第十二番歌:似せた物語(一)
一 師走朔日
私は、海辺にいた。特にすることはなく、ぼーっと水面を眺めていた。舟が、こちらへ近づいてきた。小さな木の舟を、嫗が「よいさ!」「ハア、どっこいせ!」など声をあげて漕いでいる。嫗は、玫瑰色のスーツをまとっており、貝の耳飾りと、真珠の首飾りをつけていた。それなりに身分の高い人なのかもしれない。
舟を降りて、嫗は私の手に何かを握らせた。言いたいことがあったけれど、嫗はもうどこにもいなかった。おそるおそる開いてみたら、貝殻だった。虫じゃなくてほっとした。
楕円形で、表面がつるつるしていて、ぎざぎざした線の割れ目がある貝。名前はなんだっけ。頭にもやがかかっていて、なかなか答えが浮かばない。ほら、『竹取物語』にあったじゃないか。かぐやが求婚してきた男のひとりに頼んだ、例の物だよ。
「子安貝じゃないのー?」
ほうじ茶を注ぎながら、母は大きな声で答えた。ご近所迷惑にならないか、心配だった。
「昔、須磨でおばあちゃんの法事があったでしょ。あんた、貝のミニ図鑑を持っていって『ねえ、子安貝はこの海で取れるの?』なんて、おじさんおばさんに訊いて回っていたの。お経唱えているお坊さんにも言っていたよね。もうすぐ小学生なのにさ、顔から火が出る思いだったわ」
記憶に無いんですけど。だいぶ面倒くさい子どもだよね。
「子安貝か。現金だったら本を買えたのになあ」
「夢のメルヘンを、ぶち壊すんじゃありません」
「はいはい」
「はい、は一回」
怒ったかと思えば、もう母はご機嫌だった。
「今日の朝ご飯は、世にも珍しい目玉焼きトースト!」
どうせ、なんとか牧場とか、餌にこだわりました、とかの高級卵なんでしょ。
「ぶぶー! 残念。ふみかの目玉焼きはなんと……」
黄身がふたつ、寄り目になっていた。
「ふたごの卵よ、ふたご! めったにないんだから!」
母は、四つ葉のクローバー、雄の三毛猫にも弱い。担ぎ屋なのは、祖母ゆずりだ。
「い、いいことありそうだね。じゃ、いただきます」
「あんたの妊娠中、産婦人科で双子じゃないかって疑われたぐらい、お腹のふくらみがものすごかったのよ。成長がとても早くて、予定日のひと月前に産まれたの」
幼い頃は、素直に聞いていたし、感動もしていた。中高生の頃は、過去を蒸し返さないでくれる? お涙ちょうだいにしようたって、下ネタでしょ。とひねくれていた。今は……お母さん大変だったね、と気を配れるゆとりができた。
「詩男くんは? やっぱり大きかったの?」
「ああ、詩男は……ちっちゃかった。二四六九グラムだったし、陣痛なんかふみかに比べてめちゃくちゃ軽くて、一時間で産めた。食あたりかと勘違いしちゃったわ」
第二子だって、かわいいし不安もあるのだが、第一子を育て慣れしているせいか、思い入れが浅いようだ。
「ちび助くんだったのにね、家族で一番背が高くてごついじゃない。ゲームばっかりしていないでお買い物手伝ってほしいわよ。あの子のいる物、重いんだよ」
「あー、牛乳と焼き豚ね」
「そうよ、もう。あ、ふみか、火曜は一限始まりじゃないの? のんびりしていて、大丈夫なの」
壁の時計は、出発時間の五分前をさしていた。
「わ、いけない。ごちそうさまでした!」
「おそまつさまでした」
洗面所と部屋を走って往復して、靴を履いた。帳尻を合わせるのは、わりと得意なのだ。
「夢に貝をくれたおばあちゃん、運命の人だったりしてね」
「やめてよ、本当になったら困るってば」
いたずらっぽく笑う母に、行ってきますと告げた。
「運命の人…………ね」
女の勘は、とりわけ母親の勘は当たるとはいうけれど。あんなどぎつい色の格好をしている人とは、遠慮したいものだ。
A・B号棟一階の掲示板より、一限目「自然科学B」は、休講だった。奥さんの出産に立ち会うことになったらしい。母子ともに健康でありますように。しかし、まあ、私的な理由で講義って休めるものなんだね。頭痛、もね。出席取った後に「貧血なので今日はやめます」ってされる方がひどいか。
司書課程か専攻科目の最終課題でも取りかかろうかな。参考文献を求めに、いざ図書室へ。
「もしもし」
肩にふれられて、心臓が飛び跳ねそうになった。
「は、は……はい?」
振り返らなければ、血の気が引かなかったはずだ。逃げておくべきだった。いや、逃げても、現実は塗り替えられなかったんだ。
玫瑰色のスーツ、耳には貝、首には真珠の装飾品。妙にみずみずしい白髪、独国の年輪みたいなお菓子(後で夕陽ちゃんに、バウムクーヘンと指摘された)を切って組み合わせた感じのさっぱりした髪型。夢枕に立っていた、貴なる嫗だった。
「お嬢ちゃん、ちょっといいかい?」
厚ぼったい唇が、私を釘付けにした。若者でも差すのがためらわれる、華やかな紅だ。
「研究棟に案内してもらいたいんだよ。あなた、ここの学生だろう?」
「は、はあ、そうですが」
まゆみ先生が射止める矢なら、このおばあさんは突き進む舟だ。勢いに押されて、呑まれてゆく。
「私は、棚無和舟! お嬢ちゃんの名前は?」
「大和ふみかです」
従わなければ、食べられてしまいそうだ。
「ハッハ! ふみかちゃん、きれいな名前だよ。さ、ふみかちゃん。私を研究棟へ導くんだ」
和舟おばあさんは、どんな人とも親しくなれるのだと思う。見ず知らずの私に、いっぱい自分のことをしゃべってくれた。
「いくつにみえる? 七十八だよ! 再来年で傘寿なんさ。ふみかちゃんは、二十歳。若いね。なんでもやれるよ」
「随分昔に、ここで勤めていたんだよ。A・B号棟が、懐かしくてね。研究棟は、私がいた時には建っていなかったからさ、地図読んだって分からないんさ! この辺をぐるぐる回っていたんだよ」
「金婚式まであと少しで未亡人になってさ、子どももいないものだから、自由気ままなんだ。着たい物を着て、食べたい物を食べて、生きたいように生きる。私の人生、花盛り!」
「赤が好きかい? 母さんに『地味だから赤にしなさい』と言われたんだ。ふみかちゃんに合っているよ。勝ち気だからね。私は、玫瑰色だよ。主人がハマナスを愛でていて、節目のたびに私に一輪くれたんだ」
怖がっていた私が、ばかだった。研究棟の正面玄関でさよならして、喉がひりっとした。もっと、和舟おばあさんと話していたかったな。すっかり冷えた風に当たって、駆け込む場所がほしくなった。本に囲まれて、温もろう。
ふみかの言うとおり、研究棟は豆腐だった。白くて、四角くて、鍋にしたら数千人の空腹を満たせそうだ。和舟は、二階へ上り、待ち合わせの部屋を訪ねた。十二単の女が「ようこそ日文共同研へ」と記された看板を持っている切り絵、学会の広告、文学館の特別展についてのご案内、昔に比べて、にぎやかでよろしい。
「入るよ!」
学生の姿は、無い。事務助手をしている卒業生は、おつかいに行かせたか。わざわざ人払いをするとは、使えるようになったではないか。
「ちと遅かったですな、おぶね先生や」
招いてくれた元同僚は、坊主頭に変貌して、代わりにあごがふさふさしていた。リーゼントのためにワックスやらスプレーやらまぶしたことが災いしたな。毛根を粗末に扱ってきた結果だ。ふぉっふぉっふぉ、おじいになってお公家さんの血が再燃したようだ。それと、まだ「雅」の扇は、離していない。
「水と私は濁らないよ、おふね、だよ」
尻でもひっぱたいてやりたいところだが、病院に申し訳ない。和舟は、元同僚の向かいに座った。
「ご無沙汰だよ、土御門くん」
土御門隆彬は、扇をたたんで完爾とした。
「本務校の許可は、早う下りたのですな」
「弟子が危ういんだ。融通利かせてくれないとさ」
「そちとお嬢は、共に空大を出て、吉野女子大の院へ移った仲でしたの」
「まゆみちゃんは、そばにいさせたかったんだよ。呪いの面でも」
左の耳たぶをつまみ、和舟はまぶたを閉じた。
「大和ふみかちゃんに会ったよ。まゆみちゃんの潮と近しいね……」
「術を行使したのかや」
「航路を辿らせてもらったんさ。初めましてのふりをして、悪かったよ」
えげつないおばば様よの。土御門は、しかめ面をしてお茶を淹れに席を離れた。
「日本文学課外研究部隊のリーダー、育てがいがありそうだ」
「寄り道はほどほどになさるのですぞ。わたしの切り札なのですからな。おふね先生よ」
緑茶を差し出した土御門に、和舟は不敵に微笑んだ。
「私を謀遊びの駒にしたんだ、高くつくよ!」
「承知の上や」
「雅」の面を女傑の目に入れさせて、土御門は口元を隠す。
「して、例の話はまことなのですかな」
女傑の貫き止めている白玉が、蛍光灯に照る。
「私が嘘をついた日があったかい、相棒?」
凄みのある物言いは、三十余年過ぎても健在だった。
「まゆみちゃんの力を封じてはならないよ。この地が……ともすれば、人が滅ぶ。永遠の時化になるよ」
まゆみがおとなしく捕まった。最後の処理に入るまで、個人研究室で読書にふけっているのだそうだ。通常、張本人は、事件に関する記憶を抹消され、呪いが行使できないよう封印の術をかけられる。だが、今回は別だ。
「呪いの専門家がのたまふなら、信用できへんこっちゃありませんな……」
土御門隆彬と、棚無和舟。日本文学国語学科旧・貝おほひ壱の壇が、久々の戦をする。早速、慌ただしい一週間に踏み出したのであった。
夕陽ちゃんは「倫理学B」の小課題発表が延びていて、華火ちゃんは早弁をして受験勉強に、唯音先輩は院生と、萌子ちゃんは演劇部と食事だと連絡があった。たまには、ひとりで二〇三教室を利用するのも悪くない。
事務助手に鍵をお借りしようと、日本文学国語学科共同研究室に入ろうとしたら、
「やーまとさーん」
すさまじく低い声に足止めされた。事務助手の倭文野穏万喜さん(二十五歳・愛妻家)からいらっしゃるなんて。運がついている。
「ちょっと言わせてもらうわよ」
「へ」
事務助手は腰に両手をあて、かがんだ。えーと、私、何かやらかしましたっけ。
「双子のお姉さんか妹さんか知らないけれど、ある程度のマナーは守ってほしいのよ! 中の『お知らせボード』をぐちゃぐちゃにされて、激ヘコみよー。僕、気合い入れてレイアウト考えているんだからね! 身内の監・督・責・任、しっかりしてー!」
あの……女のきょうだいはいないのですが。
「うそーん!? 大和さんにそっくりだったので、てっきり……。やだ、ごめん!」
幸せの贅肉をゼリーのように震わせる事務助手。服の蛍光色がちかちかして、目を伏せたくなった。
「そ、そんな偶然あるんですね」
「そんな偶然あるんだよ」
私と事務助手は、同時にすくみあがってしまった。日本文学国語学科のお約束のひとつ「先生の話(特に本人に聞かれたらまずい内容)をしていると、その先生が現れる」に、学生(または客?)版があるとはね。
「そんな偶然あるんだよ。私が、あなたのそっくりさん」
髪を伸ばしていて、上の部分をちょっとだけ左右対称にくくっている。紅色の、袖が無いワンピース(翌日、萌子ちゃんと夕陽ちゃんに、ジャンパースカートだと教えてもらうことになる)と、平たい靴(先ほどと同様、バレエシューズだと……)。まるで、小学生時代の私がそのまま大人になったような姿だった。
「お兄さん、掲示板を荒らしてごめんなさい。一応、戻しておいたから」
「今度はもう、やめてね。僕、千々に乱れたわ」
私のそっくりさんは素直にうなずいた。
「私は、天野うずめ。陣堂女子大学文学部国文学科の二回生だよ」
「じ、陣堂女子……?」
「大和さん! 陣堂女子大は、とっても有名なお嬢様校よ! 良妻賢母を育てる、仏教系の!」
天野さんは、胸を反らしてみせた。「えっへん!」なんか言っちゃって、見た目のわりには精神年齢が低そう。だけれど、どうしてかな、天野さんを他人に思えない。
「あなたは、大和……何ていうの?」
「ふみか、ですが」
「へえ、ふみか! ふみかって呼んでいいかな? いいよね!?」
とても「いやです」と断れなかった。子どもみたいに純粋な瞳で迫ってこられたら、折れるしかないじゃない。
「ふみかは、どういった用で来たの?」
「え、えっと……空き教室の鍵を。お昼ご飯なので」
「じゃあ、私もよしてもらおうかなー」
会ったばかりの人と食べるのって、かなり気を遣うんですけど。お断りをしたかったんだけれど、
「面倒、よろしく♡」
事務助手に天野さんを押しつけられたのだった。
天野さんは、食事中は口をきかず、終わったら本を読んでいた。顔の他にも、そっくりなところがあった。肩掛けの鞄、ひじきコッペパンと水筒のお茶、それから文庫本。カバーの柄は、惜しくも水玉模様だった。
「今、読んでいるのは?」
「ああ、『萬葉集で逢いましょう』だよ」
気前よく、題名の頁を示してくれた。
「私もなんだ。その作者なんだけど、私の担任なんだよね」
お返しに、私は格子柄のカバーを外して「著者近影」を見せてあげた。藤棚と写ったまゆみ先生は、少しふっくらしていて化粧が濃かった。藤か……もしかして、私の地元・内嶺市の植物園? 昔、遠足で行ったことがあった。『萬葉集』に詠まれた草花を栽培していたし、ありえるかも。
「安達太良まゆみ先生、でしょ。面白そうだよね」
「確かに。講義を聞いていなかったらチョークを投げるし、食堂の米びつの底がついたって噂があるぐらいの食欲旺盛だし、学生の試合に横断幕広げたり、入院したらお見舞いにすいかを贈ったり、面白い先生だよ」
「ふみかは、まゆみ先生を慕っているんだね」
「ま、まあ、なんだかんだね」
栞をはさみ、天野さんが私の方ヘ向きなおった。
「まゆみ先生は、人間なの?」
冗談なのか、わざとなのか、読みづらかった。妙な質問をするんだね……。
「さ、さあ……? 人間離れしているといえば、そうだけれど」
さすがに本当のことは、教えられない。
「へえ……」
天野さんは、本を鞄に放り込んで、たすき掛けした。
「帰ろっと」
「あ、天野さん」
私の答え方が、いけなかったのだろうか。だったら、謝らなきゃ。いやな気分でお別れさせるのは、良くない。
「うずめでいいから。あと、全然いやな気分じゃないよ。予定があって、急がないといけなかったの」
「そっか……」
「また、会おうね。ふみか」
「うん」
お互い不器用に手を振って、ひとりとひとりになった。うずめちゃん、不思議だなあ。鏡の国にいる私、みたい。
「また、会えるといいね、うずめちゃん」
朝と昼までは、総じて「良い一日」だった。
「どうして、どうしてなの…………」
五限の臨時オリエンテーションには、いろいろ物申したかった。まゆみ先生がいないのは、おかしいんじゃないの。担任でしょ。副担任が進行役になって、今月から担任が変わりますって、なによ。先生は療養のため、しばらく休職されます? 昨日までぴんぴんしていましたけど? というか、先生は私たちに隠し事なんてしないから。しんどいならしんどいわーって正直に仰るよ。
「まゆみ先生も、まゆみ先生だよ。サプライズゲストって……んもう」
新しい担任と対面したけれど、新鮮な気持ちになれなかった。母にかこつつもりは、ありませんよ。でも、「運命」なんて言葉は当分聞きたくない。
「むずがゆい、まったくもってむずがゆすぎる」
図書室は十七時に閉まる。オリエンテーションが始まるまでに読み終えた本を、入口前の返却箱に放り込もうとしたのだが。
「なに、落とし物……?」
返却箱の上に、人形が寝かされていた。布団代わりにちり紙が敷かれて。その人形ときたら、とてつもなく不気味なのだ。逆立った髪と尖った歯が生えた、赤ちゃん。こんなおもちゃをもらったら、子どもは泣いて捨てると思う。
「うわ、目が合った」
安物か? 私の世代でも、おねむの顔にできたよ。本を入れて、走ろう。なんだか、寝返りをうって、かぶりついてきそうな……。
「わ、わ、わあ!」
人形が口を開けて、抱きついてきた! 本は返せたけど、私はひっくり返ってしまった。
【ヲ、カ、シ……ナンバー・NM―06……ヲ、カ、シ……オニゴ…………】
欠陥ありのロボットみたいな音が、人形から出た。歯が肩に当たり、
「痛い!」
私は我慢ならなくて人形をはねのけた。本物の赤ちゃんだったら、怪我をさせて大変なことになるけれど、おもちゃだし襲ったのそちらだから構わないよね。
【……ヤマトフミカ……タタカエ……ヲ、カ、シ】
はだかんぼの赤ちゃん人形が、また寝返りして、腹ばいの体勢になった。
「まゆみ先生の力じゃ、なさそうだね」
昨日、まゆみ先生がビー玉使いに狙われた。おそらく、アヅサユミを継がせたくない勢力のしわざだ。ヒロインに変身(課外活動用の衣装にお着替え)していないと、戦えないとビー玉使いに知らされ、私たちは先生に「特別な力」を使わせてしまった。
「変身する時間は、いただくよ!」
研究棟前まで逃げて、花壇の土をひとつかみして投げた。目つぶし攻撃は、赤ちゃん人形の歯にすりつぶされた。
「た、食べた!?」
【ヲ、カ、シ……ニゲルトハ……ヒキョウ……】
「ひ、ひい!」
かわいさ超えて狂ったはいはいで、人形が後追いしてくる! 次は噛まれるなんてものじゃない!
「ごはんにされて、たまるものですかあ!」
「そうだよ。赤ちゃんは、乳を飲んでいればいいんだよ」
暗くなっても目立つスーツが、人形の手をひねって、押さえつけた。
「私が世話をしている間に、済ませてきな」
さっぱりした白髪の嫗が、助け船を出してくれた。
「和舟おばあさん」
「おばあさんじゃないよ。私はあなたの担任さ、ふみかちゃん」
……そうでしたよね。失礼しました。
「ゆっくりしてきな!」
「ありがとう、棚無先生!」
私は、二〇三教室を目指して駆けた。
【ヲ、カ、シ……ジャマスルナ……】
「人工の呪いかい。私も年の波を越えたものだよ」
あがく赤ちゃん人形を、和舟は片手で押さえつけていた。
「あなた、神の知恵が設計図だね。暗雲の匂いがするよ」
神と作ったからくり、か。対等な関係を結べる人間は、多くいない。
「辿らなくても、安達太良家だと分かる」
目的はまゆみではなく、日本文学課外研究部隊。実力を量るため、壊されにきたのだ。
「薄情な主だよ」
左耳にふれる。オオモモノハナガイのイヤリングが、意思を持ったように外れて、光る。光は縦に細く伸びて、棒になった。
「寄物陳呪・櫂、『萬葉集』巻第六・第九三〇番歌・旅のやどり」
和舟の行使する呪い「旅のやどり」。「貝」を、同音の「櫂」に変換する奇跡を叶えた。
「よいさ!」
和舟の櫂は、舟を進ませる以外にも用いられる。たとえば、赤ちゃん人形をすくって、放ることも。
「赤の戦士! あなたの戦ぶりに、乗せてもらうよ!」
人形の先に、赤を基調とした学園アイドルのような衣装の乙女が、勇敢に登場した。
「やまとは国のまほろば! ふみかレッド!」
【ヲ、カ、シ……フミカレッド……ヲ、カ、シ……】
「お待たせ、棚無先生!」
「担任の初仕事だよ! いざ、尋常に!!」
―いざ、戦闘開始。
ふみかレッドが、練習用のおはじき(一袋一〇五円也)を一枚、指で弾いた。
「ことのはじき・花醒!」
本来、「ことのはじき」とは、ふみかレッドの髪留めを指す。弾ける物ならばなんでも「ことのはじき」と呼ぶのは、レッドがこだわりを持たないためである。
「ガラスは痛いよ!」
良心で注意してやったが、赤ちゃん人形は飴に対するように噛み砕いた。
「ええ」
【マダ……ヲ、カ、シ……マダ……】
高二の時、生物の授業中、教師に飴の甘い汁の正体を聞かされた。なめたら汚い、噛んで飲みこんでしまおう。母に持たされたのど飴で実行したら、むせた。のど飴は、ハイパーリフレッシュウルトラペパーミント味だった。刺激の強い液がしみて、飴のかけらがのどをつついてきて、地味に苦しんだ。
「し、知らないんだから!」
聞かない子には、連続攻撃だ。
「ことのはじき・六花閃!」
おはじき六枚を、様々な方向に飛ばす。食べられても、一枚は当たるはず。
「ぐずっても、あやさないよ」
【ヲ、カ、シ…………】
人形の首が三六〇度回った。回りながらおはじきを全部噛んで、おなかに収めたのだ。
【フミカレッド……】
唖然とするレッドに、赤ちゃんがかえる跳びする。
「へこたれていて、どうするんさ!」
和舟が赤ちゃんを櫂でぶった。食われる寸前だった。
「ヤングの特権でもね、場を考えな」
「は、はい……」
人形はうつぶせになって、手足をばたつかせている。
「男子子か 何ぞと人の 問ひし時 鬼と答へて 斬りなまし物を」
ところどころ聞き覚えがあった。
「白玉か 何ぞと人の 問ひし時、『伊勢物語』の芥川みたいだ」
「基礎はなっているね。私が詠んだ歌は、『仁勢物語』第六段。近世期に出版された、『伊勢物語』のもじり作品だよ」
「中古文学の講義で、ちょっとだけ教わりました」
「昔、男ありけり」の冒頭が有名な『伊勢物語』が、後の時代になって「をかし、男ありけり」と面白おかしくされるんだ。全段が、食や色欲(『伊勢物語』に比べたら品が悪い)など俗っぽい話に変えられている。今年、『仁勢物語』で卒業論文を書く先輩がいるんだけれど、その先輩いわく、作者は原作を深く読んだ上でもじっている、のだと。
「『伊勢物語』第六段には、鬼が登場するだろう。『仁勢物語』の対応する段には、鬼子になっているんだよ。髪と犬のような歯がある赤ちゃんを、いうんさ。この暴れているものは、鬼子だ。現に起きた不思議・奇跡……呪いだよ。昨日、前の担任に聞いたんじゃないかい?」
「そうですが」
和舟は櫂をレッドにかざした。
「これが私の呪い。あなたの航路―来し方や思っていることなどを追わせてもらったよ。赤ちゃんの名前も。『オニゴ』といったからさ、私の灯台が明るくなったんさ」
舟とゆかりがある道具なので、和舟は「人や物の航路を辿る奇跡」も実現させたのだ。
「ふみかレッド、つらいけれども鬼子は壊されることが使命なんだ。偽物は本物に及べない。『仁勢物語』を『伊勢物語』で打ち消してやりな。『伊勢物語』第六段の歌は、覚えているかい?」
「はい」
「鬼子に、和歌を乗せた一撃を与えるんだよ。あなたなら、うまくいく」
背中を和舟に押され、レッドは、やっとこさ起きられた鬼子と対峙した。
【……………………ヲ、カ、シ】
「明日、図書室で借りるよ『仁勢物語』。あなたを読むために」
髪に留めた、赤地に黒いチェック柄のおはじきを手のひらに置いた。
「白玉か 何ぞと人の 問ひし時 つゆとこたへて 消えなましものを―」
おはじきに、赤い輝きが同心円状に広がってゆく。
「やまと歌は、天地だって動かせる! ふみかシュート!!」
曲げた人差し指をぴんと伸ばし、円い武器「ことのはじき」が鬼子へ撃たれた。緋色の閃光が突き抜けて、鬼子を粉々にした。
「たいへん良くできたよ、ふみかレッド」
オオモモノハナガイのイヤリングを二つ付けた和舟が、赤い戦士の頭を撫ぜた。
「私が、早く、倒し方を見つければ……こんな……」
パッチン留めを拾う気力は、失っていた。ヒロインであっても、文学部の女子大生には変わりないのだから。
「ナンバー・NM―06、お疲れー」
図書室の裏で、娘があくびをした。
「助っ人が来ちゃったけれど、まあ、一人でやっつけられたんだから、合格だよね」
頭の上側で髪を一部くくった飾りを、ぐりぐりいじる。磨かれた紅色の球が、彼女のお気に入りだった。
「また、会おうね。って言ったでしょ。ふみか」
珠と同じ色のジャンパースカートをひらりとさせて、娘はどこかへ歩きだした。