EP11.量子ネコとデコヒーレンス
観測されるまでは、存在は揺らぎのままだ。
誰かの声も、誰かの正体も、箱の中に隠されている。
けれど今日、その箱がひとつ開いた。
そして僕は改めて思い知らされる。
彼女はただの観測者じゃない。
僕の過去にも、未来にも、深く干渉してくる存在だって。
放課後。
僕らはNOXの本拠地、通称「ノード・ゼロ」の奥へと足を踏み入れた。
蛍光灯は半分しか点かず、明暗のムラが床にまだら模様を描く。壁際のサーバーラックからは低周波のファンノイズが絶え間なく唸り、サーバーの低音が「水圧の轟き」を思い出し、僕はそこで一瞬冷や汗をかく。ケーブルは黒い蛇のように縦横無尽に這っている。机の上には半分壊れたオシロスコープや、用途不明の量子素子、そして未提出の実験レポートが山積みだ。黒板には《因果パラメータツリー》《観測干渉モデル》《RT60誤差の寄与率》といった数式が書き殴られている。
そして、《合同学園祭/非常灯/逆走》と走り書きされていて、僕は思わず視線を逸らす。
――どこからどう見ても「研究施設」か「陰謀組織」であって、普通の高校生が放課後に集う空間ではない。
そんな場違いな空気の中央に、矢那瀬アスミが立っていた。
制服の袖をきっちり折り返し、冷たい視線を組んだ腕の上から滑らせる。
「……なるほど。噂には聞いていたけど、これが“NOX”のアジトか」
チイロがどかりと椅子に腰を下ろし、背もたれをぎしぎし鳴らす。
「ようこそ、ノード・ゼロへ。ここが私たちの“観測点”」
「観測点?」
アスミが眉をひそめる。
代わりに、僕――いや、“俺”が口を開いた。
「俺たちNOXの目的は……失われた並行世界を“観測”し、その干渉を記録し、必要なら修正することだ」
“俺”という語尾が響いた瞬間、
アスミの瞳がぴたりと細まる。
続けざまにミサキが言葉を添える。
「要するに……世界の歪みを調べて、壊れそうになったら止めるの。私たちの現実を守るために」
アスミはその言葉を反芻するように目を細めた。
「現実を守る……ふん、壮大なスローガンね。
でも、それだけ?」
沈黙を割ったのは、舞台女優さながらに大仰な足取りで一歩前へ出たレイカだった。
「違うわ!」
長い黒髪を振り、胸に手を当て、舞台照明でも浴びているかのように堂々と声を張り上げる。
「青春と尊い瞬間を舞台に刻み、後世へと伝える――それが我が役割!」
「それお前の趣味だろ!」
すかさずトウタの鋭いツッコミが飛ぶ。
アジトの空気が一瞬だけ笑いに揺れた。その隙を逃さず、チイロが真顔で言葉を繋ぐ。
「……でも、本質的にはそう。私たちの役割はそれぞれ違う」
彼女は指を一本一本折りながら列挙する。
「岡崎ユウマ――コードネーム《タナトス》。死と記録を背負う観測者」
「霧島ミサキ――《オーロラ》。光の偏向、揺らぎを解析する調停者」
「亞村トウタ――《スペクター》。群衆のノイズを拾い上げる記録者」
「火宮レイカ――《サイレン》。物語を拡散し、群衆心理を増幅させる煽動者」
「立花ミナト――《ルート》。論理と数理で因果を組み替える監視者」
最後に自分の胸を軽く叩いた。
「そして私、雲越チイロ――《ゲームマスター》。ルールを読み解き、盤面を設計する統率者……だ」
チイロ先輩、加入順番的には新人なのに、凄いな。
説明を締めるその声は落ち着いていたが――アスミの視線は僕に戻る。
「ユウマ……今、“僕”じゃなくて“俺”って言ったわね」
「え?」
空気が一瞬止まる。
「あなたが“タナトス”として話す時、口調が変わる。“僕”じゃなく“俺”。その瞬間、観測者じゃなくて、死を背負う者になる。それも仮面のつもり?」
「……っ」
図星を突かれ、胸の奥がざわめく。
すぐさま割り込む声があった。
「ユウマの体調管理は、私がしてる」
ミサキだ。拳を握りしめて、真っ直ぐな目で僕を射抜く。
「夜更かししすぎとか、ログ取りすぎとか、全部知ってる。だから“タナトスの顔”も、私が一番知ってる」
その言葉に、アスミの瞳がピクリと動いた。
「“一番知ってる”? ふぅん……ずいぶん自信ありげね」
「自信じゃなくて事実」
ミサキは一歩踏み出し、声を強める。
「オーロラはタナトスの光を支える役割。だから私は、ユウマの全部を理解してる」
「あら……でも、彼とW1を一緒に生きたのは私なんだけど?
あなた、非常灯の色が二系統に揺れて、答えを奪われた瞬間の彼を見たことある?水槽が砕けて、“逆走警告”の電子音に囲まれながら立ち尽くした彼を?私の目に焼き付いてるのは、そういう“彼”よ。あなたが知らない顔」
聞いていて、またあの光景が脳裏に焼き付く。
「え?……アスミちゃん?もしかして熱でもあるの?
私が見てあげようか?」
ラボの空気がビリビリと帯電する。
赤い光と青い光が干渉し合い、
見えない火花が散っているかのようだった。
「ちょ、ちょっと待って!」
慌てて両手を振る僕。だが次の瞬間、チイロがパシンと机を叩いた。
「はぁいストーップ! 女子の対立軸、尊い! でも統計的に暴走の危険あり! 一旦中和しまぁーす!」
ノートPCを操作すると、プロジェクターに即席グラフが映る。
《尊い vs 嫉妬 臨界グラフ》――赤のバーが完全に振り切れていた。
「見なさい、尊さ指数ピーク。ここで爆発したらノード・ゼロごと吹っ飛ぶわ」
「そんな統計あるか!」僕が叫ぶ。
「でもミーム的には正しい♡」
チイロは涼しい顔で肩をすくめる。
⸻
アスミは僕に歩み寄り、低い声で問いかけた。
「ねえ、ユウマ。……いや、タナトス。どうしてそんな危険な役割を背負ってまで活動してるの?」
僕は深く息を吸い、少し芝居がかった声で答えた。
「……誰かがやらなきゃ、失われた声は消える。死んだ人間の記録も、壊れた世界の残響も、放っておけば闇に沈むだけだ。だから俺は“タナトス”。死と記録を背負う観測者。少しでもカッコつけてないと……正直、怖くて立っていられないからな」
唇を歪めて笑みを作る。
「でも、ダークヒーローってのは強いだろ? 強い方が、守れるんだ」
アスミはしばし黙し、やがて目を細めて言った。
「……やっぱり変わらないのね」
⸻
そこでチイロが再び割り込んだ。
「ただし。アスミ、あなたには釘を刺しておく」
「釘?」
「そう。あんたの目的は“過去改変”。でもそれは最低最悪のリスク要因なんだが」
ホワイトボードに数式を走らせる。
《ΔW = f(改変量) → 破綻確率 P》
「過去をいじれば因果の破綻は指数関数的に増える。あなたが固執すればするほど、世界は崩壊するんですよねー」
アスミの顔に一瞬影が落ちる。
「……わかってる。でも、それでも諦められない」
チイロが「だから怖い」と真顔で被せる。
「だからこそシュレディンガー。箱を開けるまでは、猫は生きても死んでもいる。でも勝手に開けたら世界が死ぬ。覚えておいて」
アスミは沈黙の後、小さく頷いた。
「……約束する」
⸻
チイロがモニターを操作し、新しい行を追加する。
被験者A:シュレディンガー(矢那瀬アスミ)
役割:観測と干渉、そして境界の記録。
文字が青白く光を放ち、ノード・ゼロ全体の空気が変わった。まるで世界の方程式がひとつ書き換わったように。
「ここに、新たな観測者が加わった!」
レイカが机の上に飛び乗り、両手を広げて叫ぶ。
「名はシュレディンガー! 青春舞台オペラ、新幕開演!!」
「演出すんなぁぁぁ!」
「少し納得いかないけど……ユウマに任せるね」
ミサキが小さくつぶやく。その瞬間、アスミが思わず僕を見た。
「別に、私はNOXに協力をするわけじゃない。
あくまでもたまたま目的が近かった。それだけ……」
嫉妬と安堵、そして照れが交錯する複雑な視線。
僕は拳を握りしめる。
——これで揃った。
タナトス、オーロラ、スペクター、サイレン、ルート、ゲームマスター、そしてシュレディンガー。
この箱の中で、何が観測され、何が失われるのか。
未来はまだ、不確定のままだ。
「……それにしても」
アスミはふと視線を落とし、机の上のモニターに映るログを眺めながら呟いた。
「じゃあ、ネットで騒がれてる“タナトス”……あれ、つまりユウマってことでしょ?」
「…………ああ」
僕は答えた。短く、だけどはっきりと。
「――っ!」
アスミの頬に、見る間に赤が差した。
冷徹な天才少女の仮面が、一瞬で外れていく。
「な、なによそれ……! もっと否定するでしょ普通……! なんでそんなあっさり認めるのよ!」
声が裏返り、耳まで真っ赤にして俯くアスミ。
その反応に、チイロが目を細めてにやりと笑った。
「……あ〜、なるほど。もしかして、私NOXの過去ログ辿ってたらさ量子ネコってIP見つけて、アスミはシュレディンガーでしょ??ってつまり“量子ネコ”の中の人って……」
「や、やめなさい!!やめろ!」
アスミが食い気味に叫ぶ。
「え、量子ネコって……」
ミサキが驚愕した顔で目を丸くする。
「えっ、あのコメント欄で“タナトスさん尊すぎ……♡”とか“今日も命を燃やしてて推せる”とか書いてた人!?」
「言うなああああああ!!!」
アスミは机に突っ伏して頭を抱えた。
僕の脳裏にも、あのユーザーネームがよみがえる。
「タナトスさんの残響ログ、今日も胸に響きました……」
「いつかきっと、あなたの声が誰かを救う。私が保証します!」
「タナトス……あなたは闇を歩く光……///」
――あれ、全部、アスミ!?
「うわぁぁぁ……死にたい……」
アスミは机に額を押し付け、声を震わせた。
レイカがここぞとばかりに両手を広げる。
「禁断のファンレター! 推しと推されの衝撃的邂逅! 青春オペラ第三幕・羞恥のソナタ開幕!」
「舞台にすんなぁぁぁ!!!」アスミの絶叫。
チイロはプロジェクターにスプレッドシートを出す。
《量子ネコログ・恥ずかしいコメント集》
セルには「尊すぎ」「推せる」「光」「闇を歩く」と書き込まれていて、棒グラフが爆発している。
「尊さ単位、アリアユニット∞!あっはははっ!」
チイロが爆笑しながら発表する。
ミサキはと言えば、顔を真っ赤にして立ち上がった。
「ちょっ……アスミちゃん!
そんなにユウマのこと応援してたなんて聞いてない!!
あなたは新人さんなんだから、いい加減にして!」
「ち、違う! それはネット上での話で……! 現実は関係ないから!」
「関係あるでしょ!!」
「でも推しとしては応援してたんだよね、“量子ネコさん”?」
二人の視線がぶつかり、ラボの空気が再びビリビリ震えた。尊い統計のグラフは真っ赤に点滅。そこにチイロがさらに空気を一気にぶち壊す。
——まさか、量子ネコがアスミだったなんて。
僕の心臓は、ラボのファンノイズよりもうるさく跳ねていた。(あの日、体育館で“ユウマ”と叫んだ声。それが、量子ネコのログと重なってしまう。過去と現在、現実と匿名の声が、同じ彼女から響いている――)
でも、あの日確かに俺を呼んだ声が、今ここにいる彼女の声と繋がった気がした。
ラボに残ったのは、笑い声と羞恥と、少しの嫉妬。
尊い統計が爆発して、空気はカオスのままだけれど、
それでも確かに、僕らの関係はひとつの段階を越えた。
「量子ネコ」――あの応援の言葉を送ってくれていたのがアスミだったと知って、胸の奥が熱くなる。
嬉しいとか照れくさいとか、そんな単純な感情じゃ片づけられない。
でも、これだけはわかる。
箱はもう閉じられない。観測された真実は、ここから先ずっと僕らの未来を揺らし続けるんだと。




