第5話:虚無の螺旋、神殿の深奥
ユークは、祭壇の空白に手をかざしたまま、思考の渦に沈んでいた。シエルが語った「存在の消滅」。それは、単なる物理的な盗難ではない。勇者の「絶対性」を理解し、それを逆手に取った犯人の、神をも冒涜する手法。
「消された聖具は……勇者の『存在』と深く結びついていたもの……」
ユークは繰り返した。勇者の『存在』とは何か? それは、魔王を討つという『予言』に他ならない。ならば、この空白から消え去ったのは、勇者の『予言』そのものを象徴する聖具ではないのか。
「まさか……『救済の預言』が刻まれた、あの石板か……?」
彼の声は、停止した神殿に響いた。神殿の中央に安置され、勇者の選定と同時に彼に託されたとされる、最も神聖な『預言の石板』。それは、勇者の運命そのものを具現化したものだった。
シエルは、微かに目を細めた。
「その可能性は、高いわね。もし、その石板が『原因』として消し去られたのなら、勇者の『結果』である『魔王討伐』も、そしてその『原因』である『勇者としての存在』も、一時的に無効化される。その隙を突いて、犯人は勇者を殺した」
ユークの脳裏に、鮮烈な光景が広がった。予言の石板が消滅し、勇者の存在が世界から一時的に切り離される。その一瞬の空白に、不可視の刃が心臓を貫く。それは、神の摂理を逆手に取った、あまりにも巧妙で、あまりにも冒涜的な殺人だった。
「だが、なぜ……なぜ、そんなことが可能なんだ? 『存在の消滅』など、神々ですら容易に扱えぬ、禁忌の術のはず……」
ユークは、かつて学んだ禁忌の知識を思い出す。因果律を直接操作する術は、世界の均衡を崩すため、厳重に封印されていた。それを、なぜ一介の人間が、あるいは魔族が、行使できたのか。
シエルは、祭壇の台座に指を滑らせた。
「禁忌の術は、確かに存在する。だが、それを発動させるには、莫大な代償と、そして『触媒』が必要よ」
彼女の視線が、台座の表面に刻まれた、ほとんど見えないほどの微細な紋様を捉えた。それは、神殿の調律術式の一部だが、その中に、わずかに異質な、しかし強力な魔力を帯びた痕跡が残されていた。
「これよ。『存在の消滅』を発動させた、触媒の痕跡。この紋様は……『虚無の螺旋』。古の魔術師が、因果の隙間を抉るために用いたとされる、禁断の術式だわ」
ユークは、その紋様を凝視した。それは、彼の知る神殿の術式とは異なる、異質な、しかし恐ろしく洗練された構造をしていた。犯人は、神殿の調律術式を理解し、その一部を『虚無の螺旋』の触媒として利用したのだ。
「犯人は……この神殿の術式を熟知している。あるいは、かつてここにいた者か……」
ユークの思考は、新たな方向へと加速した。勇者殺しは、ただの殺人ではない。それは、世界の法則を弄び、神意を嘲笑う、周到な計画だった。そして、その計画の裏には、この神殿の秘密を知る者がいる。
因果の檻は、その深淵を覗かせ始めているのだった。
一度完結済みにしておきます。
好評でしたら、続きの話を考えたいと思います。