第02話 ブドウ踏みと戦士
今日は午後から、村の広場で毎年恒例の、お酒作りのためのブドウ踏みが行われる。詳しい事は分かっていないがこの伝統は、今から千年以上前に栄えた古代魔法時代に始まったと伝えられている。
広場の中央には、大きな木製の樽がいくつも並べられ、その周囲には朝から収穫されたばかりのブドウが山のように積まれていた。陽を浴びた果実はぷるぷると膨らみ、甘い香りを放っている。
私は10才。今年から念願のブドウ踏みに参加できる年齢だ。長年待ち望んでいた体験がついに実現すると思うと、胸が高鳴る。
「おはようございます!」
広場に駆け込むと、おばさんたちが振り向いてにっこり笑ってくれた。
「おやまあ、朝から元気だねぇシャンソンちゃん。あたしらもその元気分けてもらいたいわ」
「あらあら、可愛らしいこと!今日はたーっぷり踏んでもらうからね?覚悟はいいかい?」
笑い声が弾ける。しかし、その表情の奥には、一抹の不安が見え隠れしていた。
本来なら、ブドウ踏みは若い娘たちの仕事だ。だが、代替わりした領主による重税のせいで、村の若者たちは次々と街へ出稼ぎに行ってしまい、今や残っているのは年配の女たちと子供ばかり。
「さて、始めようかねえ……」
おばさんが樽を見上げ、ため息混じりに言った。樽の縁は腰ほどの高さがあり、足腰の弱った彼女たちにとっては、そこに入るだけでも一苦労だ。
それでも、やらなければならない。今年も良い酒を作るために、彼女たちはブドウを踏む。
でも――私は、この仕事がすぐに大好きになった!
「ぎゅっ、ぐにゅっ!」
足を踏み下ろすたびに、ブドウがつぶれて果汁がじわりと肌に馴染む。ぺたぺたと響く音がなんだか楽しくて、ついリズムを取ってしまう。
「よいしょ、よいしょ!」
私は小さな体をいっぱいに使って、一生懸命ブドウを踏む。足が少し沈み込む感覚も、果汁がくすぐるように流れる感触も、なんだかおもしろくてたまらない。
「シャンソンちゃん、がんばってるねえ」
おばさんが優しく声をかけてくれる。私は嬉しくなって、ニコッと笑った。
「はい! いっぱい踏んで、おいしいお酒にします!」
ぎゅっ、ぎゅっ、ぎゅっ!
私は小さな拳をぎゅっと握りしめて、もっともっと踏みしめる。少し大変だけれど、止まらない。だって、私が頑張れば、みんなが喜んでくれるから。
リズムよく踏むと、心まで弾むようだった。私は思わず、最近流行の歌を歌い始めた。
「あなたの歌声響くたび 誰もが心奪われる
銀の舞いは闇を裂き 胸を震わす水の響き
願いを力に踏み鳴らし 永遠さえも超えてゆけ」
最初は小さな声だったが、踏む足に合わせて自然と声量が増していく。ブドウを潰す感触と歌うリズムが重なり、私の体は心地よい高揚感に包まれていった。
周りの女たちも私の歌声に顔を上げ、おずおずと口ずさみ始める者もいる。気づけば私の声は広場全体に響き渡り、歌うほどに足取りも軽くなり、歌詞を忘れても即興で言葉を紡ぎ、思わず両手を広げて身体全体で歌い踊っていた。
その瞬間――何かが変わった。
空気が揺れる。私の歌声が、広場いっぱいに染み渡っていく。まるで、忘れられた神話の時代の聖なる鐘の音のように。
年配の女たちがハッと顔を上げた。
「……あら?」
「痛くない……? さっきまで膝がズキズキしてたのに……」
「腰が伸びた……? こんなの何年ぶりだろう……?」
驚きの声があちこちで上がる。さらに、気づけば動きが変わっていた。
さっきまで辛そうにしていた女たちが、まるで軽やかに踊るように足を動かし始める。
どん、どん、どん!
樽の中で、彼女たちの足踏みが揃い始めた。
どん、どん、どん!
そしてリズムが生まれる。力強く、規則正しく。
誰も「疲れた」なんて言わない。それどころか、彼女たちの目は活力に満ち、どこか高揚したような輝きを帯びている。
――もっと踏め! もっと、もっと! ほら、歌に合わせて……!
声が弾む。どこか熱に浮かされたような、異様な高揚感。
どん、どん、どん!
誰も止まらない。誰も疲れない。
むしろ、さらに強く、さらに速く。
樽の中に、グルーヴ感が生まれる。
どん、どん、どん!
私は楽しくて楽しくて、くるくると回りながら、無邪気に歌い続けた。スカートの裾がふわりと揺れ、頬は紅潮し、目をきらきらと輝かせながら。
――もっと、もっとね! みんなで踏んで、おいしいお酒を作ろう!みんなで戦って、勝利の美酒を作ろう!
再び、空気が揺れる。何か見えない心地の良い熱を帯びた波のようなものが、ゆっくりと広がり、周囲の人々に伝播して行く。
どん、どん、どん!
足音は狂気じみた統一感を持ち、まるで戦場へ突き進む、鍛え抜かれた強兵の行進のように響き渡る。
甘く、濃密なブドウの香りが辺りを満たす。
誰もが笑っている。誰もが酔っている。
◇◇◇◇
この日、ブドウ踏みは例年よりずっと早く終わった。
私の中に、この演習をもう少し続けたかったという気持ちが湧いた。しかし、戦友たちの笑顔を目にした瞬間、それだけで胸の中に温かな感情が広がり、訓練を超えた満足感が込み上げてきた。
ほどなく、胸に満ちていた熱のような物が、すうと外に抜け出ていくような感覚に襲われる。
――あれ?訓練じゃないよ、ブドウ酒作りだよ!
「よし!また来年も頑張る!」
私は小さな手をぎゅっと握って、甘いブドウの香りに包まれながらそう誓った。
その時の私は、今夜あのような惨劇が起こるとは知る由もなかった。