EP107. 「嫌な予感」を言語化する
このログは、報告書ではない。
証言でも、分析メモでも、作戦立案書でもない。
私は、ただ“残しておかないと壊れるもの”があると判断しただけだ。
双灯祭DAY1の20時前後。
なんとか乗り切った初日。
時刻だけ見れば、何の変哲もない夜だ。
実行段階に入るには早く、警告を鳴らすには遅い、曖昧な時間帯。
けれど私はこの時間を**「最初に違和感が言語化された瞬間」**として記憶している。
玖条リリとの通話は、偶然ではない。
彼女が“壊れかけている側”に立ち、私が“まだ動ける側”に立っていたから成立した会話だ。
ここに書かれている内容の多くは、確定情報ではない。
仮説、予感、観測、そして恐怖に近い直感。
それでも私は、このログを残す。
なぜなら――異変は、確信よりも先に兆候として現れるからだ。
もし後になって誰かが「この時点で止められたはずだ」と言うなら、その“はず”の根拠として、これが必要になる。
これは、私が“まだ迷っていた証拠”であり、同時に、迷いながらも引き返さなかった証拠だ。
DAY1/20:03 通話ログ
記録者:矢那瀬アスミ(個人ログ)
場所:天城側・控室(人の出入りが少ない廊下の突き当たり)
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20時を少し過ぎたあたりから、胸の奥に薄い膜が張ったみたいな息苦しさが続いている。
双灯祭は“盛り上がっている”はずなのに、私の中でだけ空気の濃度が違う。
理由は単純で、最悪に厄介だった。
さっき見たシオンについて
――シオンが、何かを“固定”されている可能性。
その仮説を口にすると、現実味が増してしまう。
だから私は、言葉にする前に電話を掛けた。
相手は一人しかいない。
コールが二回。三回目で繋がる。
『……矢那瀬?』
リリの声。
微妙に息が浅い。痛み止めの効きが切れかけたときの呼吸だ。
「リリ。ごめん、今いい?」
『いい。むしろ、あなたの方から掛けてくれて助かった』
……さっき、シオンを見たでしょ』
先に核心が来る。
リリはいつもそうだ。余計な前置きで誤差を増やさない。
「見た。……見たくなかった種類の“見え方”だった」
『同意……私、確信までは行ってない。
けど、“異常”は観測できた』
観測。
その単語が、リリの口から出るたびに私は背筋が正される。
この子は、痛みと恐怖で壊れそうなときほど“装置”になる。
「リリ、先に言っておく。明日は無理しないで――」
『それはいい』
切られる。強い否定。
電話越しに、杖のグリップを握り直す気配まで伝わってくる。
『私の肺は今さらどうでもいい……。
矢那瀬。明日、シオンを止めて』
息が止まる。
“止めて”という動詞が、リリの口から出る重さを私は知ってる。
ただのお願いじゃない。責任の移譲でもない。
――助けて、に近い。
「……止めたい。私だって」
『なら、今すぐ共有する。……シオンの、喉が変だった』
「喉?」
『言語反応型の抑制に見えた。
私が問いを投げたとき、彼女は答えようとして……途中で声が“閉じた”』
通話の向こうで、リリが一度だけ息を吸う。
肋骨が痛むのを堪える音だ。
『気のせいで片づけたくない。
でも、証拠がない。
そして――もし、仮に“マインドコントロール”だとしたら、それは学園や双灯祭の問題じゃ済まない』
「……うん。済まない」
皮膚の裏側が冷たくなる。
マインドコントロール。
その単語は、現実より先に“前例”を連れてくる。
『矢那瀬、あと、今日のシオンは均一すぎた。
“優等生”の均一じゃない。
“命令に従っている人間”の均一』
私は、壁に肩を預ける。
祭りの雑音が遠い。
頭の中に、別の音が差し込んでくる。
「リリ、他に気づいたことは?」
『天城の藤党コウ』
リリが即答した。
『あの人が、今日、沈黙してる。
沈黙は情報の圧縮。あのタイプが黙るときは、何かを“まとめてから”出す』
「……DAY2で動く、ってこと?」
『可能性が高い。計画が頓挫したのかと思った。
大掛かりな施設の建造痕も見つけられない。
でも、彼が“動く”ってことは、設計の外側に、もう一つ手順があるかもしれない』
私は唇を噛んだ。
シオンの設計、コウの沈黙、そして――何かの影。
名前を言うだけで喉が締まる気がして、私は言葉を避ける。
「リリ。今日、あなた、もう十分――」
『十分じゃない』
また切られる。
でも怒気じゃない。
切実さだ。
『私、シオンを“観測”できる位置にいるのに、止められない。だから、矢那瀬に頼む。
あなたなら、シオンの“手順”に介入できる』
「……介入、って」
『あなた、ずっと“観測者”じゃないでしょ?
あなたは、必要なときに干渉する。
だから怖い。だから頼れる』
リリの評価が正しくて、痛い。
私は自分の手のひらを見る。
たぶん私は、止めると決めたら止める。
問題は、止めるべき“相手”がシオン本人なのか、背後なのか、まだ確定していないこと。
「リリ……あなた、体、きついでしょ。声が」
『……きついよ。でも、私は私の痛みを材料にできる。
シオンは今、痛みを“使えない”状態に見えた。
痛みすら命令で処理されてるなら、危ない』
その一文で、私の中の何かが結び直される。
痛みを使えない。
――それは、壊れないための工夫じゃない。壊れるための固定だ。
「DAY2、具体的に何が嫌な予感?」
リリは少し黙った。
黙って、言葉を選ぶ。
選ぶのは、誤差を減らすためだ。
『“二日目15:00”。
あの時刻が、接続点に見える。
今日のシオンの言葉遣い、“判決”に近かった。
それは運営の宣言じゃなく、手順の開始宣言』
私は息を吐く。
胸の膜が厚くなる。
「……わかった。私も同じ地点を見てる」
『矢那瀬……あなた、今――何か思い出した?』
鋭い。
リリは“今の私の沈黙”を観測している。
私は、否定しない。否定できない。
「……思い出した、というより」
“蘇った”。
祭りの雑音が、いきなり遠のいた。
代わりに、耳の奥で誰かの声が鮮明になる。
私の知らない場所。私の知らない時間。
でも、妙に生々しい会話。
――不可能だよ。
――ナノチップは皮膚の下、深く埋め込まれている。
――抜こうとすれば、出血と同時に警報。
――GPS追跡。家族の監視。
――僕の母親の治療は、このプログラムのスポンサーと直結している。
――生き残れば、完治の薬が手に入る。
――君の家も同じだろ? 過去の記録を握られてる。
知らないはずの会話。
なのに、言葉のリズムまで分かる。
息継ぎの場所まで分かる。
私は、電話口で無意識に指先を強く握っていた。
爪が皮膚に食い込んで、やっと現実の痛みが戻る。
幸か不幸か、あの仮想死が引き金で溢れ出た。
「……リリ。私、今“W1の残滓”を拾った。
誰かとの会話記録……」
『……やっぱり』
リリの声が低くなる。
『矢那瀬、それ、誰の声?』
「分からない……前後も分からない。状況さえも。
でも――“埋め込まれてる”“抜けない”“監視”“家族”“治療のスポンサー”って、構造だけが揃いすぎてる」
『構造が揃うのは、現実か、誰かが現実のふりをしてるとき』
「……うん」
私は思う。
もしリリの言う“言語反応型の抑制”が本当で、
もしこの“ナノチップの会話”が同じ系統の手順だとしたら。
――人を縛るのは、鎖じゃない。
家族。治療。罪。過去。
「生き残れば薬が手に入る」という、希望の形をした首輪。
「リリ。これ、もし本当にそうなら――」
『分かってる。とんでもない学園の外側の話になる。
……だから、止めて』
電話越しに、リリの声が少しだけ震えた。
痛みのせいじゃない。
“シオンが壊されていく”想像に耐えきれない揺れだ。
「リリ、あなたが一人で背負う必要はない」
『背負ってないや。押しつけてる。矢那瀬に……。
私の役目は、それでいい』
あまりにリリらしくて、苦しい。
私は中等部の頃のリリを思い出す。
勝手に責任を背負って、勝手に自分を後回しにして、それでも“構造”だけは崩さない顔。
「……分かった。私が動く。
DAY2の前に、シオンに直接当たる。背後に手があるなら、その“手順”を剥がす」
『矢那瀬、無茶はしないで』
「それ、私が言うセリフ」
『私はもう無茶した後だから』
リリが淡々と言って、少し間を置く。
『……でも、お願い……シオンを、壊れきる前に』
私は目を閉じた。
胸の奥で、W1の残滓がまだ鳴っている。
“抜けない”
“監視”
“家族”
“治療”
それらが一本の線で繋がって、今のシオンの喉に重なる。
「……約束する、とは言えない。でも、やる。私は、私のやり方で」
『それでいい。矢那瀬の“やり方”が一番怖いから』
リリがそう言って、かすかに息を吐く。
その吐息が、痛みをこらえる音に混じった。
私は、最後に一つだけ確認した。
「リリ。今日、シオンを見て、“助けて”って思った?」
電話の向こうが、少しだけ静かになった。
そして、リリは答えた。
『思った……でも、シオンは言えないんだと思う。
だから、私が言う』
胸が締まる。
この通話は、ただの情報共有じゃない。
リリが“自分の痛みより先に”差し出したSOSだ。
「……ありがとう、リリ……今夜、もう一回連絡する。無理なら出なくていい」
『出るよ……出ないと、誤差が増える』
あくまでリリだ。
私は苦く笑って、通話を切った。
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画面が暗くなったスマホに、自分の顔が映る。
祭りの明かりが頬を照らしている。
なのに、目だけが冷えている。
私は理解してしまった。
DAY2の嫌な予感の正体は、事故じゃない。
――手順だ。
誰かが、人を縛る手順を、もう一度この学園で再現しようとしている。
そして、私はその“誰か”の名前を、まだ思い出せない。
思い出せないくせに、喉だけが先に知っている。
「……シオン」
口にした瞬間、舌の根がひやりとした。
まるで、私の言葉すら監視されているみたいに。
私はスマホを握り直し、歩き出す。
今日の残り時間で、できるだけの観測をするために。
明日、干渉するために。
――W1の新たな記憶は、増えている。
増えているのに、繋がらない。
繋がらないのに、痛いほど鮮明だ。
それが一番、嫌な予感だった。
この通話のあと、私はしばらく動けなかった。
頭では整理できていた。
シオンの異変。
リリの直感。
藤党コウの沈黙。
そして、私の中に蘇った“知らないはずの記憶”。
けれど、身体がそれを拒否していた。
――ナノチップ。
――抜けない。
――監視。
――家族。
――治療。
この単語群は、論理としては並べられる。
だが、感覚としては並べてはいけない種類の言葉だった。
なぜならそれは「自由意志を奪うための構造」ではなく、
**「選択していると思わせたまま縛るための構造」**だからだ。
リリは、まだ確信していない。
だからこそ彼女は危険だと分かっている。
確信してしまえば、彼女は自分を犠牲にしてでも踏み込む。
私は、その一歩手前で止めなければならない。
そして、もっと厄介なのは――この話を聞いた瞬間、私の中のW1の記憶が**“増えた”**という事実だ。
思い出した、ではない。
追加された、と表現した方が近い。
誰かと交わしたはずの会話。
誰かの事情。
誰かの家族。
それらが、私の中で“既知の情報”として振る舞っている。
もしこれが単なるフラッシュバックなら、まだ救いがある。
だがもし**意図的に植えられた「理解」**だとしたら?
――それは、シオンに起きていることと同じ手順だ。
私はまだ断定しない。
断定は、最後の一手だ。
だが、このログを書き終えた今、はっきりしていることが一つある。
双灯祭DAY2は、「事故が起きる日」ではない。
誰かが、何かを完成させに来る日だ。
そして私は、完成される前に介入する側に立つ。
リリが自分の心配を後回しにしたように、私もまた、自分の安全を後回しにするだろう。
それが、この学園で“まだ人間側に残っている者”の役割だからだ。
――ここまでが、DAY1・20時台の私の記録。
この時点で、私はまだシオンを「止める方法」を知らなかった。
だが、止めなければならない理由だけは、十分すぎるほど揃っていた。




