第2話:停止した因果の檻で
世界は、確かに止まっていた。
風は神殿の崩れた壁の隙間で凍りつき、舞い上がった砂塵は宙に縫い止められている。血の匂いさえ、その拡散を許されず、粘着質な塊として空間に張り付いていた。ユークは息を呑んだ。この現象は、神殿調律官として学んだいかなる神意の法則にも抵触する。いや、それどころか、世界の根幹を成す「時間」という概念そのものへの冒涜だった。
「これは……いったい……」
「私の力よ」
薄桃色のローブを纏った魔女――シエルは、涼やかな声で答えた。彼女の瞳は、停止した世界の中で唯一、生きた光を宿している。
「正確には、『因果律の一時停止』。この神殿に存在する全ての事象を、私が望む刻で固定する。犯人が残した痕跡を、風化させることなく、ね」
シエルは、死体の傍らに膝をついた。その指先が、勇者の白銀の鎧をなぞる。血に濡れた表面に、微かな傷跡が走っていた。
「勇者の死因は、心臓を貫かれたこと。だが、この鎧には、その致命傷を与えうるほどの損傷がない。おかしいと思わない?」
ユークの思考が、停止した世界の中で初めて動き出す。確かに、神聖な加護を宿すこの白銀の鎧は、並の攻撃では傷一つ付かないはずだ。ましてや、心臓を貫くほどの力であれば、鎧は砕け散っているはずだった。
「……貫通した、と?」
「そう。まるで、鎧が存在しないかのように。あるいは、鎧が『存在しない瞬間』に、攻撃が加えられたかのように」
シエルは立ち上がり、ユークの顔を覗き込んだ。その表情には、微かな愉悦が浮かんでいる。
「神殿調律官なら、この矛盾が何を意味するか、理解できるでしょう? 予言を破った勇者の死は、世界の因果律を歪ませた。そして、その歪みは、この殺害現場にも、明確な『痕跡』として残されている」
ユークは、勇者の死体から目を離せない。予言の崩壊。因果律の歪み。そして、鎧を貫いたはずの、不可視の刃。それは、彼がかつて信奉した神々の法則を、根底から嘲笑うかのような現象だった。
「これは……神への反逆だ……」
「いいえ。これは、真理への挑戦よ」
シエルは、停止した空を見上げた。その視線の先には、崩れた神殿の天井から覗く、凍りついた青い空が広がっている。
「世界は、勇者の死を許さない。ならば、私たちもまた、この死の『真理』を許さない。さあ、ユーク。神々の名のもとに、この停止した因果の檻から、真実を解き放ちなさい」
彼女の言葉は、世界の重さを背負っていた。そして、その重さは、ユークの凍りついた思考を、再び、熱く燃やし始めた。