第6話:裏切りの影、神殿の記憶
「犯人は……この神殿の術式を熟知している。あるいは、かつてここにいた者か……」
ユークの言葉は、停止した神殿の空気の中で、重く響いた。元・神殿調律官である彼にとって、その可能性は、何よりも痛烈な裏切りを意味した。神意を護るはずの場所が、因果を破壊する凶器と化し、その実行者が身内であるかもしれないという事実。
シエルは、ユークの隣で静かに佇んでいた。彼女の視線は、祭壇の台座に残された『虚無の螺旋』の紋様から、神殿の奥深くへと向けられている。
「『虚無の螺旋』は、古の魔術師が因果の隙間を抉るために用いた禁断の術式。それを神殿の調律術式と融合させ、予言の石板を消し去った。これほどの知識と技術を持つ者は、そう多くはない」
彼女の言葉は、ユークの疑念を裏付けるようだった。神殿の術式は、一般には公開されていない秘匿された知識だ。それを深く理解し、さらに禁忌の魔術と組み合わせるなど、常人には不可能に近い。
「ならば……可能性は限られる。神殿の高位聖職者か、あるいは……私のように、職を追われた者か」
ユークの脳裏に、かつての同僚たちの顔が浮かんだ。彼らが、このような冒涜的な行為に手を染めるなど、想像すらできなかった。しかし、現実に勇者は死に、因果は歪んでいる。
シエルは、ユークの顔をじっと見つめた。
「あなたをこの場所に呼んだのは、犯人よ。そして、犯人はあなたに『真理』に気づいてほしいと願っている。それは、犯人があなたを信頼しているからか、あるいは……あなたに、この罪を擦り付けたいからか」
その言葉は、ユークの心を深く抉った。勇者殺しの罪を擦り付けられたのは、まさに彼自身だ。異端の魔女と契約し、この場にいること自体が、彼をさらに窮地に追い込むだろう。
「私を……陥れるために……?」
「その可能性も否定できない。だが、犯人が『虚無の螺旋』という痕跡を残したのは、なぜだと思う?」
シエルは、再び台座の紋様を指差した。
「この術式は、発動に莫大な代償を伴う。そして、その痕跡は、決して消せない。犯人は、この『消せない痕跡』を残すことを承知で、この術式を用いた。それは、自らの存在を、この場に刻み込む行為に他ならない」
ユークは、紋様を凝視した。確かに、その魔力の残滓は、術者の強烈な意志を物語っているようだった。それは、単なる隠蔽のための犯行ではない。何かを「伝えたい」という、切実な願いにも似た、歪んだメッセージ。
「伝えたい……何を……?」
「それは、あなたが解き明かすべき謎よ。この神殿には、まだ隠された記憶があるはず。犯人が残した、真のメッセージがね」
シエルは、神殿の奥、かつて神殿調律官たちが記録を保管していた書庫の方向を指し示した。その場所は、崩れた天井から光が差し込み、埃が舞い上がっている。
ユークは、その方向へと歩き出した。彼の心には、裏切りの影と、神殿の沈黙の中に隠された、犯人の真意を解き明かそうとする、新たな決意が宿っていた。因果の檻は、その深淵の記憶を、彼に語りかけようとしていた。