第3話:因果の残滓、不可視の刃
ユークは、勇者の死体から数歩離れ、停止した神殿の床に視線を落とした。シエルの言葉が脳裏を反響する。「鎧が存在しないかのように。あるいは、鎧が『存在しない瞬間』に、攻撃が加えられたかのように」。それは、神殿調律官として彼が学んだ「神意の法則」を根底から揺るがす、異質な概念だった。
「『存在しない瞬間』……」
ユークは呟き、ゆっくりと勇者の胸元に手を伸ばした。血で汚れた白銀の鎧。その表面には、確かに致命傷となるほどの損傷はない。だが、その内部、心臓が貫かれたであろう箇所に、微かな、しかし決定的な「歪み」を感じた。それは物理的な傷ではなく、まるで空間そのものが捻じ曲げられたような、因果の残滓だった。
「これは……時間ではなく、空間の、歪み……?」
「いいえ、ユーク。それは『因果の歪み』よ」
シエルは、ユークの隣に立つ。彼女の指先が、停止した血の飛沫を掠める。
「勇者は、未来で魔王を倒すという『結果』が予言されていた。その『結果』に至るまでの『原因』、つまり彼の存在そのものが、この世界では絶対だった。だが、その絶対が、この場で破られた」
彼女の言葉は、まるで世界の法則を説くかのように、静かに、しかし有無を言わさぬ重みを持っていた。
「勇者の死は、未来の『結果』を消滅させた。その結果、過去から現在へと続く『原因』の連鎖にも、矛盾が生じたの。鎧を貫いた不可視の刃は、その矛盾が具現化したもの。本来存在するはずのない『結果』が、無理やり捻じ込まれた痕跡よ」
ユークは、その説明に眩暈を覚えた。神殿調律官は、因果の連鎖を読み解き、神意の通りに世界を調律する者だ。しかし、目の前で起こっているのは、その因果そのものが破壊された現象だった。
「つまり……この鎧を貫いたのは、物理的な刃ではない、と?」
「そう。あるいは、物理的な刃が、因果律の隙間を縫って、勇者の存在に直接触れた。どちらにせよ、通常の手段ではありえない。犯人は、この世界の法則を理解し、それを逆手に取った」
シエルは、神殿の奥、崩れた祭壇の方へ視線を向けた。
「この神殿には、まだ他に『因果の痕跡』が残されているはずよ。犯人は、勇者を殺すために、何らかの『原因』を仕掛けた。その『原因』こそが、真実を語る鍵となる」
ユークは、再び勇者の死体を見た。その顔は、停止した時間の中で、苦痛の表情を凍らせている。彼の中に、かつての調律官としての使命感が、ゆっくりと蘇り始めていた。この矛盾を解き明かすことこそが、世界の崩壊を止める唯一の道。
「……探す。その『原因』を」
彼の声は、停止した世界に、確かな意志の響きを刻んだ。因果の檻は、まだその秘密を隠している。