第十二番歌:似せた物語(三)
三 師走三日
二〇二教室は、昔、和舟の個人研究室であった。
「おはようございます、和舟の姐さん」
愛弟子の名札をなぞっていると、屈強な色男が出勤してきた。
「おはよう、近松くん。花の宴でのあだ名を、まだ呼んでくれるんだね」
「姐さんには、手取り足取り指導いただいたものさ」
近松初徳、教授に昇格したのだったか。新米教員の彼が、土御門くんと犬猿の仲で、当時の近現代文学担当(現学長だとは、驚き桃の木山椒の木だ)が仲裁していた。
「ガールフレンズとは、どうなんさ?」
「酒と同じく、ほどほどに」
「パートナーに、首ったけなのかい?」
近松は、押し黙った。
「異性を貝おほひに選んだね。昔の近松くんでは、ありえなかったさ。しかも、現学長が欧州で家庭教師をしていた時の生徒ときた。ワケありなんだろう」
真珠のネックレスをじっと見つめる近松。
「大切にしているのなら、私はもう穿鑿しないよ。だからさ」
和舟は近松のネクタイを引いた。
「懐の刀は、抜くんじゃないよ。血なまぐさくして一日を棒に振りたくはないんだよ」
「…………忝い」
近松は、頭を垂れて二〇四教室に入った。
「『すき』だらけな所は、直っていないね」
「貝おほひ」の、主任を護衛する部門・参の壇は、近松と森エリスが就いていた。エリスの航路は、直に会っていないので未だ辿れていない。近松が意図して避けさせているのやも。
「敵だとみられても、しょうがないよ」
昨夜片付いた(土御門と彼の門弟を使役した)個人研究室の鍵を差し、和舟はゼミ生の卒業論文進捗状況の整理にかかった。
なんだ、フツーに理科室じゃないか。過度に期待をかけていた萌子は、すっかり力が抜けた。培養液が満たされたカプセル、怪しげに点滅する何色もの発光ダイオード、スリリングな手術台は、理学部の拠点・C号棟に設置されていなかった。
「いおりんセンパーイ☆」
立ち直りが早い萌子は、唯音にぽち袋を渡した。アニメ「絶対天使 ☆ マキシマムザハート」第三シリーズの絵柄だ。
「コノ間ノ、ガソリン代デス。夜ドライブ、サイコーでシタ☆」
唯音は、湖のような瞳でマキシマムなぽち袋を凝視する。
「お金は、いらない……です」
「科学館ノ入館料、プラネタリウム、ディナー、ゼンブ奢ッテくレタじゃナイっスか! ソコらヘンは、きっちりサセてクだサイ」
下宿生の萌子へ、唯音が夜の散歩に声をかけてくれたのだ。都会の泰盤市は、休日でもなかなか行けなかったので、幸運だった。もちろん、二次元の聖地にも巡礼した。
「土日ハ、宿題ト買イ出しト、ときどき当番デ忙シイんスよー。息抜キさセテもらエテ、萌子、ウルトラ感謝なんデス。なノデ、オ納メくだサイ☆」
「今度、華火さん達も、誘う……です」
「ハーイ☆」
ベストの内ポケットにしまって、唯音は隅の冷蔵庫に移った。
「北里カミナリ……ほにゃららセンセのラボなんデスね」
「北里雷爺郎先生、私は、ゼミ生……です」
「キビしソウなセンセっスか?」
ポットの給湯ボタンが、ピッと鳴る。
「単位が、取りやすい、評定が、甘い…………」
「ガンコ親父タイプとハ、真逆っスな」
「化学科の、皆は、ドンネルと、陰で、呼んでいる……ですね」
ドンネルは、独国語で「雷」を意味する。
「甘いナラ、『エクレア』じゃナイっスかねー」
マグカップが二個、実験机に音も無く置かれた。
「ひゃほー、イタだきマース☆ ……ほにょ! ホットレモネードっスか!」
「後輩の、妹が、レモンの砂糖漬けを、くれた……」
「家庭的っスね」
「梅干しづくりにも、凝っている……です」
「オ若いノニ、やりマスなー」
十代後半の萌子が、おばさんになりすますのを、唯音は首をかしげた。
「後輩は、六十五歳、妹は、六十歳……」
萌子はむせてしまった。
「鷹匠を、引退して、第二の人生……です」
「たマニ、日文ノ講義ヲ、おばサンが聴講してマスが、おじいサンの学生っスか……。さスガ大学っスな」
唯音が、おかわりを勧める。まだあるので、萌子は遠慮した。
「昨日は、華火さんと、夕陽さんが、戦った……です」
「対NMっスね?」
二杯目をマドラーでかき混ぜて、唯音は微かにあごを引いた。
「『伊勢物語』のパロディ作品がモチーフっスよね。萌子、古典ハあんまし読んでナイんデス。近現代文学ガ相手ナラ、テンション上がりマス」
「まゆみさんを、狙わない、なぜ……?」
「外堀ヲ埋メル作戦っスかネ……」
レモンの皮をあわてて飲みくだしたから、がっかりした調子だった。
「私達を、試す、非効率的……です」
「……そう、非効率的な、作戦」
湿っぽい声が、研究室に入ってきた。
「誰……」
「……そう、私、佐久間音遠、陣堂女子大学家政学部栄養学科四回生」
潤いの無いセミロングヘアー、顔の下半分を覆うアイスブルーのネックウォーマー、毛羽立ちがひどいベージュのニットセーターと、薬剤のしみが点々とした紺のロングスカート。唯音を数週間徹夜させたら、おそらくこのように変貌するのだろう。ひとつ違いを挙げると、瞳だった。唯音は澄んだ湖に対して、音遠は澱んだ沼だった。
「センパイのドッペルゲンガーかト思いマシたよ!?」
「オ邪魔するゼ★」
次に来たのは、銀髪ショートヘアの娘だった。すり切れた(いわゆるダメージ加工だと推測される)スモーキーピンクのTシャツに、斜めに破れたデニムのスカート、粗めの網タイツと、ガーターベルト、ピンヒール。鋲が付いたチョーカーと、六芒星の眼帯が、なんとも痛々しかった。萌子をパンク路線にしたら、きっとこんな風に仕上がるだろう。
「ミーは、山川・フィギアルノ・豊子★ 陣堂女子大学ノ教育学部芸術科だゼ」
豊子の個性強め(他人のことを言える筋合いはないが)な話し方に、萌子は目をしばたたいた。
「にゃ、いつゾヤの闇ノ眷属!!」
「コレクションをくらっしゅサレた恨ミ、晴ラシに登壇したゼ」
霜月十日、まゆみの力がこの地に暴風雨を「引き」寄せた後、濡れて体調を崩した華火に幻術をかけた者と再会したのであった。
「NMヲ送リ込んだノハ、アナタ達デスか!」
「……そう、今更、気づいた?」
「最後に、萌子さんと、私を、計測する……ですね」
「らすとばとる、トハ限らナイけド★」
豊子が小箱を転がした。この世の憎悪を煮詰めたような黒い立方体が、展開して十羽の鳥が解放された。
「ふわっふわナ雛じゃナイっスか! なンテ罪深イ所業ヲ」
「……そう、鳶の子」
しゃがんで、音遠が雛の一羽の毛をむしった。
「ナンバー・NM―50だゼ。部屋ヲだーてぃニしテもラウかラ、おーけー?」
「実験室だと、分かっていて、騒ぐ……ですか」
豊子は、人差し指をくねらせて挑発のサインをとった。
「いおりんセンパイ、常識ガ通用しナイ相手っスよ、戦いまショウ!」
ヒロイン服で登校していた萌子は、少女趣味な杖「麗しのカムパネルラ」を豊子達に向けていた。
「被害は、最小限に、抑える……」
唯音は、カーテンレールにかけていた青色の衣装を持って、教卓の裏で変身しにいった。
「律儀ニ変身待ちシテやっテル身ニ、なッテもライたいゼ」
「……そう、それが、お約束」
戦隊物の作法には、詳しいようだ。音遠が暇つぶしに他の雛をいじめようとしたら、変身が完了していた。
「原子見ざる歌詠みは、いおんブルー、起動……です」
「こよい会う人みな美シキ☆ もえこピンク見参!」
豊子は、丸椅子に片足を乗せて高笑いした。
「ナンバー・NM―50、狩りノすたーとだゼ★」
鳶の子が、めいめいに羽ばたいた。
「実験器具、でんじゃらすナあいてむ、なんデモですとろい! ミーのこれくしょんノ三倍、りべんじスルんだゼ!」
「ポリス沙汰ニ、しナイでくだサイ!!」
もえこピンクが「麗しのカムパネルラ」の先端を光らせた。
「マキシマムザ・アムールリフレクション☆」
まばゆい撫子色が、鳶の子の進路を狂わせた。
「ヤルじゃないカ、えせ絶対天使★」
「ダテにヒロイン、シテまセんカラ☆」
「……そう、ゆるい、防御」
音遠が、冷蔵庫の瓶をねちっこく触る。ピンクを温めたレモネードの素だった。
「イツの間ニ!?」
「見落とした……です」
いおんブルーの目をごまかせた素早さだった。
「……いらない」
レモンの砂糖漬けが、たやすく落下する。ピンクは、リフレクションを解除して、床を踏み蹴った。
「食ベ物ヲ、粗末ニシなイデ!!」
どうせ割れるのに、なぜ、極めて少ない可能性に賭ける行動をとるのだろう。音遠には、意味不明だった。もうすぐ、瓶の底が着地する。
「寄物陳呪・法螺貝、『萬葉集』巻第九・第一七四〇番歌・海神の神の宮」
国盗り合戦を連想させる音が、紺碧の水を呼んだ。ピンク達が息を止める間もなく、水は研究室に満ちた。
「恐れることないさ。普段のままでいな」
砂糖漬けの瓶が、のたりのたりと浮いていた。ピンクは、海のような空間に呆けてしまった。
「研究室の物は、壊されないよ。『海神の神の宮』は、真っ向勝負の場だ」
玫瑰色のスーツに身を包んだ豪胆なおばあさんが、教壇に立っていた。
「にゃ、たなしーセンセ……」
棚無和舟、二限「日本文学基礎演習B」の新しい先生。まゆみに代わって『萬葉集』を教えている。天ぷらとお酒が好き、時にセンパイ達の戦いをサポートしてくれる謎のセンセ。
「話は聞かせてもらったよ。陣堂女子大学、要注意リストに加えないとね」
和舟は、音遠と豊子にウインクを送った。
「……つまらない、ばばあ」
「ハッハ! 遊び仲間に、私が立候補してあげるよ。あなたとゆっくり、呑んでみたいね」
ぞっとした音遠は、もやしのような身体を折り曲げて、豊子を盾にした。和舟から、ただならぬ憤りを感じ取れたのだ。
「鳶の子を 捕へて鷹に 使ふとも 思はぬ人を 思ふものかな 『仁勢物語』第五十段の歌は、『伊勢物語』第五十段のある歌を元にしているんだよ」
上下二段スライド式黒板の、固定された方に和舟は口ずさんだ和歌を書いた。
「いおんブルーに問題だよ。『伊勢物語』第五十段、鳥の子を 十づつ十はかさぬとも 思はぬひとを 思ふものかは さ、『鳥の子』とは何だ? 『十づつ十』はいくつだ? 『中古文学研究D』のおさらいさ! 土御門くんの講義、聴講してやってくれているんだろう」
太刀魚のように鋭利な「鳶の子を……」と「鳥の子を……」二首を、じっくり追って、ブルーは答える。
「鳥の子は、鳥の卵、十づつ十は、10×10、100……です」
「花丸だよ! ここからは応用問題だ、からくりの『鳶の子』に対抗して『鳥の子』を作ってみな。まゆみちゃんの文で伺っているよ、いおんブルーともえこピンクは、創作に長けているとね!」
ナンバー・NMは、『伊勢物語』の対応する章段で勝てる。和舟の提示した手がかりを、活かす機会、逃さずしてどうする。
「ピンク、整イまシタ☆」
「私も……です」
『未知は、アツい血潮に☆ いおん・もえこコラボレーション!!』
浮遊する砂糖漬けの瓶を取り、ブルーは短い筒にシトリンを溶かしたみたいな蜜を流した。筒を閉じ、腰に提げた三角形のドライヤーの子分―空気砲ピストルに装填した。
「発射……」
淡い黄色の弾が十度、連続で撃たれた。
「十ずつに、分けマスよ☆」
ピンクが空気の塊に、「麗しのカムパネルラ」をひと振り、ふた振りした。撫子色のきらきらした粉がかかって、十の塊が、百に分割された。
「雛ヲ、甘酸っパイ卵ニ眠らセテあゲルっス!」
レモンの香りがする百の弾が、光沢のあるダークブラウンに染まり、卵の形をとった。卵は半分に割れて、至る所で飛んだり徘徊したりする雛を回収した。
「なぜ、チョコエッグ……ですか」
「購買ニ入荷シテたノガ、気ニなッタんデスよー! 365日ひよこマスコットがオマケでシタ」
「桃色さん、欲しい……ですね」
「ぎにゃ」
「終わったら、買いにいく……です」
鳶の子を入れたチョコエッグは、レモンの香りを残して紺碧の水にとろけていった。残りの九十個は、音遠と豊子に体当たりをお見舞いして、チョコレートまみれにさせたのだった。
「……そう、河豚汁なら、瞬殺可能、だった」
「命マデは狩らナイ契約だゼ。ふぃーる・そう・ばっど、完敗」
うなだれる豊子に、和舟が詰め寄った。
「契約は、誰と交わしたんさ? 陣女のお嬢ちゃん」
「口ガ裂けテモ、バラすモんカばーか★ だゼ★」
和舟の唇が、にいっと上がった。音遠が過剰にわなないた。
「…………博士、博士の命令」
「何ていう博士か、聞かせてくれるかい?」
音遠は正座の状態で後ずさりする。
「……名前、知らない、本当、だから、見逃して、お願い」
貝のイヤリングをつついて、和舟は「海神の神の宮」を解いた。
「帰してあげるよ。あなた達には、のっぴきならないご用があるんだろう?」
ブルーとピンクは、顔を見合わせた。
「のっぴきならない……?」
「意味深デスね」
豊子が、実験机の流し台につばを吐いた。
「二度モノ屈辱、ミーはユーを次コソ灰ニしテヤるゼ」
指さされたピンクは、あっかんべーした。
「闇ガ光ニ敵うワケないデスよーダ」
「オ……オオオ、覚エテいロ!」
音遠のネックウォーマーを引っぱり、豊子は研究室を退散した。
「……そう、これ、スーパーヒロインズ! に」
息苦しそうに音遠が、カーディガンのポケットより小さな封筒を出して、地べたにすべらせた。白い水玉模様がレトロな、紅色の封筒だった。
「ティーパーティーの招待状、デハなさソウっスな」
「……です」
一限終わりのチャイムが、廊下に響く。ブルーは通信機の通話ボタンを押した。
教卓に、六杯のホットレモネードが湯気をたてていた。
「ってか、あんで、かき揚げ丼のばあちゃんがいるんだよ」
華火が教壇で足踏みした。
「かき揚げ丼のばあちゃん、じゃないよ。私は、あなた達の顧問代理さ」
「そーかよ」
和舟は、レモネードに口をつけた。
「ふみセンパイ、ココは隊長ガ、バシっと開封シテくだサイ」
「う、うん」
ふみかが紅い封筒のシールをはがすと、一枚の便箋が入っていた。
「何て書いてあるんや?」
表情を硬くする夕陽。教卓に水玉柄の便箋が広げられた。
スーパーヒロインズ! へ
明日、師走四日(金)、十四時に空満神道本部前大通りで会おう!
もちろん、変身したうえで、だよ。
アヅサユミとシラクモノミコトの代理戦争を行うから、よろしくね。
リーダー 天野 うずめ より
「シラクモノミコト……ですか」
唯音が二の腕をさすった。
「まゆみセンセが逃ゲテ、と警告シテた神サマっス!」
「けどよ、売られたケンカは買うしかねえだろっ」
もめそうになる萌子と華火を、夕陽は制する。
「ふみちゃん」
「私は…………、私は、うずめちゃんに会いたい」
手紙の折り目を、ふみかはのばした。
「戦いになるけれど、話をしてみたいんだ」
うずめ、音遠、凍莉、清香、豊子。師走に来たりし五人が、シラクモノミコトの陣営にいるのには、理由があるはず。
「なるべくまゆみ先生に心配かけないように、やろう」
『ラジャー!』
潮はかなひぬ、漕ぎ出で時だね……。和舟は、ヒロインズをそばめに、マグカップの縁を懐紙で拭った。