13 銀狼王
鎧を纏っているので騎士なのかと思っていたけれど、クルトは事務職らしい。それもこんな身なりのいい老人に傅かれているのだから、きっと高い地位にいるのだろう。
私は少ない情報の中から、クルトに関する情報をできるだけ見逃すまいと必死だった。
「そもそも、突然行方不明になったりするから仕事が溜まるのです。毎日きちんとしていれば、じいもこのようにぼっちゃまを追いかけまわさずに済みますのに」
「ぼっちゃまはやめろと言ったはずだ」
驚いた。
老人はクルトをぼっちゃまと呼んでいるようだ。
クルトの見た目は、立派な成人男性である。私の常識では、坊ちゃまと言われるような年齢には見えない。
そして彼は、決定的な言葉を言い放った。
「やめてほしいのならこのようなことはせず、じいを安心させてくださいませ。あなた様はこの国の王であらせられるというのに、何度人間の女にうつつを抜かして城を抜け出せば気が済むのですか」
「じい!」
私は、今聞いた言葉が信じられなかった。
銀狼国の身分制度がユーセウス聖教国と同じであるならば、クルトはその王――つまりこの銀狼国の最高権力者だということになる。
しかもクルトは、人間の女性のために何度も城を抜け出しているらしい。
クルトは、人間の女性が特別に好きな魔族なのだろうか。
胸が痛んだのはきっと、過去に出会ったその女性たちにも、同じように優しくしていたのだろうなと思ったからだ。
そんな資格なんてないはずなのに、胸がずきりと痛んだ。
クルトは黙り込むと、部屋の中にぴんと張り詰めたような空気が満ちた。
「もういい。黙れ」
それはまるで、地獄の底から響いてくるような声だった。
私は一瞬、それがクルトの声だと分からなかった。クルトを見ると、彼の口からは牙が覗き、その目は怪しく輝いていた。
それと向かい合う老人は、泰然としているように見えるが顔からはとめどなく脂汗を流している。
私には感じられないが、クルトが何らかの力で老人に圧力をかけているのだろうと感じた。
「大丈夫ですか!?」
私は老人に駆け寄った。
クルトの怒りを買うかもしれないということは分かっていたが、苦しむ老人を放ってはおけなかった。聖女をしていた反動かもしれない。
老人がその場に膝をつく。私は彼に駆け寄り、手巾を取り出して彼の額に流れていた脂汗を拭う。
彼はひどく疲れたような顔で私を見た。
だが、その目は忌々し気に私を睨みつけていた。彼が私をよく思っていないのは、先ほどの会話からも明らかだ。
けれどそれでも、怒り任せに老人を害そうとするクルトの行動が正しいとは思えなかった。
「サラ……」
クルトが呟く。
私は彼を振り返って、言った。
「私はこんなことが言える立場ではないのかもしれません。それでも、あなたの大切な人にひどいことをしないでください」
確かに、老人の言葉に驚いたのは本当だ。
クルトの態度からして、私に自分が王であることを知られたくなかったであろうことも分かっている。
彼がどうして、知られたくなかったのかは分からない。王である彼が、どうしてあの森に一人でいて、私を救ってくれたのかということも。
けれどそんな理屈を考えるよりも前に、体が動いていた。
先ほどの会話から言って、クルトは老人に心を許しているように感じられたのだ。きっと老人が言うように、とても古い付き合いなのだろう。
そんな相手を苦しめることを、クルトにはしてほしくなかった。
それは周り巡って、クルト自身を傷つけることのような気がしたから。
私は老人が立ちあがるのを手伝おうと手を差し出したが、彼はそれを無視して自力で立ち上がる。
「そんなことをしても、私はあなたを認めたりはしませんよ」
どうやら私は余程嫌われているらしい。というより、彼はクルトの仕事の邪魔するもの全てを疎んでいるのだろう。
そして彼は、クルトがいなくなった要因が私だと考えているのだ。
「黙れ」
クルトが再び、鋭い声をあげた。
老人は鼻を鳴らすと、目の前で蝙蝠の姿になった。
『先に戻っていますからね。お早くお戻りください』
そう言うが早いか、蝙蝠は入ってきた窓から素早く飛んで行ってしまった。
人間の中にそんな魔法を使う人はいないので、不思議に思って見ていると、背後から声がかかった。
「サラ」
名前を呼ばれて、振り返る。
そこに立つクルトは、もう牙も出ていないしいつもの彼だった。
ただ悲しそうな目で、私のことを見ている。
そして俯くと、呻くように言った。
「黙っていてすまない。俺はこの国の王なんだ」
どうして彼がそんなにも辛そうなのか、私には分からなかった。確かに驚いたけれど、彼が王だからと言って私を助けてくれたという事実が変わるわけではない。
「ええ。ですが私にとっては、やっぱり恩人のクルトさんです。ええと、こんなことを言ったら不敬罪になりますか?」
銀狼国の法律はまだよくわからない。
少なくともユーセウス聖教国では、一般市民が国王に対して直接言葉を交わすなんて、それだけで不敬だとされていた。
もっとも、ユーセウス聖教国の王とミミル聖教の関係はあまり友好的とは言い難く、ミミル聖教会の人間の中には国王を軽んじる者もいたのだが、これは特殊な例だろう。
クルトはゆっくりと首を左右に振ると、少しだけ笑った。
「いいや。サラを不敬だなんて思わない」
「よかったです」
私は安堵していた。
彼が王だと知ったことで、もう今までのように話せないかもしれないと思ったのだ。
だがどうやらクルトに、そのつもりはないようだった。
彼はゆっくりと私の前まで歩いてくると、少しだけ寂しそうな目をした。
「行かなくては。じいがうるさいからな」
私は思わず笑った。
その顔がまるで、叱られた子供みたいだったからだ。
「また、会えますか?」
思い切って、そう尋ねる。
こんなこと言える立場ではないと分かっているけれど、前回は別れたきりひと月会えなかったのだ。
自分でも、欲張りだと感じた。助けてもらっただけでも十分ありがたいのに、どうしてまた会いたいと思ってしまうのかと。
けれど後悔したところで、口から出た言葉はもう戻ってこない。
「う……」
するとクルトはなぜか、己の手で口を覆って目を泳がせた。
怒っているのとは違うが、なんとも妙な態度だ。
「どうしました?」
首を傾げていると、クルトが気を取り直したように咳払いをした。
「だ、大丈夫だ。今日のようにサラが危険な目に遭ったら、必ず助けに来る。俺は絶対に君を傷つけさせない。それに、不安なようならカレンを頼るといい。彼女は信頼できる相手だ」
確かに、今日クルトがやってきたのは私が恐い目に遭った時だった。今日の出来事なのに、さっきの出来事が衝撃的過ぎて既に忘れかけていた。
そしてその言葉は、人に裏切られ傷ついた私にとって、あまりにも頼もしかった。
これ以上頼ってはいけないと思うのに、それが嬉しいと感じる自分の気持ちを止められない。
けれど同時に、複雑な気持ちにもなった。
カレンとの絆を見せつけられたようで、私は何とも言えない気持ちになった。
「ありがとうございます」
何度言っても足りない。私はクルトに深く感謝していた。




