第4話:歪んだ痕跡、神殿の沈黙
ユークは、シエルの言葉を反芻しながら、停止した神殿の内部を見回した。因果の痕跡。犯人が勇者を殺すために仕掛けた「原因」。それは、物理的な証拠とは限らない。むしろ、世界の法則を歪めたが故に生じた、目に見えない歪みこそが、真実を語る鍵となるだろう。
「この神殿は……かつて、因果の調律を行う場所だった」
ユークは呟いた。かつて、彼が職務に就いていた頃、この場所は神意の均衡を保つ聖域だった。しかし今、そこには崩壊と、そして死が横たわっている。
シエルは、そんなユークの隣を歩く。彼女の足音だけが、停止した空間に微かな波紋を広げる。
「神殿の構造そのものが、何らかの『原因』を隠している可能性もある。調律官だったあなたなら、この場所の『呼吸』を知っているでしょう?」
ユークは頷いた。神殿の設計は、神意を地上に降ろすための複雑な幾何学と、因果の流動を制御する術式で構成されている。彼の目は、崩れた瓦礫の隙間、ひび割れた壁の模様、そして祭壇に残された微細な彫刻へと向けられた。
その時、彼の視線が、祭壇の奥、普段は聖具が安置されているはずの場所に釘付けになった。そこには、何もなかった。いや、正確には、「何もなさすぎる」ことに違和感を覚えた。聖具が持ち去られた痕跡は、通常の盗難とは異なる、奇妙な「空白」として存在していた。
「……ここだ」
ユークは、祭壇へと駆け寄った。聖具が置かれていたはずの台座には、埃一つない。まるで、そこに元々何も存在しなかったかのように、あるいは、存在したものが、完全に消滅したかのように。
「これは……物理的な撤去ではない。存在そのものが、『無』に帰している」
シエルが、ユークの言葉に反応する。彼女の瞳が、その空白を鋭く見つめる。
「『存在の消滅』。因果律の極致よ。特定の『原因』を消し去ることで、『結果』を無効化する。勇者を殺すために、犯人は、彼の『存在』に繋がる何かを、ここから消し去ったのかもしれない」
ユークの脳裏に、一つの可能性が閃いた。勇者の鎧を貫いた不可視の刃。それは、鎧を「存在しない瞬間」にしたのではなく、鎧の「存在」そのものを一時的に消滅させたのではないか。そして、その消滅のトリガーとなった「原因」が、この聖具の空白と繋がっている。
「ならば、消された聖具は、勇者の『存在』と深く結びついていたもの……」
ユークは、その空白に手をかざした。ひんやりとした、虚無の感触。この神殿の沈黙は、ただの静寂ではない。因果の歪みが、空間そのものに刻み込まれた、声なき叫びだった。
「犯人は、勇者の『絶対性』を理解していた。そして、それを逆手に取った……」
シエルは、ユークの横顔を見つめる。その瞳には、再び、知的な光が宿り始めていた。因果の檻は、その次の扉を開いたのだった。