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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第一章 死の観測者編

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EP10. 舞台装置とエンタングルメント

 どうしてこうなったんだろう。

昨日までの僕は「ただの調査」で済ませられると思っていた。

けれど一度「デート」と呼ばれてしまえば、それはもう調査でも研究でもなく、みんなにとっては最高のエンタメだったらしい。

教室も、ラボも、舞台装置の上みたいに光と音と拍手で満たされていく。

僕はただ観測される側に立たされて、抗弁もできずに照明を浴び続けている。

——ペンギン先輩なんて名前、僕は認めてないんだけどな。


 翌朝の教室は、数学の教科書が存在しないかのように異世界化していた。

 黒板に残る三角関数のグラフは、もはや誰の目にも入っていない。

 代わりに生徒たちの口から飛び交うのは、数式ではなく——「ペンギン」。


「おーい、ペンギン先輩!」

 後ろの席の男子が、わざわざ立ち上がって翼のように両腕をばたつかせる。

 しかも歩き出した。ちょこちょこと、小刻みに。


「昨日の“ペンギン歩行”、完全再現〜!」

「兄貴の妹が『ペンギン兄ちゃん』って呼び始めてたぞ!」


「ちょっ……やめろ!」

 僕は思わず立ち上がったが、その声は笑い声の渦にかき消される。

 否定の余地など、最初から存在していなかった。


「いやマジで似合ってたんだって」

「お前がやった瞬間、場が和んだもん」

「ほらほら、もう岡崎=ペンギン先輩で決まりだろ」


 僕の渾身の調査が、よりにもよってペンギン歩行に全部持っていかれるとは——。

 心の中で頭を抱えつつ、机に突っ伏す。

 だがそのとき。


「ねー、アスミちゃんも見たんでしょ?」

 斜め前の女子グループが、わざとらしく振り返る。

「“ペンギン歩行”」

「かわいかったよね〜?」


「……別に」

 アスミはペン先を止めずに、冷ややかに答えた。

 だが、その耳がほんのりと赤く染まっている。


 教室の空気が一気に沸騰した。


「ほら見ろー! 耳赤いー!」

「公式認定入りましたぁ!」

「アスミちゃん照れてるぅぅ!」


「ち、ちがっ……!」

 アスミがペンをぎゅっと握り直すが、その必死な動きもまた「照れ隠し」として解釈され、さらに盛り上がりを加速させた。


「ペンギン先輩、公式認定〜!」

「岡崎、もうペンギンの擬人化で行け!」

「次は着ぐるみデートな!」


 机を叩く音、拍手、冷やかしの合唱。

 僕はもはや抵抗を諦め、額を机に押し付けた。

——これが、調査の余波。どんな研究データよりも破壊力のある余波。


 しかし、まだ地獄の幕開けにすぎなかった。



「ふっふっふ〜ん♪」


 その鼻歌とともに、教室のドアが大仰に開く。

 光を背負って入ってきたのは、演劇部の火宮レイカだった。

 長い黒髪を揺らし、まるで舞台袖からスポットライトを浴びて登場したヒロインのごとく歩みを進める。


 教室の視線が一斉に釘付けになる。

 彼女の瞳は、完全に「狩人」のそれだった。


「ユウマくん!」

「な、なんだよ」

「私もデート実況してあげるから、次は同行させなさい!」


「はぁ!? なんでそうなる!」

「だって観客がいた方が、青春は映えるでしょ? 私がナレーションして、効果音もつけてあげる!」

「舞台じゃないから!」


 レイカは机の上にひらりと乗り、両手を広げた。

 その声は、すでに教室の外まで響いていたかもしれない。


「見よ! 愛と調査と尊い統計のグランドオペラ!

主演はペンギン先輩、共演はクールビューティー矢那瀬嬢、さらに参戦した紅一点・霧島ミサキ!

さあ、拍手喝采をーー!」


 教室全体が、爆発した。

 拍手、口笛、スタンディングオベーション。

 誰も授業のことなんて頭にない。


 僕は頭を抱えた。

——いやいやいや。誰が主演だ。

——しかも「グランドオペラ」ってなんだ。


 隣でアスミはペンを折りそうな勢いで握りつぶし、

 後ろでミサキは「や、やめてよぉぉ!」と真っ赤になって机に沈んでいる。


 その混沌を見て、レイカはさらににやりと笑った。


「青春……尊い……! これは舞台にするしかない!」


 教室がもう一度、大爆発した。



 放課後、旧理科準備室――僕らの副拠点。窓際のラックから低周波のファンノイズが唸り、ケーブルは床を這い、液晶モニターの冷たい反射が天井の白を青く染めている。黒板には《因果パラメータツリー》《干渉モデル》《RT60誤差の寄与率》の数式が埋め尽くされ、とても「高校生のたまり場」とは思えない非日常が、日常みたいな顔で広がっていた。


 その中心で――雲越チイロが満面のドヤ笑みを浮かべ、ノートPCをプロジェクターに接続した。ワイヤレスポインタをカチリと鳴らし、胸を軽く反らす仕草は、学会のキーノートスピーカーを気取りつつ、内心めちゃくちゃ楽しんでいるミームオタクのそれ。


「さて諸君! 本日の統計発表に移ります♡」


 わざとらしい咳払い一つ。スクリーンにはスプレッドシートがドンと映る。タブ名《尊い統計_水族館編(β)》、セルの色分けは虹色、列名は「イベント」「尊さ」「効果量」「群衆騒乱指数」「備考(尊)」……最後の列名に悪意が滲んでいる。


「題して――『尊い統計:水族館編』!」


 スライド1枚目は巨大な棒グラフ。縦軸「尊さ(Aria Units)」、横軸「観測イベント」。棒は踊るように伸び縮みし、その中で《ペンギン歩行》が孤高のスカイツリーを作っていた。


「被験者Y(岡崎)× 被験者M(霧島)。観測1:ペンギン歩行→ 有意にかわいい(p < 0.01、効果量 d=1.28)。観測2:“あーん”餌付け→ 教室内騒乱指数+300%、拍手波の自己増幅発生。以上より――尊さ、水準臨界突破。可愛いは爆発した、と結論します!」


「……結論の語彙が物理。」

 僕は額を押さえ、思わず苦笑した。「いや、てか“Aria Units”ってなに」


「尊さの単位。音楽理論から輸入した。センスで殴る、わかる?」


「わからない。」


 机の端で、ミサキがぶんぶん首を振る。顔から耳の先まで真っ赤にして、スカートの裾をきゅっと握りしめ――


「やめてぇぇぇ! 尊さを数値化しないでぇぇぇ!!」


 悲鳴。ラボの空調が一瞬だけ静まった気がした。


 対照的に、アスミは腕を組み、ノートの角でスクリーンをコツコツ叩きながら冷徹な視線を上げる。


「……先輩、相変わらず変わってませんね!」

 声は涼しく、嫌味は刃物のように薄く鋭い。「学術的価値は? その“尊い”指標、再現性あります?」


「あるに決まってるでしょ?」

 チイロは即答、胸を張る。「ミームも文化資源。再現性は“みんながもう一回観たいか”で測るの。あと、尊いは信号処理でもある。ナラティブ・バイアスを逆手にとるのよ」


「それ、堂々とミームって言ってますよね?」

「言ってるよ。私は理系ミームの化身女子だから。よろしくね、後輩ちゃん♡」


 アスミの眉がピクリと跳ね、ぱしっとノートを閉じる。「“ちゃん”付けはやめてください。あと、その♡も」


 この師弟、会話の温度差で部屋の気圧が変わる。ミサキは机に額をつけたまま、指だけで抗議のビンタを机にぺちぺち。「み、見なかったことに……あの“あーん”とか“手つなぐ?”とか……」


 隣で僕が視線を落とすと、彼女はちら、と目だけこちらを見上げて――小さく、ほんの小さく、笑った。

(……でも、うれしかった)と、その目が言っていた。喜びは、恥ずかしさの陰で小さく灯る。たぶん本人も気づいてしまって、さらに顔が真っ赤になる悪循環。


 その微細な表情変化を、アスミは見逃さない。机の影で握られたミサキのキーホルダー《ペンギン》がカシャンと鳴るのを見た瞬間、アスミの喉仏がわずかに上下し、口角がミクロン単位で硬くなる。

 ――嫉妬。数式には載らない、けれど最も強いノイズ。


「青春! 尊い! 舞台化確定!」

 そこへ火宮レイカが、舞台袖から光に躍り出るみたいにテーブルに飛び乗り(おい)、胸に手を当て宣言する。


「『ペンギン先輩と水族館の乙女』――なんと麗しい響き! 私はこれを演劇部次回公演に脚色し、校内文化祭を震撼させる!」


「やめろぉぉぉ!!」僕とミサキのデュエット。

「タイトルがもう地獄……!」アスミの追撃。


 レイカはくるりと一回転し、スポットライトがあるかのように顔に手をかざす。「ご安心を! 私のナレーションで青春を10倍尊くして差し上げます! ――第一幕、ペンギンの歩幅ステップオブラブ!」


「ナレーションいらない!」

「歩幅はRTの話じゃない!」

 ラボがわーっと沸く。


 その喧噪に、トウタがにじり出てくる。前髪の奥で目を輝かせ、スマホを上下に振りながら。


「はい来ました速報ァ! #ペンギン先輩 急上昇、関連タグ『#あーん餌付け』『#水族館の乙女』『#尊い統計とは』がカオスに混線中! まとめサイト『岡崎ハーレム説』が今朝だけでブクマ2,000突破!」


「やめてくれ。」

 僕はそっと彼のスマホを押し下げる。「“ハーレム説”って誰が言い出したんだ」


「群衆。」トウタがニヤリ。「情報は撒けば勝手に育つ――噂は自己増殖する生物だぜ」


「群衆心理の自己触媒反応、ね」

 ミナトが隅の机から顔も上げずに、三枚のタブレットを横断する視線のまま口を開く。「ところでチイロ先輩、その統計に交絡因子は? “ペンギン歩行”の可愛さは、ミサキのミニスカ錯視効果で増幅されている可能性。効果はd=0.4程度上振れ」


「はい出た数学のゴリ押し!」

 チイロは指を鳴らし、セルE列に《ミニスカ錯視:+0.37》と追記。「でもそれ採用。可愛いは複合波。干渉して増幅する。――あ、今日のタイトル、**“デートパラドクスの干渉項”**でよくない?」


「語感だけで論文書かないでください」

 アスミのツッコミが冴える。「先輩、ほんと、相変わらずです」


「褒め言葉として受け取るね♡」

「褒めてません!」


 ミサキが机に突伏したまま、袖口から小さく親指を立てる。「……でも、その“可愛いは複合波”って、わかる気がする。一緒にいたから、楽しくなって、楽しいから――もう少し、一緒にいたくなる」


 静かに落ちた言葉は、騒がしいラボの真ん中で、澄んだ音を立てて床に届いた。


 アスミの視線が、そこで止まる。

 ほんの一瞬。彼女のまぶたが遅れて閉じ、開く。呼吸のテンポが半拍だけ乱れる。

 ――自分も、その複合波の片方だったはずのW1で。


 スクリーンの白が青に滲んで見えた。脳裏を、昨日の青が過ぎる。

 厚い強化ガラスが蜘蛛の巣状にひび割れ、水槽が割れる。

 逃げ惑う声。耳を劈く警報。水に溶ける赤。クラゲの光に混じる、異様な美。

 あの中心で――


「……ユウマ?」

 ミサキの声が、現実の音場を取り戻す。僕はハッと顔を上げ、彼女の瞳とぶつかった。そこに映るのは、さっきのペンギンのキーホルダー――と、言えなかった何かの影。


 チイロは、その一連の視線と微表情を逃さない。スプレッドシートの別タブ《W1フィードバック_微表情ログ》に、タイムスタンプと共に《被験者Y視線逸れ→被験者M不安→被験者A瞬目増加》を追記。

 最後にひと呼吸置いてから、わざと軽い声で場を持ち上げる。


「――はい、幕間入りまーす。青春と尊いの複合波、本件は継続観測。ところでペンギン先輩?」


「……呼ぶな。」

「次の“調査デート”の広報、私とレイカでやっとくから」


「やめろって言ってるだろ!!」

「やるの♡」


 間髪入れず、レイカが前へ。

「広報動画は縦型で、BGMはローファイ。タイトルは――『ペンギン先輩、恋と実験のあいだ』予告編! ナレーションは私! “手を伸ばせば、そこに波紋が生まれる――”」


「ナレーションやめて!」

「波紋の式展開やめて!」アスミとユウマの同時ツッコミ。


 トウタはもう投稿画面を開いている。「#ペンギン先輩 次はどこへ」のアンケート、四択――【水族館(再)/映画館/科学館/廃墟】」

「最後物騒!」

「廃墟、一番伸びるから」

「やめろ!」


 ミナトはタブレットから目を離さず、「票操作はしない。だが兄弟サンプルとして科学館は有用」とだけ言って、さらりと女子会の炎上を油で温める。


 アスミが堪えきれず、ミサキのペンギンをちらと盗み見る。「……その。ペンギン、似合ってます」

 ミサキがぱっと顔を上げ、頬を赤らめながら笑う。「ありがと、アスミちゃん」

 “ちゃん”に、アスミの肩がまたミクロンだけ硬くなる。嫉妬という名の干渉項。尊い統計のグラフには出ない、けれど確実に波形を歪ませる力。


 チイロは満足そうに手を打つ。「よし、青春干渉、きれいに出てる。次回のサンプルサイズ、増やそっか。――被験者Y、準備は?」


「……準備って何の」

「次の調査と次のデート。だいたい同じ顔してるから」


 レイカが高らかに腕を掲げる。「青春オペラ、第二幕――近く公開!」

 スクリーンには新規タブ《調査デート_計画002》が開かれ、セルA1に**“行き先候補:科学館/映画館/(却下)廃墟”と入力される。セルB1には、誰かの悪ノリで“ナレーション:火宮”がねじ込まれ、セルC1に“倫理監査:雲越”、セルD1に“尊い監査:雲越(自薦)”**が追記される。


「自薦て。」

「必要経費。」チイロは涼しい顔。「あ、あとプリンは議題に入れるから」


「どこまでもブレない……」

 僕は呆れ半分、救われ半分で天井を仰いだ。


 笑いと茶化しと、“尊い”の熱に満たされたラボ。

 けれど、スクリーンの青が視界の端で揺れた瞬間――胸の底で、W1の水音が、まだ微かに鳴っていた。


 血の赤と水族館の青。

 ペンギンの銀とクラゲの白。

 混ざり合わないはずの色が、僕の中だけで干渉して、ノイズになって残る。


 観測は、続く。

 恋と実験は、今日も同じ顔で、僕らの前に現れる。

 そして――その影に、別の世界の欠片がついてくる。

 結局、今日も僕は観測されて終わった。

ペンギンだの、青春の複合波だの、尊い統計だの。

本当は笑って受け流すしかないはずなのに、胸の奥ではずっと別の音が鳴っている。

水槽の青と、血の赤。あの世界の残響。

だからこそ、守らなきゃいけない。舞台装置の上で踊らされていても、その奥にある「本物の未来」だけは。

次の幕がどう展開しても、僕はこの舞台から逃げない。


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