08 知らない人
「……きろ! ……くれっ」
騒がしさで覚醒した。
瞼が鉛のように重い。こんな感覚は初めてだ。
けれど私に向かって、ずっと誰かが声をかけている。
「頼む! 目を覚ましてくれ!」
その声があまりにも必死だから、私は頑張って目を開けようとした。
時間をかけて、ゆっくりと瞼を開く。滲んだ視界の向こうに、知らない男の人の顔があった。
私はぼんやりと相手の顔を見つめた。目鼻立ちの整ったとても美しい顔の男の人だ。男女問わず、こんなに美しい人は生まれて初めて見たかもしれない。
白銀の髪に、黄金に輝く瞳。まるで物語から抜け出してきたかのようだ。
私は驚いて体を起こそうとしたが、どう頑張っても動けなかった。せめて必死に私に呼びかけているその人に大丈夫だと伝えたいのに、口を開くことすら億劫だ。
どうやら私たちは洞窟の奥にいるようで、男の向こうにはごつごつとした岩の天井が広がっていた。
少し離れた場所で焚火をしているらしく、パチパチと木が爆ぜる音がする。入り口から入ってくる風で、焚火が揺れて壁に映る影も揺らめいた。
それにしても、私はどうしてここにいるのだろう。そしてこの人はどこの誰なのだろう。考えなければいけないことが沢山あるはずなのに、目覚めたばかりでどうにも頭が働かない。
「よかった……」
ぼんやりと考えに耽っていると、男の人は安堵したように叫ぶのをやめた。
額にのせられた掌が、ひんやりと冷たい。
見るからに怪しい相手ではあるけれど、状況から見るに悪い人ではないのかもしれない。彼を人と定義していいかは難しいところだけれど。
それでも、母を亡くしてから私をこんなにも心配してくれる人は一人もいなかった。
だからだろうか。グインデルに裏切られたばかりだというのに、警戒心がうまく働かない。
「だ……れ?」
ようやく口から出たのは、小さなかすれ声だった。
彼はなんだか悲しそうな顔をして、私を見下ろしていた。
「後で説明するから、今はゆっくり休んでくれ。それより、喉が渇いていないか?」
そう言って、彼は水の入った革袋を取り出した。
自覚はなかったのだが、指摘されると猛烈に喉が渇いてきた。
頷くと、男は私の上半身を持ち上げて、袋を口に当ててくれた。革の匂いに辟易しつつ、私はその水を飲んだ。
喉の渇きが癒えて一息つくと、再び猛烈な眠気が襲い掛かってくる。
うつらうつらしていると、男が少し笑って言った。
「眠って大丈夫だ。俺がずっと見ているから」
知らない相手にそんなこと言われても安心できるはずがないのに、なぜか私はすんなりと眠りに落ちてしまった。
***
次に目が覚めた時、私は板張りの天井の下で寝かされていた。
目が覚めるたびに、全く違う場所にいる気がする。
窓から細い光が差し込んでいた。外から人の賑わいが聞こえる気がする。
一体ここはどこなのだろう。
途切れがちな記憶を繋ぎ合わせると、私は魔族の国に送られたはずだった。けれど送られた直後の記憶がない。
気が付いた時には、巨大な狼と行動を共にしていた。
そして最後の記憶は、見知らぬ男性と一緒にいた記憶だ。
彼は一体どこにいるのだろう。それとも、すべてが夢だったのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えていると、キィと耳障りな音がしてドアが開いた。
私は反射的にそちらを見る。
ドアを開けた人物は、大きな袋を抱えていた。その袋の向こうに、フードを目深にかぶった人物が立っている。
フードの中を見ようと目を凝らしていると、相手がこちらの様子に気づいたようだ。
驚いたことに、袋を放り出してこちらに駆け寄ってきた。
「起きたのか!?」
フードが脱げて、記憶にある麗しい顔がこぼれ出た。彼は膝をついて私の顔を覗き込む。
その距離が近くて、落ち着かない気持ちになった。
「あな、たは?」
十分に休んだからか、前より力のある声が出たような気がする。それでもまだ体を起こすのは厳しそうだけれど。
「俺は……クルトだ。クルトと呼んでくれ」
名前を聞いても、やはり彼が誰なのか思い出すことはできなかった。洞窟で出会った時が初対面だったように思う。
今まで、聖女なのだからあまり男性とは関わらないようにと言われて生きてきた。
癒しを求めてやってくる人の中には勿論男性もいたが、必要以上に関わることがないよう見張られていた。
だから男性の知り合いはほとんどいないし、いたとしてもほとんどは高齢の聖職者だ。
というわけで、彼が私の治療した相手の内の一人だったとしたら、私が覚えていないだけという可能性もある。
ただ、彼ほど特徴的な外見をしていたら、流石に覚えているような気がしなくもないが。
クルトは開けっぱなしだった扉を閉めると、荷物をあさって見覚えのある革袋を取り出した。飲み口の着いた水筒だ。
「起きられるか?」
水を飲むためにずりずりと布団から這い出そうとすると、クルトが前回と同じように体を起こすのを手伝ってくれた。
あまりこういった作業には慣れていないようで、彼はとても不安そうな顔で私を見ていた。
彼に対してあまり警戒心が湧かないのは、表情からも言葉からも痛いほど私への心配が感じ取れるからだと思う。
それに警戒したところで、今の私では抵抗しようにもどうしようもない。
水はやはり少し革臭かった。
だが、自覚はなかったがとても喉が渇いていたらしく、一度口をつけると水を飲むのが止まらなくなった。
すっかり革袋が軽くなるまで飲んでしまってから、我に返って口を離す。
「ごめんなさい。いっぱい飲んでしまって」
もしかしたら、貴重な水だったかもしれない。
そう思って尋ねると、クルトは驚いたような顔をしていた。
「気にするな。全部飲んでも大丈夫だ。喉が渇いているならまた持ってくる」
どうやら水場は近くにあるらしい。
てっきり魔族の国に来てしまったと思っていたのだが、やはりここは人間の街なのだろうか。
不思議に思っていると、クルトが気を効かせて窓を開けた。風が部屋の中に入ってきて、ふわりと頬を撫でる。
窓の外には空と、煉瓦造りの街並みが広がっていた。
高さから見て、多分私が今いるのは二階だろう。
明るくなった室内を見回すと、質素だが明らかに人が作ったような机と椅子、それに戸棚が並べられていた。
どう考えても、魔族の国の光景とは思えない。
「ここは……人間の街なのですか?」
尋ねると、クルトは少し苦い顔をした。
「……お前たちの言葉を借りるなら、ここは魔族の国だ。だが正式な名は銀狼国と言う。住んでいる種族は人を含め亜種も魔族もいる。人間ばかりのユーセウス聖教国とは異なる」
私は呆気にとられた。
私の知識の中で、国というのは人間が集まって作るものだった。
けれどクルトの話によれば、人以外の種族が集まってできている国もあるらしい。
魔族の国はとても野蛮で危険な場所というイメージだったけれど、窓からの眺めとこの部屋の様子を見ると、それは違うのかもしれないという気になった。
だが、グインデルが魔族と取引をしていたのは事実だ。
それも、己が力を得る代償として食用の人間を魔族に差し出していた。
ならば取引相手の魔族がこの国のどこかにいるのだろうか。洞窟で目覚める前に見た、巨大な狼。
あの狼こそが、グインデルの取引相手だったのだろうか。
「なにがあったのか、聞いてもいいですか?」
とにかく、状況を把握しなければ。
自分に何があったのか。クルトは一体誰で、私といつどこで出会い、なぜこんな風に世話をしてくれているのか。
知りたいことはいくらでもあった。
けれどクルトが口を開いたその時、私のお腹が大音量で空腹を訴えてきた。
クルトにも聞こえたらしく、目を丸くしている。私は余りの恥ずかしさに、お腹を押さえて俯いた。
くすくす笑いが聞こえ、クルトが軽く咳払いをした。
「無理もない。三日も寝ていたんだ。食事を用意するから待っていろ。話はあとでいくらでもしてやる」
そう言って、クルトは颯爽と部屋を出て行った。
私は恥ずかしさに懊悩しつつ、クルトが食べ物を持ってきてくれるのを待った。