07 銀狼
気が付くと、私は地面の上に横たわっていた。
曇天の空から、粉雪が舞っていた。肌寒さに身を震わせる。
すると突然、冷たい風が遮られふわふわとした感触が肌をくすぐった。一体何が起きているのだろうと不思議に思って体を起こすと、私は銀色の雲にくるまれていた。
「天国……?」
私は死んで、雲の上にいるのだろうか。
一瞬本気でそう思った。
そうじゃないと分かったのは、視界を埋め尽くす雲が身震いしたからだ。手を這わせると、そこには確かな体温があった。
信じがたいことだが、私は自分よりも巨大な体を持つ毛皮の持ち主にくるまれているらしい。
そのことを理解するのに、かなりの時間が必要だった。
その輝く毛皮は、今までに見たどんな毛皮よりも美しかった。
ふと、血の匂いがつんと鼻をつく。ずっと裸足でいたから足の裏から血が出ているのだろう。
『目覚めたか?』
聞き覚えのない声だ。低く優しい、耳に心地いい声音だった。
「誰?」
周囲を毛皮の壁で覆われているので、外の様子を窺い知ることができなかった。
声の主を探して周囲を見渡すと、毛皮の囲いがゆっくりと解けた。
どうやら私をくるんでいたのは白銀の巨大な尻尾だったようだ。
壁が割れて、湿った黒い鼻先が現れる。私の上半身ぐらいはある大きな鼻だ。そしてすぐ下の口からは、大きな牙がのぞいていた。
金色に輝く理知的な瞳と、ピンと立った三角耳。
私の視界を埋め尽くしていたのは、白銀色の巨大な狼だった。
空から舞い落ちる雪が、柔らかそうな毛皮の上に落ちては溶けている。
その時の私からは恐怖心が抜け落ちていた。そうでなければ、巨大な狼を目の前にして平静ではいられなかっただろう。
それはもしかしたら、目を細めた狼がほほ笑んだように感じられたからかもしれない。
雪の降る地面に体を横たえていた狼は、ゆっくりと体を伏せの姿勢に移行した。
そして言う。
『では行くとしよう』
私の中で、狼が姿勢を変えたこととその台詞が合致しなかった。
不思議に思って黙って狼を見上げていると、あちらも不思議そうにこちらを見下ろしてきた。
『早く乗れ。そのままでは寒いだろう』
初対面のはずの狼はなぜか、私を気遣うように言った。
目の前の狼はおそらく魔族だろう。グインデルはあの漆黒の門が魔族の国に繋がっていると言っていた。
ならばグインデルが取引をしたのは目の前の狼なのだろうか。
人を食べるために人間であるグインデルと取引した魔物。私を食べるのならばさっさとそうすればいいのに、どうして私にこんなことを言うのか。
そして目の前の傷は、一体誰につけられたものなのか。
分からないことばかりだ。
『じきに夜が来る。早くしろ』
急かされて、何も分からないままに狼の背に乗った。
その毛皮はなめらかでつるつると滑る。
『しっかり掴まっていろ』
そう言うと、狼は私を落とさないようにゆっくりと歩き出した。
狼の背中で揺られながら、どうしてその言葉に従ってしまったのだろうかと考える。目の前にいるのは明らかに魔族なのに、一緒に行動するなんて殺されに行くようなものだ。
けれど狼は、私が気を失っている間にいくらでもそうすることができたのに、それをしなかった。
どうせあの場に置いて行かれても、次にやってきた別の魔族に食べられて終わりだっただろう。
それにこの寒さの中では、狼の毛皮が持つぬくもりから離れがたかったというのもある。
狼は慎重に歩みを進め、夜になる頃には小さな洞窟にたどり着いた。
そして私を洞窟の入り口で私を下ろすと、驚いたことにその場に横倒しになった。
まるで大木が倒れたような轟音が木霊する。
「どうしたの!?」
私は咄嗟にその毛皮に寄り添った。
乗っている時は分からなかったが、毛皮をかき分けると狼の体には切り裂かれたような大きな傷があった。最初から感じていた血の匂いの原因はこれだったのだ。
狼がここまで歩いてきた道を振り返ってみれば、目印のように赤い線がついていた。
こんなにひどい怪我なのに、どうして気づかなかったのだろう。
狼は態度に出さなかっただけで、最初からひどい怪我をしていたのだ。
洞窟の入り口で、私は立ち竦んだ。
動けない狼を置いて、この場から逃げ出すのは簡単だ。
けれどいくら相手が魔族でも、私を温めここまで運んでくれた相手を見捨てていいのかという思いが、胸の内に湧き起こった。
そして決心する。
この狼の怪我を癒そうと。
魔物の怪我を癒すなんてできるか分からないけれど、やってもみないで諦めるのは違う気がする。
もしこの狼が私を食べるつもりでここに連れてきたのだとしても、どうせもともと死ぬ運命だったのだ。
この美しい狼に食べられるのなら、死ぬのも悪くないかもしれないとそう思った。
どうせ私には、もう帰る場所なんてないのだ。
私はぱっくりと口を開けている狼の傷口の前に立った。
傷口からは湯気が立ち、降りやまない雪が狼からどんどん体温を奪っている。状況から言って、一刻の猶予もないように思われた。
血の匂いを辿って、別の魔物がやってくるかもしれない。
私はその傷に手をかざし、普段人々を癒している時のように祈った。
初代聖女は、魔物を退けるためにこの力を使ったという。果たして魔族である狼に癒しの力が効くのだろうかという不安があった。
どうか狼を苦しめているこの傷が、癒えますように――。
すると手のひらから光が生まれ、狼の傷がゆっくりと塞がっていった。
けれどそれは本当にゆっくりで、傷が大きいのも相まってどうにも思うように進まないのだった。
人を癒す時とは比べ物にならないような負荷がかかり、自分の中の力がどんどん奪われていくような心地がした。
それでも私は治療を続けた。意地になっていたのかもしれない。
自分でも分からないけれど、なぜかどうしてもこの狼を死なせたくないと思ったのだ。
それからどれくらい時間が経っただろう。普段人を癒す時には五分もかからないのだけれど、狼の傷に向かい合い始めてから一時間は経っていたように思う。
最後の力を振り絞り、どうにか治療が終わった。
血で汚れた毛皮をかき分け、傷が治っているか確かめる。
そこには最初から傷などなかったかのように、健康な皮膚があった。ただその周辺の毛皮だけがちょっぴり剥げている。
こんなにきれいな毛皮なのに可哀相だ。
そう思ったのが最後で、私は狼の毛皮の上に倒れこんだ。
もう精も根も尽き果てて、はっきり言って限界だった。脂汗で髪がびっしょりと濡れているし、体にちっとも力が入らないのだ。
私は安らかな呼吸を取り戻した狼の体に手を這わせ、目を閉じた。
魔物の傷を癒すなんて、グインデルが言ったように私は魔女かもしれない。何となくそれが小気味よくて、私は満足して瞼を閉じた。