28話 宮下翔子物語9
退院した後の事もよく覚えていない。
ただ目の前の事がぼんやりと過ぎていた。今までの自分が無かったように見事なまでに私は空っぽだった。
気がつくと、季節は夏になっていた。
学校が夏休みに入ると、私は空っぽなまま街を彷徨うようになった。
母と同じ家にいる事を拒み、当てもなく歩いた。母もそんな私を止めなかった。
ある日、漂っているだけの私をある人が呼び止めた。
「そこのお嬢さん」
呼び止めた声に私は振り向いた。
その先には古く小さな趣のある駄菓子屋、中からあまりにも不釣り合いなお姉さんが出てきた。
白のワンピースに白い肌、華奢という言葉がよく似合う人だった。
「ちょっとちょっと」と呼ばれるがままに、私は駄菓子屋に入っていった。
お姉さんは年季の入ったアイスボックスからアイスを取り出して、一つを私に渡した。ソーダの棒アイスだった。
戸惑う私に、お姉さんは「おごり」と言ってアイスを頬張った。お姉さんの肌と同じ白いバニラの棒アイス。
袋を開けて、私もアイスを頬張った。
「お嬢さんはこの辺りの子?」
アイスが半分になりかけた頃、お姉さんが私にそう聞いた。
「…いえ、違います」
私は街の大通りを歩く。夏休みで私と同じような子はたくさん居て、誰も私の事を気にしていない。
それが私の気持ちを少し楽にさせてくれた。
その日もいつもと同じように大通りを歩いていると、大通りからのびる裏道に気づいた。その時私は初めて裏道の存在を知った気がした。でも、空っぽな私はそれほど興味がなかった。
しかし、その瞬間なぜか母の言葉を思い出した。
「遊ぶのはいいけど、気をつけるのよ。なるべく人の多いところを歩きなさいね」
その言葉は母が私の母じゃないと知るだいぶ前に言われた。
もう一度裏道を見ると、大通りと比べて人がまばらだった。私は裏道に足を踏み入れた。
ただ、母の言葉に逆らいたかった。そのままフラフラと歩いていたらお姉さんに声をかけられたのだ。
「そう、じゃあ私と同じだわ」
「えっ?」
「私もこの辺りの人間じゃないの、じゃあなんで駄菓子屋で店番してるのって話しよね」
フフフっと笑うお姉さんは子供のように見えた。けれどその笑みは意地悪なものではなく、無邪気でどこか私を安心させた。
「友達がね、私をここに連れてきてくれたの。そしたらおばあちゃんが倒れちゃって、友達はおばあちゃんと一緒に病院。お店そのままにしておけないから私は店番してるの」
お姉さんはよく喋った。私が疑問を口にする前に全てわかっているように答えた。
「あっ、アイスは私のおごりだから気にしないでね」
私は黙ってアイスを食べた。
そこだけが時間と空間を切り取られたように別のモノが流れていた。
「どうしてって?思ってる」
「私はそんなに分かりやすいですか?」
この前の私だったらこんなトーンで人に話す事は無かった。そんな私が居ることすら知らなかった。
けれど、今は知ってしまった。知らなくていい事を知ってしまった。出来ることなら知らなかった頃に戻りたい。
「そういう訳では無いと思うわ。あなたのことが分かるのは」
「私とあなたが同じだからよ。私もあなたみたいな目で街を彷徨っていたわ」
お姉さんの目はとても優しかった。その目はお母さんにそっくりだった。
溢れた、何もかもが溢れ出た。
涙も、呻き声も、つっかえていた気持ちも、どろどろに渦巻いていた考えも。
途方もなく空っぽだと思っていた私の中は自分で思っているよりもずっと沢山のモノが詰まっていた。
何もかも出し切った頃には空が夕日に染まっていた。
お姉さんは私に白い帽子を貸してくれた。私の格好にはかなりミスマッチだったけど、泣きはらした顔を隠すには他に無かった。
しかし、お姉さんはそんな私の顔を見て「いい顔になったわ」と言ってくれた。
家に帰って、私はリビングに入った。食事をする以外入ろうとしなかった空間。
そこには夕食の仕度をしているお母さんが居た。
私の足音に気がついたお母さんは私の顔を見て驚いた。
「どうしたのっ!何かあったの!!」
私の顔は相当酷いらしい、後で鏡を見てこなくちゃ。
私の心は軽かった。何もなかった事にはできない、でももう怖がるのはやめよう。
「……お母さん」
「私はお母さんの子だよね」
「当たり前じゃない!」
私を愛してくれた母に偽りはどこにもなかった。
お母さんと私は抱き合って二人して泣いた。後で二人の顔を見て笑った。
二人して酷い顔だった。でも、いい顔だった。
それからしばらくして、私はあの駄菓子屋の前を通った。
駄菓子屋には小さなおばあさんがちょこんと座っていた。お姉さんの姿はどこにもない。
幻のように思った。でも私の部屋にある白い帽子があの日、あのお姉さんに出会った事を語ってくれる。
いつかこの帽子を返せる日が来るだろうか