58話 暗くて重いハコの蓋
廊下の窓から見上げた空は気持ちの良いほど青一色で、暑ささえなかったら清々しい空だった。
高校最後の夏休み。受験生に夏休みなんて無いの言葉通り、講習の日々だ。
講習を終えていつも通り美術室をのぞいた。でも彼女はいなくて、その足で職員室に向かった。
早く会いたい。会って話をして、彼女の笑った顔を見たい。
ただ、それだけだった。
職員室の前で彼女は、女生徒に囲まれて幸せそうに笑っていた。
「おめでとうございます」
「いつ結婚するんですか?」
「ダブルでおめでたいですもんねー」
「もう生まれる日とか分かるんですか?」
キャッキャッと明るい声で祝福されている彼女。
結婚と妊娠
それは俺たちの間にはあり得ない事だった。
彼女が俺の存在に気づいた。微笑みが驚きで固まっていく。
「鼓君!」
彼女が俺を呼ぶ声が遠い。
頭で考えるよりも早く、俺はその場から逃げ出していた。
半年間の秘めた付き合い。
手をつないだ事も、キスをした事も無い。
それでも、お互いが想い合っていると思っていた。
心が繋がっていると思っていた。
彼女と過ごした時間が、過去が、思い出が、たくさん…たくさん溢れてくる。
全てが嘘だったんだろうか。
甘い言葉に騙されていただけなんだろうか。
あの笑顔も。
泣きそうになりながら喜んでくれたことも。
俺が卒業するまで待っててくれると約束したことも。
「幸せだわ」と言ったあの言葉も…。
何もかも。
全てが嘘だった。
その日以来、美術室には行かなくなった。
たったそれだけで彼女とは会わなくなった。
季節が夏から秋に変わる頃には美術教師も別の人に変わっていた。
受験勉強に忙殺され、彼女の事は忘れていった。
秋から冬、そして季節は春になろうとしていた。
大学も無事決まり、卒業式を迎えた。
式も終わり、教室で担任の最後の話を聞いたり、友達と写真を撮ったりして
手紙の存在に気づいたのは帰ろうとした時だった。
空っぽにしたはずの机の中に小さな白い封筒が入っていた。
表に鉛筆で「鼓君へ」とだけ書かれていた。
その文字だけで差出人が彼女だと分かった。
彼女がよく使っていたスケッチ用の2Bの濃いめの鉛筆。
癖のない細身の文字。
手紙には「美術室で待ってる」とだけ書いてあった。
手紙を入れたのはきっと式の時。
式が終わってから友達との別れを惜しんでだらだらと過ごしてしまった。
彼女はまだ待っているか?
久しぶりに手をかけた美術室のドアはすんなりと開いた。
その中にはずっと会いたかった彼女が立っていた。
「鼓君…卒業おめでとう」
彼女のお腹は外から見て分かるほど大きくなっていた。
「…先生。ご結婚されたんですよね」
「結婚してないの。…だって心から愛したのはあなただけだもの」
「えっ」
「ずっと待ってたの。鼓君が卒業するの。
これでやっと手をつなげるね」
彼女は幸せそうに微笑んで、俺の手を取った。
彼女を幸せにしたい。ただそれだけだった。