じゃない。

 息も、舌の湿り気も、声帯の微振動も、そのまま流れる。


 キョウジは笑った。

 軽い笑い。でもそれは“準備運動”だった。

 「――よってらっしゃい、聞いてらっしゃい。影村学園・放送部、水曜は怪談回。

  今日はな、投稿が来てる。実体験。つまり、盛ってないやつ」


 シズクが横で、嬉しそうに両手を握りしめる。

 「今日のやつ、ガチだよ。ケイ先輩が『これいい』って言ったもん」


 「“いい”の基準が怖いんだけど」


 私が小声で言うと、リツコが同じ小声で返してきた。


 「……黙って聞いて。いま喋ると、拾われる」


 拾われる。

 言葉が音になった瞬間、空気に溶けて校舎に流れる。

 この部屋の会話は、放送機材にとって“餌”になりうる。


 私は口を閉じた。


 赤ランプが点灯する。

 その光は、NOXの警告灯よりずっと弱いのに――

 私の皮膚には、ずっと強く刺さった。


 キョウジは息を吸う。

 ゆっくり。深く。

 吸う音がマイクに入るぎりぎりのライン。

 “狙ってる”。


 そして声が落ちた。

 スピーカー越しに校舎へ落ちる声。


 「投稿者は、二年。匿名。

  内容は――“気になる場所”の話だ」


 音圧が変わった。

 それまでの軽さが、すっと引く。

 代わりに、低域が少し増える。

 声を太くするんじゃない。“空気の密度”を増やしてくる。


 プロだ。

 口先じゃない。

 呼吸と間で、聴き手の心拍を握るタイプ。


 私は背筋に、嫌な冷たさを覚えた。

 冷たさは恐怖じゃない。

 恐怖より先に来る、**“確信に近い不快”**だ。


 キョウジは続ける。

 「その子さ。最近、教室でも、校庭でも、どうしても気になる場所があるんだって」


 “どうしても”。

 その四文字は、呪いの入り口になる。


 「見ちゃいけないって言われたわけでもない。

  でも、そこだけ空気が違う。

  ――うまく言えないけど、そこに立つと、急に自分が静かになる」


 静かになる。

 それは“落ち着く”じゃない。

 “消える”に近い。


 私は指先を握り込んだ。


 キョウジは、ほんの少しだけ笑う。

 笑いが、優しい方向じゃない。

 “わかるだろ?”という方向。


 「で、投稿者はさ。先生に相談したんだって。

  『ここ、なんか変なんです』って」


 ここで、息をひとつ置く。

 置き方が上手い。

 聴き手の脳が勝手に続きを補完する“間”。


 「先生――古株の先生な。

  その場所を見て、ちょっと黙ったあと、こう言った」


 声を、ほんの少しだけ低くする。


 「――『そこは、昔、死んだ子がいた場所だ』」


 部室の空気が、きしんだ。

 本当に音が鳴ったわけじゃない。

 私の脳が、きしむ音を勝手に当てた。


 シズクが「うわぁ……」と小さく声を漏らす。

 その声が逆に、現実の釘になる。

 現実の釘がないと、怖さは簡単に増殖する。


  キョウジは淡々と続けた。


 「今から十年前――って言ってるから、たぶん七〇年代。

  影村学園でも、学生運動みたいなことが盛んだった頃がある」


 七〇年代。

 昭和の“熱”が一番危険な形で残る時期だ。


 「当時さ、天城と影村は、ガチで対立してたらしい。

  今みたいに“交流試合”とか“合同文化祭”とかじゃなくて、

  もう、向こうの名前が出るだけで空気が荒れる」


 天城。

 私はその単語に反射で身構えた。

 NOX絡みの記憶が、どこかで微細に疼く。

 世界線が違っても、名前は同じ場所を叩く。


 この世界にも天城がある。


 キョウジの声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

 柔らかくなるのに、残酷さが増す。

 それが語り部の怖さだ。


 「対立が激しくなって、デモみたいなのが起きて、

  校庭で揉めて、廊下で揉めて、

  どこで火がついたかわからないくらい、学園全体が“熱”を持ってた」


 “熱”。

 今の放送部の熱と違う。

 あれは人の熱じゃない。

 集団が作る、火の熱だ。


 「で、ある日――女の子が死んだ」


 ここで音が落ちる。

 音が落ちると、世界が近づく。


 「誰が押したとか、誰が悪いとか、

  そういう話にされる前に、もう、死んでた。

  喧騒の中で。

  声の中で。

  ——たぶん、誰の声も、その子の声を聞いてなかった」


 私は息を止めかけて、止めない。

 止めると、心臓が“音”になる。

 音になる心臓は、放送に同期しやすい。


 キョウジはゆっくり言った。

 「その子が死んだあと、学園で妙なことが続く」


 妙なこと。

 この一言で、人は自分の中にある“妙なこと”を総動員する。

 だから怖い。


 「夜の校舎で、放送が勝手に入る。

  誰も喋ってないのに、スピーカーから『……』って、息みたいな音がする。

  校庭の隅だけ、いつも砂が湿ってる。

  雨じゃないのに」


 湿る。

 湿り気は、古い怪談の主成分だ。


 「で、その投稿者が気になってた場所――教室の端、窓際。

  そこに立つと、静かになる場所」


 キョウジは、声を少しだけ近づけた。

 マイクに唇を寄せるわけじゃない。

 **“近い声の出し方”**をする。

 耳の奥に触る声。


 「そこが、その子の――死んだ場所だった」


 部室の空気が、完全に止まった。


 止まったのに、赤ランプだけが点いている。

 赤い光が、鼓動みたいに見える。


 「その子さ……“気になる場所”って言ったけど」


 一拍。


 「正確には、“立たされる場所”だったらしい」


 部室の空気が、微妙に変わる。

 シズクが小さく息を吸う。


 キョウジは続ける。

 「最初はね、なんとなく気になる、だったんだって。

  視界の端に、そこだけ色が薄い。

  そこだけ、空気が冷たい。

  でもさ」


 間。


 「三回目からは、“自分の足が勝手にそこに向く”」

 

 私の指が、椅子の背に食い込む。

 キョウジは笑わない。

 「本人は嫌なんだよ?

  立ちたくない。

  でも、気づくと立ってる」


 静か。


 「でね。

  ある日、クラスメイトに言われたんだって」


 ほんの少しだけ、声色を変える。


 「“なんでいつもそこに立ってるの?”」


 部室の空気が止まる。


 「本人は気づいてなかった。

  “いつも”立ってることに」


 私は、喉の奥が冷たくなる。


 キョウジは続ける。


 「先生に相談したあと、その子は

  その場所に立つのをやめようとした」


 一拍。


 「でも、立てなくなったのは――

  “その場所の方”だった」


 誰も動かない。


 「ある日、投稿者がふと教室を見たら、

  窓際のその場所に――」


 声が、さらに近づく。


 「“誰かが立ってた”」


 冷たいものが、背中をなぞる。


 キョウジは淡々と語る。


 「制服は、今と少し違う。

  顔は、見えない」


 見えない、の言い方がいやらしい。


 「でもね」


 一拍。


 「その“立ち方”が、投稿者と同じだった」


 私は息を忘れる。


 「右足に少し重心をかけて、両手を前で組む癖。

  首を、ほんの少し傾ける癖」


 部室の誰かが、無意識に姿勢を直す。


 キョウジは続ける。


 「で、先生が言ったんだって」


 低く。


 「“ああ、あの子、最近静かだから”」


 空気が凍る。


 「昔、死んだ女の子。

  喧騒の中で、声が誰にも届かなかった子」


 一拍。


 「だからね」


 声が、ほとんど囁きになる。


 「“いまは、静かにしてる”らしい」


 その瞬間、キョウジは、わざと数秒、無音を作った。

 赤ランプだけが光っている。


 そして。


 「ただ――」


 全員が微かに身構える。


 「その投稿者が、その場所に“立たなくなった日”から

  湿ってるのは、砂だけじゃなくなった」


 誰も呼吸しない。


 「黒板の下。

  窓の桟。

  机の脚」


 ゆっくり。


 「足跡が、増えた」


 私の心臓が一度、強く鳴る。


 「濡れた足跡。教室の中まで。

  でも誰も気づかない。

  投稿者以外は」


 さらに落とす。


 「その子だけが、足跡を見てしまう」

  しかもね。

  足跡は、いつも“自分の席の前”で止まる」


 誰かの喉が鳴る。


 キョウジは最後に、静かに言った。


 「先生が最後に言ったんだってさ」


 低い。


 「“あの子は、代わりを探してるんだよ”」


 完全な沈黙。


 「“静かにしてくれる子を”」


 赤ランプが、やけに赤い。


 そして。


 キョウジは、笑わずに締める。


 「だから――気になる場所には立つな。

  立ったら、向こうが気づく。

  立ち続けたら――」


 間。


 長い間。


 「そのうち、“自分が立ってない方”になる」


 赤ランプが消える。


 キョウジは投稿者の言葉としてこう締めた。


 「最後に先生が言ったんだってさ。

  『そこに立つと静かになるのはね、

   “あの子が静かにしてる”からだよ』って」


 その瞬間、背筋に冷たい針が一本通った。

 ただ怖い、じゃない。


 ――“静かにしてる”。


 それは優しさにも聞こえる。

 それが一番、嫌だ。


 優しさの顔をしたものほど、逃げ遅れる。


 キョウジは、息を吐いて、少しだけ明るく戻した。

 「……以上。

  今週の怪談回。

  信じるも信じないも、君たち次第。

  ただし、気になる場所には——立つな。

  立ったら、たぶん、向こうが気づく」


 赤ランプが消える。


 消えた瞬間、校舎は“ばらける”。

 同じ声から解放されて、人は個別に戻る。

 でも私は、戻り切れなかった。



 拍手は起きない。

 拍手をしたら、怖さが軽くなる。

 怖さを軽くしたくない空気が、放送部にはある。


 シズクが嬉しそうに言う。

 「ね!今日のやつ、すごくない? ぞわってしたでしょ!」


 私は返事が遅れた。


 ぞわってした。

 したけど、あのぞわは“演出”だけじゃない。

 何かが、私の神経の裏を撫でた。


 そして――来た。


 キョウジの背後。

 あの位置。

 廊下の光が届かない場所。


 強烈な視線。


 さっきの黒髪の影と同じ質。

 湿っていて、粘っていて、“人間の感情”に近すぎる視線。


 ……警告。

 あれはたぶん、私に向けた警告。


 「どうだった?」


 ケイが私に聞く。

 声は淡いのに、逃げられない質問。


 私は言葉を選んだ。

 選び方を間違えると、この“怪談”が私を材料にする。

 「……上手い。怖い。

  それと、嫌な一致がある」


 「嫌な一致?」


 「音が、世界を揃えるところ」


 ケイは少しだけ目を細めた。

 理解したのか、面白がったのか、判別がつかない。


 リツコが私の横で、小さく言った。


 「……アスミさん、顔色悪い。大丈夫?」


 私は正直に頷いた。

 こういうとき、強がると余計に崩れる。


 「私、ホラー、苦手なんだよね」

 

 言ったら、シズクが驚いて笑った。

 「え、ツッコミ強いのにホラー苦手なの!? かわい……」


 「言いかけた言葉、飲み込んで」


 「はい!」


 リツコが真面目に続ける。


 「……理由はどうあれ、学園に泊まるわけにはいかないでしょ。

  うち、来る? 近いから」


 その言い方は規範的で、正しくて、

 でもそこに、ちゃんと人間の温度があった。


 私は素直に、頭を下げる。

 「……助かる。ありがとう」


 言ってしまった瞬間、胸が少し痛む。

 “助かる”は定着の第一歩だ。

 でも今は、助からないと詰む。


 やがて空気が、ほどける。

 同じ声から解放されて、部室に雑談が戻る。

 ……戻るはずだった。

 そのとき。


 コツ。


 誰かの靴底が、木の床を踏む音。

 小さく、乾いた音。

 部室の中じゃない。


 廊下。

 放送室の前の、長い廊下。


 コツ……コツ。


 一定の間隔。


 私は反射で耳を澄ます。

 「……誰かいる?」


 シズクが振り返る。


 でもドアは閉まっている。

 廊下の電灯は点いていない。


 音は、ゆっくり近づく。


 コツ……コツ……コツ。


 そして。


 放送室のドアの前で、止まった。

 誰も動かない。


 ケイが静かに言う。

 「……誰か、外?」


 キョウジは何も言わない。

 マイクを持ったまま、わずかに目を細める。


 私は、喉が冷たくなる。

 足音は、そこで止まったまま、動かない。

 ドアノブは回らない。ノックもない。

 ただ――いる。

 そういう“在り方”。


 数秒。

 長い数秒。


 そして。


 コツ。


 今度は、逆方向。

 ゆっくり、廊下の奥へ遠ざかる。


 コツ……コツ……コツ。


 ……消えた。


 誰も、笑わない。


 シズクが小さく言う。

 「……え、誰?」


 返事はない。


 その沈黙の中で、彼女が私を見る。

 そして、何気ない顔で言う。

 「ねえ、アスミさん」


 私は視線を上げる。


 「さっき、窓際立ってたよね?」


 世界が、止まる。


 「……え?」


 「放送始まる前。

  なんか、窓のとこに立っててさ」


 笑いながら。無邪気に。何言ってんのよこの子。


 「右足にちょっと重心かけて、手、前で組んでた」


 血の気が引く。

 その立ち方。

 さっきキョウジが言った立ち方。


 私は、椅子に座っていた。

 ずっと。


 「立ってない」


 声が少し低くなる。


 シズクは首をかしげる。

 「えー? 立ってたよ?

  ね、リツコ」


 リツコが困った顔をする。

 「……私、見てない」


 ケイは無言。

 キョウジだけが、私をじっと見る。

 その視線は、さっきまでの軽さをしていない。


 そのとき。部室の隅。

 消えたはずの機材のランプがちり、と赤く光った。


 一瞬。本当に、一瞬。


 誰も触れていない。

 スイッチは落ちている。

 赤ランプが、もう一度だけ、点いた。

 そして消えた。


 全員が、同時にそれを見る。

 音はない。

 でも、さっき遠ざかったはずの足音が今度は、部室の“中”で聞こえた。


 コツ。


 すぐ背後。

 私は、振り向かない。

 振り向いたら、確定する。

 背中に、冷たい気配。

 湿った空気。

 

 そして誰もいないはずの窓際から、きしっと床板が鳴った。


 シズクが、笑いながら言う。

 「……え、やだ。誰?」


 その笑いが、少し震えている。


 キョウジが、ゆっくり言う。

 「……立つなって、言っただろ」


 その声は、放送のときより低い。

 冗談じゃない。

 (……代わりを探しているっていうの?)


 もし、さっきの怪談が“放送”じゃなくて、呼び水だったとしたら?

 赤ランプは、怪談を流すためじゃない……“あちら側”と回線を繋ぐための装置だったとしたら?

 私は今、立っていない。

 でも、窓際に――“立っている私”が、もう一人いるかもしれない。


 背後の気配が、ほんの少しだけ、近づく。

 そして赤ランプが今度は、誰も触れていないのにゆっくり点いた。


 消えない。


 部室の空気が、再び揃い始める。

 同じ心拍。

 同じ呼吸。

 同じ現実。

 そして、どこかで、もう一人の足音が、私と同じリズムで鳴った。


 その時……。

 「……あー、はいはい」

 キョウジが、わざとらしく息を吐いた。


 軽い声。

 でもその軽さは、放送のときとは違う。

 演出じゃない。

 調整されている声だ。


 「今日はここまでな」

 誰に言ってるのか、わからない。


 キョウジはマイクを持ったまま、ほんの少しだけ目を伏せる。


 そして。口元が微かに動いた。

 声にならない音。

 言葉というより、“拍”を整えるようなリズム”。


 私はそれを聞いた。

 正確には、聞いた気がした。

 音はない。

 でも空気が、一瞬だけ“ずれた”。

 背中の冷気が、ふっと薄くなる。

 赤ランプが、ちり、と瞬いて消えた。完全に沈黙。


 シズクが息を吐く。

 「……なに今」


 ケイは何も言わない。

 リツコは、私を見ている。

 キョウジは、いつもの軽い顔に戻った。


「悪い」


 私に向かって、言う。


 「ちょっと空気悪かった」


 空気?……霊とか怪異とか言わないで空気?


 「……今、何かした?」

 私の声は、少し低い。


 キョウジは肩をすくめる。

 「気のせい」


 そう笑う。


 「怖い話のあとってさ、みんな無意識に揃うんだよ。

  呼吸とか、視線とか。

  揃いすぎると、変なの寄ってくる」


 その言い方。

 冗談の顔。でも内容は本気。


 「だから、ちょっと崩した」


 私は、ぞくりとする。

 崩すと揃えない。

 ノード・ゼロと逆の発想。


 「ひとまず……ありがとう」

 言ってしまう。

 胸の奥の緊張が、ほんの少しだけほどける。

 でもその瞬間、背後の視線が――強くなる。


 薄くなったはずなのに、今度は“近い”。

 湿り気が濃い。

 私に向けられている。

 はっきりと。


 これは直感。これは――おそらく女性。

 間違いない。

 でも、幽霊じゃない。

 悪霊でもない。

 もっと、生々しい。


 嫉妬とか、執着とか、代替とか“感情が腐らずに残っている”視線。


 私は喉がひりつく。

 キョウジが、ふっと私を横目で見る。

 その目は軽くない。読んでいる。


 「……まだいる?」

 私は、頷く。


 キョウジはほんの少しだけ眉を上げる。

 「そっか」


 それだけ。

 怖がらせない。

 大げさにしない。


 「今日は大丈夫」

 軽い声。でも言い切った。

 その言い切り方が、妙に安心をくれる。


 安心って……それは危険だ。

 私は、キョウジを見る。


 軽いし、ふざけている。

 でも、揺らがない。

 この人は、祓うんじゃない。

 空気を読む。揃いを壊す。それが武器。


 安心と、不安が同時に湧く。

 こういうタイプは、危険だ。


 距離を詰めてくるくせに、核心を言わない。

 私は一瞬だけ、ユウマのことを思い出す。

 あの理屈っぽい目。真顔で世界を疑う癖。

 無駄に距離が近いくせに、本質では絶対に触らせない。


 ……似てる。

 いや、違う。


 ユウマはもっと、無遠慮に踏み込む。

 キョウジは、踏み込む前に空気をいじる。

 違うのに思い出した瞬間、頬が、熱い。


 うわぁ……しまった。


 キョウジが、にやっとする。

 「なっ……何よ?」


 「……何がってさ、顔赤いぞ」


 はあぁ最悪。

 「照明のせいだから!」


 「蛍光灯は青白いぞ」

 

 即答……くっ!!

 「……なんでもない!」

 私は視線を逸らす。


 キョウジは肩を揺らして笑う。

 「へぇ……“誰か”思い出した?」


 はい図星。

 「違う!」

 「違わない顔してる……もしかして好きな奴?」


 「黙れ!」

 

 シズクが「え!? なにそれ!」と食いつきかけて、ケイが無言で制する。


 キョウジはさらに追撃。

 「守ってくれるタイプ?」


 「守られない」


 「じゃあ守る側?」


 私は言葉を飲み込む。

 ユウマの顔が浮かぶ。

 あいつは守るとか守らないとかじゃない。

 勝手に巻き込む。

 勝手に背中を預けてくる。

 勝手に未来を引っ張る。

 ……くそ。なんて言えば良いのかわからない。


 キョウジが小さく笑う。

 「でもアスミって、顔、わかりやすいな」


 「うるさい!」

 

 「でもさ」

 急に声が少し低くなる。

 「今は、ここ」

 

 その一言で、空気が戻る。

 冗談じゃない。


 現実。


 「向こうのこと考えてると、足元すくわれるぞ」


 私は、はっとする。


 背後。

 視線が、じわりと強まる。

 まるで言われたみたいに。

 ——“足元を見ろ”


 キョウジは、わざと明るく言う。

 「ほら、帰るぞ。今日はもう十分怖がらせた」


 私は思う。この人は、安心をくれる。

 同時に、不安を増幅させる。

 距離が近い。

 でも、何を見ているのか読めない。

 その曖昧さが、妙に異性として意識に刺さる。


 嫌じゃない。

 嫌じゃないのが、困る。

 背後の視線が、さらに濃くなる。


 女性のもの。

 はっきりわかる。


 嫉妬。


 選択に対する反応。

 守られるな。

 ひとりで立て。

 でも私は、今は選ばない。

 ひとりで立たない。

 それは逃げじゃない。


 観測。


 私は息を整える。

 吸う、二拍。

 吐く、三拍。


 キョウジが、横で小さく言う。

 「……なあ」


 「何よ」


 「明日も来いよ」


 軽い声。


 でも今度は、冗談じゃない。

 私は少しだけ、視線を合わせる。


 「……考えとく」


 背後の視線が、ぴたりと止まった。

 選択に反応する。

 確信。

 この学園の“何か”は、私が誰を選ぶかを見ている。

 そして今夜。

 私は二つの視線の間にいる。

 ひとつは、湿っていて、粘る。

 もうひとつは、軽くて、笑う。

 どっちも、危険だ。

 どっちも、少しだけ救いだ。


 私は笑えなかった。

 でも、完全に怯えてもいなかった。

 それが、一番まずい気がした。



 校門を出ると、夕暮れはもう夜に寄りかけていた。


 昭和の街灯は暗い。

 LEDじゃない。白くない。

 黄色くて、ぼんやりしていて、そのくせ影だけは濃く落とす。


 闇が、ちゃんと闇をしている。


 放送部の面々が門の内側でわいわいしている。


 シズクが両手をぶんぶん振る。


 「じゃ、またねアスミさん! 明日も来てよ! 木曜はリクエスト曲回だよー! 特集もやるかも!」


 「……明日?」


 自分でも分かるくらい、声が一拍遅れた。


 “明日”。


 その単語が、私の足首に絡みつく。

 この世界に“明日”を持つことは、この世界に“居る”という宣言に近い。


 シズクが首をかしげる。


 「え、明日ないの?」


 「……あるけど」


 「でしょ? なら来る!」


 単純。

 単純なのに、羨ましい。


 ケイが淡々と手を振る。

 「お客、逃がさないから」


 「だから怖いって」


 私が言うと、ケイは薄く笑った。

 「怖いのは演出。

  でも、居場所は本物」


 その一言が、少しだけ刺さる。


 戌神キョウジが肩を回しながら言う。

 「逃げるなら今のうち、って言ったろ」


 軽い声。

 軽いのに、視線は一瞬だけ真面目だ。


 冗談。

 冗談なのに、背後の視線がまだ消えない。


 校門の外へ一歩出る。


 その瞬間。


 ――匂いが変わる。


 職員室の匂い。

 紙と灰皿と、湿ったネクタイの匂い。


 「おーい」


 背中に、まとわりつく声。


 生島トオルが、門柱にもたれて立っていた。


 ポケットに片手。

 ネクタイはゆるく。

 ワイシャツの襟が少し汗でくすんでいる。


 若い。若いのに、若さを武器にしている。


 目が、嫌だった。


 「矢那瀬」


 呼び捨て。距離の詰め方が、勝手だ。


 「スカート短いぞ」


 目線が、落ちる。

 その“落ち方”が、生理的に無理だった。


 「風邪ひくぞ?」


 “風邪ひくぞ”。


 言葉は心配の形をしている。

 でも声色が違う。

 声の奥に、軽い愉悦が混ざっている。


 私は胃がひやっとした。

 触られてないのに、触られた感じがする。

 反射で言い返したくなる。

 「別に関係ないですよね」とか

 「規定内です」とか

 「見ないでください」とか。


 でも、女子が強く出ると“生意気”に変換する。


 私は一瞬、黙る。

 その沈黙が、悔しい。


 生島が一歩近づく。

 「最近の子はなあ。露出多くてなあ。

  玖条、お前、生徒会だろ? ちゃんと指導しろよ?」


 リツコの肩がわずかに強張る。

 「……校則違反ではありません」


 声は冷静。

 でも怒りが、ほんの少し混ざっている。


 生島は笑う。

 「いやいや、違反とかじゃなくてさ。

  “印象”って大事だろ?

  男は勘違いするからな?」


 その言い方。


 “男は”。


 自分をその“男”に入れてるくせに、外側から言うみたいな顔をする。


 気持ち悪い。


 私ははっきりと、気持ち悪いと思った。

 視線が、足から膝へ、また上へ。


 目が、嫌だ。


 そのとき。


 「先生」


 軽い声が、割り込んだ。


 戌神キョウジ。


 一見すると、何も考えてなさそうな顔。


 「今度ぶん殴っときますね」


 空気が一瞬、凍る。


 シズクが「ちょ、ちょっと!」と小さく笑う。

 ケイは無表情。

 リツコは眉を寄せる。


 生島が眉を上げる。

 「冗談きついなあ、戌神」


 笑っている。

 でも目は笑っていない。


 キョウジは肩をすくめる。

 「え、冗談ですよ。

  先生が本気でスカート見てるわけないじゃないですか」


 言い方が、軽い。

 軽いのに、刺さる。


 “見てるわけない”。

 否定の形で、事実を置く。


 生島の頬がわずかに引きつる。

 「お前なあ」


 「だって先生、さっきから目線忙しいですよ」


 にこっと笑う。

 笑いながら、真正面から見ている。

 逃げ道を与えない笑顔。


 生島は一瞬、視線を逸らした。

 ほんの一瞬。


 それだけで、空気が変わる。


 私は初めて、息が吸えた。


 キョウジはさらに軽く続ける。

 「先生、俺ら放送部なんで。

  声とか視線とか、わりと敏感なんすよ」


 “敏感”。


 その単語が、さりげなく刃になる。


 生島は鼻で笑う。

 「生意気だなあ。最近のガキは」


 「最近のガキ、いいでしょ?

  強いし」


 さらっと。何もなかったみたいに。


 私は、初めてキョウジを見る。


 軽い。

 本当に軽い。


 でも、軽さで重いものを流している。

 私はさっきまで、あの軽さを警戒していた。

 今は、少しだけ違う。


 リツコが私の腕をそっと引く。

 「行こ」


 その声は、静かで、確かだ。


 私は頷く。


 生島が最後に言う。

 「玖条、ちゃんと見とけよ。

  迷子なんだろ? 変なこと起こすなよ?」


 迷子。


 勝手にラベルを貼る。


 キョウジがまた笑う。

 「先生、それ俺らの仕事じゃないっすよ」


 「なんだよ」


 「変なこと起こすのは、だいたい大人でしょ」


 静か。


 誰も笑わない。


 生島が口元を歪める。

 「……減らず口だな」


 「褒め言葉です」


 そのままキョウジは、私をちらっと見る。


 一瞬だけ、真面目な目。

 “気にすんな”と言葉にしない目。

 私は視線を逸らす。


 背後。


 また、あの視線。


 黒い。

 湿っている。


 まるで言われているみたいだ。


 ——“今夜、守られるな”

 ——“今夜、ひとりで立て”


 でも私は、選ぶ。


 ひとりで立たない。

 怖いからじゃない。


 選択だから。


 「……帰ろう、リツコ」


 声が少しだけ震えた。


 キョウジが横から言う。

 「また明日な、アスミ」


 また軽い。


 でも今は、その軽さがありがたい。

 生島は、まだこちらを見ている。


 その目を、キョウジがわざと塞ぐように前に立つ。

 「先生、俺ら帰ります。

  補導とかしないでくださいね?」


 「するかよ」


 「ですよね。じゃ」


 くるりと背を向ける。


 その無造作な背中が、妙に頼もしく見えた。

 さっきの怪談の声も、生島のいやらしい声も、キョウジの軽い声も。

 全部、まだどこかで残響している。


 私は歩きながら、思う。

 この世界で一番怖いのは、黒髪の影じゃない。

 善意の顔をした視線だ。


 でも、それを軽く弾き返す声がある。

 それが、いまの私の救いだった。

 救いなのに、私はまだ背後の視線を感じていた。


 警告。

 あるいは、嫉妬。


 キョウジが言った言葉が蘇る。


 “こいつは嫉妬してるだけだ”。


 私は笑えなかった。

 この世界の夜は、暗い。

 暗い夜は、声をよく響かせる。


 そしてきっと――

 響いた声は、まだ校舎のどこかで残っている。


 赤ランプが消えた瞬間、校舎はばらけた。

 同じ声から解放されて、みんなはそれぞれの雑談と笑いに戻る。

 それが普通のはずなのに、私は戻り切れなかった。


 怪談の怖さは、内容じゃない。

 「静かにしてる」という優しさの顔をした言葉が、いちばん遅効性で刺さる。

 逃げるタイミングを奪う。

 “ここにいていい”って錯覚させる。


 そして、校門。


 生島トオルの言葉は、心配の形をしていた。

 けれど、目が違う。

 昭和の空気は、その気持ち悪さを「気にしすぎ」で片づける方向に働く。

 だから余計に、胃の奥が冷える。


 戌神キョウジの軽さは、私の嫌いなタイプの軽さだったはずなのに、今夜だけは、その軽さが盾になった。

 “冗談”の形をした刃で、いやらしさの逃げ道を塞いでくれた。


 それでも背後の視線は消えなかった。


 守られるな、ひとりで立て――

 そういう命令みたいな圧。

 警告なのか、嫉妬なのか、区別がつかないのが最悪だ。


 私はホラーが苦手だ。

 だから今夜は、ひとりで立たないことを選んだ。

 怖いからじゃない。選択だから。


 ただ、選んだ瞬間に分かった。

 この学園の“何か”は、私が選ぶたびに、ちゃんと反応する。


 ――声が残る。

 昭和の夜は暗い。暗い夜は声をよく響かせる。

 そして響いた声は、校舎のどこかで、まだ私を呼んでいる気がする。


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