第十三番歌:擬せた者語(参)
参
日本文学国語学科共同研究室に、まゆみ達以外の専任教員が集結した。
「いくらかけても、つながらないさ」
休憩スペースのソファに深く腰かけていた棚無和舟名誉教授が、子安貝をローテーブルに置いた。
「私からも、安達太良まゆみ先生と森エリス先生に便りを送っているんですが、気づいてもらえません」
学科主任の時進誠教授は、脂汗をかいて辞書を閉じた。
「でしたら、私、先生方の所まで走ってきます!」
漆黒のスーツを腕まくりして、宇治紘子准教授がアキレス腱を伸ばしていたら、
「やめなはれ。事をかき回すだけや」
土御門隆彬教授がすぼめた扇で、黒タイツのふくらはぎを叩いた。
「時さん、おぶね先生や、事後報告は超よろしくありませんぞ。わたしらは、はいそうですかで済むが、参の壇はT松ちゅうんが野心の塊、秘書のM姫は仕事に厳格や。下手人の安達太良嬢がキャンパスにうろついとったら、チャンバラやで」
「お、ふ、ね、だよ。濁らせないでもらえるかい。早く出してあげないと、いけなかったんさ」
「さては、正義の味方がらみかや」
和舟はひじを膝についた。
「ふみかちゃん達まで失っては、ことさらに悪いからね」
「棚無先生! 先ほどの、空満に災いが起きようとしているというお話は、信じてよろしいのですよね!? 安達太良先生が、災いから防ぐ鍵になることも!」
「信じな」
紘子は胸に両手をあてるも、泣きそうな顔をしていた。
「ですけどけど、安達太良先生は、もう……」
「コーヒーをお持ちしました」
真淵丈夫准教授が、紘子の話を途切れさせた。
「お嬢が、何かや?」
「何もございませんよ、土御門先生。あの方は、事実から逃避しようと、少々後ろ向きに考えているだけですから、お気になさらずに」
不満げな紘子だったが、コーヒーをもらってほとぼりが冷めた。
「安達太良先生と、日本文学課外研究部隊が、この地を救えるんですね」
白うさぎのワンポイントが可愛いカップを、時進が包んでいた。虚弱な時進の分だけ、白湯にしてある。真淵の気配りだ。
「特例観察処分とな……要は、災いを追い払ったら『神無月の変』の罪を赦すためにもうけた猶予やろ。お嬢は、呪いを解ける技を持っとるが、正義の味方らはなんでや? あの娘らは、高位の呪いを自覚せんと行使しとるがな……」
「高位の呪いが、まゆみちゃんと深く絡んでいるんだよ。お嬢ちゃん達は、正しい行使の方法を知らない。私が教えてあげたいけれど、暗雲が妨げていて船出が難いんさ」
和舟はティースプーンをあげて、ミルクとコーヒーが混じりあう様を見つめる。
「一人と五人が結びついた縁、この地の長き日が、近づいてきているんだよ…………」
白き舟が先頭に、赤・青・緑・黄色・桃色の舟が鶴翼をなして、紫紺の海をゆく情景がまぶたの裏に映しだされる。和舟はあくびをひとつして、子安貝を揺らした。
「天が己のみに与えられた力を、己が都合で、人を傷つけあやめるために使う者が、私は何よりも厭わしいのだよ」
鷹揚としている近松が、憎悪を口にすることは稀であった。
「安達太良さん、『毒雨の変』に聞き覚えはあるかね」
「…………ええ」
三十六年前、首都・東陣で起きた惨劇。士族の女子供が、一人の少年によって根絶やしにされた。呪い除けの訓練を受けていない士族の女性と、三歳未満の子に、雨の術をかけたのだ。
「少年は、術士の子だった。彼は、千年にひとり行使できるか否かの奥義を生まれながらに得ていた。はじめは虫や鼠にかけて、のたうつ様を楽しんでいた。けれども、彼は次第に人の注目を欲しがるようになった。己が他より優れた術士であることを、認められたかったのさ」
エリスは、手を上司の心臓があるところに触れていた。秘された傷を、まゆみから隠すように。
「事件を起こせばすぐに有名になるとでも考えたのかもしれぬな、少年は散歩道である士族の居住区に呪いを行使したのだよ。十六だった私は、急報を受けて出陣したよ。汚い雨だった。術士の人柄が表われていたね。どこも手遅れだったのさ……きょうだいを助けて、とすがりついてきたお嬢さんは、私の眼前で喀血したよ。哀しき舞踊の後、こときれた」
指示棒が折れそうなぐらい、まゆみは腕に力を込めた。父が話してくれた時を、思い出す。呪いの解法を完成させていたならば、と父は自責の念にかられていた。
「私はね、誰も守れなかったのだよ。やっと子を授かった上の姉を、歩きはじめた息子をかわいがっていた中の姉を、先月嫁いだばかりの下の姉を、そして、弱き私を励ましてくれた母を」
「少年は、士族が罰したと伺っておりますわ」
「当時の帝が懲罰を許可してくださったのでね。無人島の術士用地下牢に入れて、独りきりにさせたんだ。発狂してぽっくり、さ。実名は公にされず、呪いによるものだったとは表沙汰にされず、彼の存在は埋もれたまま消えたのだよ! しかも彼の術は、最下等に位置する寄物陳呪! 唾液に寄せて雨を降らしたのさね! 取るに足らぬ小僧だったのさ!」
罪人といえど、侮蔑する近松を、まゆみは目にしたくなかった。
「安達太良さん。君もあの少年と同じ穴の狢ではないのかね。自制できぬものだった、と言っていたけれども、心のどこかに、特異な力を『誇りたい』『ひけらかしたい』欲望が湧いていたのさ。ゆえに、暴走した!」
まゆみは、若侍と対峙しているのかと錯覚した。
「確かに、私の至らなさが、人々に害を加えました」
指示棒を縮めて、上着に収め、近松に歩み寄る。
「ですが、この科せられた力で、『誇りたい』『ひけらかしたい』などとは、かけらも思っておりません」
「己のみが、潔白だというのかね」
「近松先生、来し方に囚われてはなくて?」
言葉が詰まる近松。できれば、このような手段で勝利を取りたくなかった。だが、背に腹は代えられない。教え子の命が、優先だ。
「お持ちの刀は、お母様の形見ですわね。守れなかったことを、悔やんでいらっしゃる。いずれまた、そうなるのではないかと恐れてもいらっしゃいますわ」
「安達太良先生は、先生を侮辱するのか」
エリスが百合の花に剣を現出させる。静かにも、怒りが込められていた。
「森先生こそ、よろしいのですか? 母の代わりにされて。近松先生が、そばにおいていらっしゃるのは、あなたが、愛しき母に似ているため。あなたは、先生のあらゆる傷を癒やしたいと望まれている。切ないですわね……先生はあなたを、あなたとして見ては」
「黙りたまえ!!」
近松が守刀の切っ先を、まゆみの喉元に向けた。
「真淵さんといい、君といい、踏み入れてほしくない領域にずかずかと。真淵さんはまだ遠慮がある。心の声を聞いていないふりをするのだから。私はだね、君の射る眼が怖いのだよ! いつでも貫かれそうでね! 日文生の頃から君は、不気味だったよ。呪いを行使できるだけでも鳥肌が立つというに、並外れた読書量と、異常な洞察眼を有する。教員の間では天才だと評判だったがね、私からしてみれば、君は『人間でない』よ!!」
まゆみは、一切目をそらさなかった。
「守るべき人達を突如失った者の気持ちなど、君には弱みにすぎぬだろうね。人間に化けた得体の知れぬものめが!」
守刀が、まゆみの喉を掻ききろうとしたが、近松の腕がねじられ、組み伏せられた。
「ふぬ……! 体術か」
「あなたに呪いはいりませんもの。ええ、私は人間でない存在ですわ。十二年前からですけれど。守るべき、ではなく、守っていてくれた人をその時に失いましたわ。生き返らせましたが、拒まれました。弱み、ですか? 先生がご自身を弱いと認めているのではなくて?」
近松は哮り、刀を捨てた。
「………………行きなさい、君は顧問なのだろう」
「参りますわ」
萬葉の歌を唱え、まゆみは天女のように空を発った。
「森君、あれをかけてくれぬか」
「了解した」
『舞姫』の一節を読みあげ、エリスは中庭に紛れるパーティションを立てた。
「歌劇のつもりでないが、『私を泣かせてください』だよ……」
エリスの胸に、近松は顔の半分をうずめた。
「すまない、安達太良さん……私は、君さえも斬ってしまう」
人間でない……教え子だった彼女には、酷だった。
「森君、私は君のことを……」
「それ以上は、言わなくて良い。私は、貴方の盾。貴方に、ついてゆく」
男の、白髪が混じった灰色の髪を、エリスはいとおしそうに撫でた。林には、若武者と中年教員を行ったり来たりした慟哭がこだましていた。




