03─black-water─
どうせ体もすっかり綺麗に洗われているだろうし、何より自分は死ななかった。おそらく、体に何らかの耐性とか抗体ができているのだろう。この見えなくなった目はどうだかわからないが。
簡単な考えで自分を説得し、自分の自由のために思考を凝らす翔悟。
こんな自体でも、学校側は時間をもてあます気は無いらしく、午前中だけだが授業は行っているらしい。翔悟は隔離されているので授業には参加できていないが。
他、朝昼晩の三色は摂取できないものの、十時三十分に朝食、午後四時に夕食。これらの食料は全て、『責任を持って、私が皆の食料を確保する!』とか意気込んだ校長がトラックに乗って給食センターまで摘みにいったそうだ。事前に電話でそのことを知らせ、色々手続きを行ったようなのだが。
なんとも勇気のある、頼もしい校長だ。
全校生徒は全員、親の携帯電話または家に連絡をし、双方の無事を確認している。翔悟は担任が変わりに電話をしてくれたようで、家族は全員無事らしい。中にはそうでない生徒もいたそうなのだが、それはかわいそうだと思う以外に同情の余地は無い。
改めて考え直せば、抜け出すためには授業中が一番好機かもしれない。しかし、たまに保険の教師である結城 真美(26歳独身)がこの保健室に用事でとどまっているときが有る。聞いてみたところ、毎週水曜日と土日以外が何らかの仕事でここにいないといけないらしい。どうやら黒い雨についての研究飼料が届くからなんとか。おそらく、黒い雨にうたれて何か発症した場合の対処法とかが書いてあるのだろうけれど。
そして行動に移す日が水曜日。明日だ。あまり深く考える必要は無い。見つかった場合のことは面倒くさいので考えないことにした。よくよく思ったのだが、出てもすることが無い。図書室に行って本をとってくるとかくらいなものだ。友人に会ってもチクられたら困ること間違いなしだし、そもそも雨にうたれたこの身、避けられたりするかもしれない。
やっぱりやめようかな。それが一番無難だった。どっちにしろ、自分が孤独なことに変わりは無いというわけだ。
やる気が出ず、ただ寝てボーっとしているだけの日常がどれだけ退屈なものなのか実感する日がやってくるとは、このご時世どうなってしまうのだろうか。死の恐怖も味わったし、右目も何も写さなくなった。
絶望も何もかも通り越してしまったような気分。
憂鬱間に浸っていた、次の瞬間。
女性の甲高い悲鳴、この声は保険教師の結城 真美。その悲鳴は、間もなく、何かに阻まれたように掻き消された。口をふさがれたときのように声にフィルターがかかり、もがくような音とともにすぐ沈黙がやってきた。
今は生徒皆が授業中。ろくに話を聞いているとは思えないが。しかし、今の悲鳴により生徒はおろか教師もさぞかし驚いているだろう。翔悟もそうなのだから。
悲鳴は保健室の近くだろう、大きく感じた。こんな時に誰かが欲求不満で結城先生を襲った、などと考えたくは無い。かといって、こんな事態のときに強盗とか気の狂った人間が学校を襲うわけも無い。
何があった?
気になって仕方ない。しかし、ここから出てはいけない。一度は脱出を考えたとしても、結局諦めたのだから。
迷っている間に、廊下をバタバタと走る音が聞こえてきた。
全員教師らしく、生徒は一人も混じっては居ないようだ。
話し声を聞き逃さないように、耳を傾けた。
「何だ、これは……?」
「結城先生の顔に黒いアメーバ状のものが」
「黒い雨の色にそっくりだ」
「一体何が起こっている」
全て驚きの感想ばかり、分かることは、結城先生の顔に黒い何かがくっついているということだけだ。
そして、刹那。
さくほど聞こえた教師全員の叫び声が、校舎内を支配した。
何か生ものを鋭い牙で噛み砕き引き裂くようなグロテスクな音が響き渡り、結城先生のときと同じくして沈黙が甦った。
背筋を一瞬にして寒気が走る。翔悟は、前に味わった死の恐怖と同じ感覚を再びその身に宿している。
変な表現をすれば、トロトロになった水がはいつくばっているような、そんな音が保健室にむかってきている。
いくら大人でも、そんな奇怪な音を立てて歩いてくるわけがない。
おそらく、こちらに向かってきているのは、そう、『黒いアメーバ状のもの』以外の何者でもないはずだ。
扉は閉まっている。アメーバに入ってこられるわけがない。そう信じたい。
音が止まった。
空気と、口の中にたまった唾液を喉に通す。
天に、祈るしかなかった。