EP1. 観測優等生とオブザーバーエフェクト
朝の昇降口で交わされる挨拶。
笑顔の角度、
声の抑揚、
歩幅の調整——すべて計算された反射。
僕は今日も「優等生」というモデルを演じている。
だが、モデルを演じれば演じるほど、心の奥底に沈む問いは消えない。この仮面を外したとき、本当の僕を知ろうとする人間は、果たして現れるのか。
今日、転校生がやってくるらしい。
その情報を聞いた時から、ノイズのない矩形波。
拒絶を標準出力とするかのような冷たさを感じた。
ただの情報が、僕の中に例外処理を走らせた。
これは単なる転校生の一幕なのか。
それとも、何かのプロローグなのか。
月曜の朝。
昇降口のセンサー自動ドアを抜けた瞬間、複数の声がほぼ同時に飛んでくる。
「おはよう、岡崎!」
「昨日の試合、すごかったな!」
「レポート写させてくれ!」
入力刺激は三方向から。声量は平均65デシベル。周波数は500〜2,000Hz帯域。人間の聴覚系が最も敏感に反応するゾーン。つまり、彼らは意識的であれ無意識であれ、“最適に僕の注意を奪おうとしている”。
僕は笑顔の角度を0.3ラジアンだけ傾け、頬の筋肉をわずかに上げる。
声の抑揚は一・一六倍。無表情と過剰な熱意の中間に位置する、もっとも“無難で魅力的に見える”声域だ。
さらに歩幅を相手に同期。平均70センチメートル前後。人間は無意識に相手の動作リズムに引き寄せられるため、これだけで「親しみやすさ」の評価は統計的に約17%上昇する。
——すべては学習済みの社会的アルゴリズムに従った反射。
僕は岡崎ユウマ。天城総合学園二年。偏差値全国上位の進学校に籍を置き、成績優秀、運動神経も良し。教師からも同級生からも「理想的な優等生」と認識されている。
だが、それは僕自身の本質ではない。
優等生モデル。
観測者が「優等生」を求めるから、僕は「優等生」として出力を合わせる。
量子力学における観測者効果と同じだ。観測がなければ状態は曖昧だが、誰かの目が注がれる瞬間、波動関数は収束する。僕の人格もまた、観測者の数だけ収束する。
本来の僕がどんな存在なのか——その答えは、ここでは意味を持たない。
意味を持つのは、他者が僕をどう認識するか、という事実だけだ。
心理学的に言えば「印象管理(Impression Management)」。
社会学的に言えば「役割演技(Role Playing)」。
情報科学的に言えば「外部入力に最適化されたアルゴリズム」。
僕はそれらすべてを内面に組み込み、最も効率的に、最も正確に「優等生」として振る舞う。
——裏の僕を知っているのは、ほんの数人だけだ。
演技を外した、観測されない領域の僕を。
そこには、彼らが求める“優等生”とは正反対のプロトコルが走っている。
靴箱の前で、軽やかな声が背後から落ちてきた。
「ユウマ、また徹夜顔だ」
振り向く前に、声の持ち主を特定できる。イントネーションの穏やかさと、言葉に混じるわずかな棘。
霧島ミサキ。幼馴染。小さな頃から僕の生活リズムを把握し、睡眠時間と顔色を結びつける観察眼を持っている。
「寝たよ。四時間」
「それ、寝たって言わない」
返答は統計的予測どおりだった。
彼女は腕を組み、小さく首を傾げる。その瞳孔はわずかに収縮し、顔全体が「心配」のシグナルを示していた。心理学的に言えば“母性的叱責”に近い表情。
——穏やかな声の中に混じる微量の刺。幼馴染だからこそ遠慮なく突き刺す。
廊下を抜けた先、壁にもたれる男子が待っていた。長い前髪が片目を覆い、残る片方の瞳だけが鈍く光る。
「なあ、旧校舎に“首なし怪物”が出たらしいぜ。しかも写真付き」
亞村トウタ。噂を収集すること自体を娯楽にしている男。
SNSの匿名掲示板から都市伝説の断片まで、彼の端末には常にノイズが流れ込んでいる。人間の情報消費は好奇心に駆動されるが、彼の場合、それをシステム的に再利用している。
「またデマ拾ったの?」
ミサキが呆れ混じりに声を挟む。
「いや、加工跡は薄い。解像度の欠落パターンが自然すぎる。むしろ“誰かが見せたがってる”写真だ」
背後から短く冷ややかな声が加わった。
「その解析は正しい」
立花ミナト。端末を三枚同時に操作しながら歩いてくる。 彼の指の動きは二次元座標の入力ではなく、ほとんど数式を操る演算子のようだった。
タブレット画面には輝度分布のヒストグラムが浮かび、彼はほとんど瞬きもせずにノイズのパターンを切り分けている。
「光源の角度と影の方向が一致している。偽造なら、もう少し粗が出る」
言葉は短い。だが必要十分なデータだけを抜き出す。無駄を削ぎ落とした設計図のような話し方だ。
そのとき、突如として張りのある声が空気を切り裂いた。
「救世主ユウマ様!」
火宮レイカ。両手を大げさに広げ、演劇部すら凌ぐ声量で廊下に響き渡らせた。
彼女の動作は意図的にオーバーで、笑いを誘うことに特化している。周囲の視線は一斉に集まり、反射的に笑い声が広がった。
「今日も世界を救う笑顔を、我らに!」
痛い子。そう評価されていることは、彼女自身も自覚しているはずだ。
しかし同時に、集団心理に火をつける才能は本物だ。人は笑いに同調し、空気に巻き込まれる。その場を支配するカリスマの一種。
——ミサキは小さくため息を吐き、トウタは面白がってさらに煽り、ミナトは「無駄な演算」とでも言いたげに眉をわずかにひそめる。
それぞれの反応が、彼らの個性を正確に切り取っていた。
そして僕は、演技の笑顔を変えない。
観測される“優等生モデル”を壊さないために。
チャイムが鳴り終わると同時に、担任が教室のドアを押し開けた。金属丁番がきしむ短い高音、床材が受ける荷重の低音。二つの周波数が交差するところで、担任の背後に一人の少女が立っている。
「今日からこのクラスに入る矢那瀬アスミさんだ」
黒のブレザー、同色のスカート。胸元だけ、決めたように青いネクタイが刺す。黒髪は面で光を返すのではない。一本一本の繊維が刃物のように反射を分散し、輪郭を鋭く縁取っていた。肌の反射率は低め、クールホワイトの蛍光灯の下でも色温度がぶれない。瞳は液体窒素めいた冷たさで、視線の移動は短距離のサッカード二回——無駄がない。
空気が冷える。正確には、雑音が底に沈む。紙の擦過音、シャープペンのクリック、椅子の脚金具が床を掻く音——それらが一瞬、S/N比の底に吸い込まれる。誰も息を止めたわけではないのに、教室の騒音フロアがゼロ近傍へ落ちた。
「矢那瀬アスミです」
それだけ。母音の第1・第2フォルマントが揺れない。声帯原音の基本周波数f0は安定、ビブラートゼロ。音響的に言えば、ノイズレスな矩形波。抑揚に甘えず、情報だけを通すタイプの声だ。
僕は優等生モデルを起動する。笑顔の角度を0.3ラジアン、眼球の開閉比を1.08、声の抑揚を一・一六倍へ。ベイズの事前分布は「常識的な返礼」だ。
「よろしく、矢那瀬さん」
彼女の瞳孔径がコンマ二ミリだけ収縮する。評価の一閃。次いで、まぶたの開きがわずかに左右非対称になる——興味でも好意でもない、測定の態度。
「……必要ありません」
たった四音節で、クラス全体の相位が崩れる。内装の吸音材は変わらないのに、壁の反響が違って聞こえるのは、こちらの聴覚系が一瞬で防御モードに入ったからだ。僕の笑顔は保たれる。モデルは破綻しない。が、内部でラベルが一枚めくれる——例外処理。
「救世主様に拒絶!? これは大事件です!」
火宮レイカが、舞台俳優の肺活量で割り込む。彼女の声の過大入力がクラスの緊張を砕く。笑いが位相同期して広がっていく。場が救われる——痛い子扱いされても、群衆の情動に火をつける技能は本物だ。
ただ一人、アスミだけは窓の外を見ている。視線の焦点は遠景ではない。窓枠のレール、クレセント錠の位置、パッキンの痩せ——細部に置かれる。風で揺れる樹の葉の固有振動数を目で数え、光の色温度を測っているような、そんな見方。ここが「どんな箱」かを、物理的指標で検めている。
教室の中心からわずかに外れた座標に、彼女は直立する。椅子を引く音もしない。背筋のベクトルは床法線に対し誤差二度以内。
そこにいるのに、場のモデルに参加しない。
僕の内側のログに、短いタグが付く。
——異物。ただの感じ悪さではなく、構造が違うという種類の異物だ。
優等生モデルは笑顔で「了解」を返し続けながら、別の推論系が静かに回り始める。
(彼女は、観測を選ぶ側だ)
昼休みのチャイムが鳴り終わる。弁当箱を手に、僕は机の配置を解析する。クラス全体が小さなネットワークだとすれば、昼食グループの分布はノードごとのエッジ数に比例する。中心に近い者は声を多く交わし、端に座る者は情報の伝達に遅延が生じる。
矢那瀬アスミは——端。窓際、二列目。座標的には最も外側に位置する。ネットワーク理論で言えば、周縁ノード。孤立に近い位置だ。
そこに彼女は無表情で座り、机の上には何も置いていない。
僕は弁当を持ち、歩幅を平均70センチで調整しながら彼女の机へ。優等生モデルに基づき、声量は周囲の会話ノイズ(平均58デシベル)をわずかに超える62デシベル。笑顔の角度は0.3ラジアン。最適化された行動だ。
「一緒にどう?」
間髪入れず、返答。
「結構です」
揺らぎゼロ。声帯原音の基本周波数f0に変化はなく、抑揚は直線。意思決定に迷いが一切存在しない返答。即応性は“拒絶”を標準反射として持っている証拠だ。
僕は内心で「拒絶、二度目」と記録する。統計的に、これは偶然ではなく傾向だ。
……だが、今回は追加のデータがあった。
彼女は机の表面を一瞥し、まるで独り言のように呟いた。
「この教室、音の反響が……前の学校と違う」
“音の反響”。通常、転校生の比較対象は教師の質や施設の清潔さだ。だが彼女の観測は建築音響学的要素。この部屋の壁材、天井の高さ、窓の配置。反射時間(RT60)で言えば0.9秒から0.7秒に短縮された程度の違いだろう。
普通の生徒が気にするはずのない差異。つまり彼女の記憶は単なる感想ではなく、比較実験のログに近い。
僕の中で別のプロセッサが点灯する。(彼女は環境音を測っている? それとも、前の学校の記憶が特別なのか?)
場の空気は数秒の沈黙に沈む。だが、その静けさを破るのは決まっている。
「救世主様、二連敗!」
火宮レイカが突然立ち上がり、教室の中央で両手を広げた。声量は80デシベル超。意図的に過剰な声で、笑いを誘う。
クラスは一気に笑いに包まれる。人は緊張状態から解放されると、同調行動として笑う。情動伝染だ。
レイカの茶化しは痛々しくても、群衆の感情を操る力は本物。場の均衡を保つシステムとして、彼女の存在は意外に重要だ。
僕は笑顔を保ちながら、内心で別のログを記録する。
——二度目の拒絶。そして「音の反響」という異常データ。
彼女は単なる孤立者ではない。観測基準が、こちらとは違う。
授業が終わり、教室のざわめきが解散へと変わる。
靴箱に向かう廊下には、湿った夕方の光が差し込んでいた。蛍光灯と西日の干渉で、壁の白さがわずかに黄ばんで見える。
人影がまばらになり、足音の残響が低く反響する。残響時間RT60は約0.8秒。昼間の騒音に比べれば異様なほど長く感じる。
僕は昇降口で、黒いローファーに履き替えようとしている彼女の背に声をかけた。
「帰り道、案内しようか」
即答だった。
「必要ありません」
アスミは靴を履き替え、鞄を肩にかける。振り返りもせず、語尾に揺らぎはなかった。声の基本周波数f0は安定し、抑揚の幅はほぼゼロ。
拒絶を標準出力として持つ人間。二度や三度の繰り返しでは崩れない防御壁。
だが、彼女は次の瞬間、ほんの一歩だけ立ち止まった。
廊下に差す西日の角度を背中に受け、影が僕の足元に重なる。
「あなた——」
彼女は振り返らずに言った。
「歩幅も視線も、他人に合わせすぎます」
言葉が一拍の間を置く。
「……そういう人は、好意を受けると壊れる」
声質は依然として冷たい。だが、その冷たさの奥には、観察の精度があった。
僕の歩幅。70センチ平均で他者に最適化。
僕の視線。相手の瞳孔の開きや眉間の動きに合わせ、常に調整。
彼女は一日でそれを見抜き、**“模倣型の危うさ”**として断じた。
心理学で言うなら「自己同一性の拡散」。
社会学で言うなら「過剰適応による自己の消失」。
情報科学的に言うなら「外部入力に依存したアルゴリズムのハングアップ」。
彼女は、僕の優等生モデルの脆弱性を言語化して突きつけてきた。
そう言い残すと、アスミは歩き出す。背筋は床法線に対して誤差二度以内、視線は前方十メートル。
孤独を選び取る背中は、群衆のノイズに交じらず、独立した関数のように直線を描く。
僕はただ、その背中を観測した。
彼女は拒絶を繰り返す。だがその拒絶の奥には、単なる嫌悪ではなく、構造を見抜く眼差しがある。
——これはただの転校生ではない。
例外処理、異物。
観測するべき対象。
今日も、僕は観測者が望む“優等生”として一日を過ごした。
挨拶に笑顔で応え、授業では教師の視線に合わせ、友人の言葉に最適な反応を返す。
統計的に正しいふるまいを選び続ければ、僕は“理想的な岡崎ユウマ”として記録される。
——それで十分のはずだった。
けれど、矢那瀬アスミは違った。
彼女は僕の歩幅の同期や視線の操作を一瞬で見抜き、“模倣する人間は壊れる”と告げた。
その一言は、観測者に最適化した僕の演算をわずかに乱した。
例外処理。異常値。
……だが、否定できない真実でもあった。
だからこそ、僕は次のフェーズへ進む。
優等生モデルを守りながら、
もう一つのプロトコルを起動する。
観測を拒絶し、痕跡を消し去る存在として。
今夜、僕はユウマであり、そして——闇になる。