11 行商人
私はショックで、茫然とその場に立ち尽くしてしまった。
確かに私が治してきた人たちは、みんなミミル聖教の信者たちだった。ユーセウス聖教国は殆どがミミル聖教の信者なので、そのことを疑問に思ったことはなかった。
けれどお金持ちしか診ていなかったなんて、そんなことは知らない。
患者とは、最低限のやり取りしかしてはいけないと決まっていた。
そして皆同じミミル聖教の法衣を纏って治療にやってくるから、相手がどんな身分であるかも分からなかったのだ。
でも、実際に治療を受けたくてはるばるやってきた人達に、そんなことが関係あるだろうか。
私は村にいた時よりも多くの人を救えるというグインデルの言葉を信じて、故郷を出た。神殿に暮し始めてからは実際に多くの人を癒してきたし、その人たちの喜ぶ顔を見ることこそが生きる目的だった。
それは、母を失った私が感じたような悲しみを、人々に感じてほしくなかったからだ。
医者も碌にいない村で治療も受けられずに死んだ母。だからこそ私は、治療に対価を要求しないミミル聖教会のやり方に共鳴していた。
だというのに、すべては見せかけだったのか。対価を要求しないと言いながら、喜捨を強要していたのでは意味がない。
結局私の力は、グインデル達の欲望を満たすために利用されていたのだ。そのことをまざまざと思い知らされた。
私の中に強い怒りが湧いてくる。過去のことは忘れようと思っていたのに、多くの人を騙しているグインデルを許すことができない。
そして同時に感じるのは無力感だ。他人のために頑張ったつもりでいて、結局それは間違った努力だったのかもしれない。
私は深く落ち込んで、二人のテーブルから離れようとした。
だがせめてもと思い、去り際に病気だと言っていた方の胸に手をかざし癒しの力を使った。
私の突然の行動に、男は驚いたようだ。
だが酔っていたので、わたしの手を跳ね除けたりはしなかった。それどころか、私の手首を掴んで言った。
「おっとその気かい? なんならこの後一緒に宿屋に行くか?」
ここで働き始めてから、何度かこの手の誘いを受けている。
最初は訳が分からずついて行きそうになり、慌ててカレンに止められた。
そして彼女の説明で、男たちが私とミミル聖教の戒律を破るようなことをしたがっているのだと知った。
別にもう聖女ではないのだから戒律を破っても構わないのだが、見知らぬ男の人とそういうことをしたいとは思えなかった。
だから断るようにしているのだが、相手は大抵お酒に酔っているので話を聞いてくれないことも少なくない。
そう言うわけで、私はカレンの指示で裏方の仕事をしていることが多いのだ。
今日もお皿洗いをしていたのも、そういう理由があってのことだった。
「ごめんなさい。ゴミがついていたので払おうと思って」
「優しいねぇ。ベッドの上では俺が優しくしてやるからよ」
話が通じない。
私は迂闊な自分の行動を後悔した。
ここで働きだして分かったことだが、どうやら私は世間知らずらしく、よく間違いを犯す。
そのたびにカレンに助けてもらっているけれど、彼女には迷惑ばかりかけてしまって本当に申し訳ない。
私はカレンが気付く前に問題を解決しようと、男の手を振り払おうとした。
だが力が強くて離れないし、向かいに座っている男も楽しむように口笛を吹いていて止める気はないようだ。
そのまま引きずって行かれそうになり、私は思わず男の顔を叩いてしまった。
音もしないような弱いものではあったのだけれど、そのせいで相手の男は激昂した。
「下手に出てりゃ調子に乗りやがって!」
そう言って、男は空いている方の手を振り上げた。
――殴られる!
私は反射的に目を閉じた。
しばらくそのまま、息を詰めていた。
だがいつまで経っても、予想していた衝撃がやってくることはなかった。
「なにをしている?」
声がしたことで、その場に別の人物があらわれたことを知った。
おそるおそる目を開けると、私の手を掴む男の手首を、なぜかクルトがつかんでいた。
ひと月も会っていなかった相手が急に目の前に現れたので、私は混乱してしまった。なにがなんだか、訳が分からない。
クルトはそのまま男の手を捻り上げた。店の中に男の悲鳴が木霊する。
男の手が外れたので、解放された私はその場に尻もちをついた。
「大丈夫!?」
カレンとフレデリカがやってきて、私を気遣ってくれる。
なにがなにやら分からなくて、私は茫然と目の前の光景を見上げていた。
なぜクルトがここにいるのだろう。まさかこんな風に再会することになるとは、夢にも思っていなかった。
「離せ! 離せよ!」
クルトの手から逃れようと、男がめちゃくちゃに暴れている。
だがそれを腕一本の力で制しているクルトは、微動だにしない。
「うぎゃーーーーー!」
男が絶叫した。
見ると、男の手があり得ない方向に向かっていた。クルトが腕を折ったのだ。
すぐに治さなければと思ったけれど、足が震えてその場を動くことができなかった。
男に迫られたことが怖かったのか、それともそ知らぬ顔で人の腕を折ってしまうクルトが怖かったのか、私の感情は荒れ狂っていて自分でもそのどちらなのか判断がつかなかった。
「大丈夫だったか?」
騒ぐ男を尻目に、クルトがこちらに近づいてくる。
私を気遣って伸ばされた彼の手。
「やめて!」
私は思わず、その手を振り払ってしまった。
やってから、大変なことをしたと青くなる。彼は恩人なのにとか、助けてもらったのにとか、色々な考えが浮かんできて完全に混乱状態だった。
見上げたクルトの顔は、ひどく傷ついた顔をしていた。
その顔を見て、重い罪悪感が湧いてくる。
黙って向かい合う私たちを見かねて、カレンが手を叩いた。
「はいはい。店の中で騒がないで! お客さん。先にうちの子に手を出したのはそっちですからね。憲兵には突き出さないであげるから、お連れさん連れてさっさと失せな」
「まったくだよ。この街でまた騒ぎを起こしたらとっちめてやる!」
カレンとフレデリカが言うと、腕が折れた男を連れて旅人は不服そうに店を出て行った。
客の少ない時間だが、大きな騒ぎになった店内は落ち着かない雰囲気になった。
カレンが私の背中をさすりながら、心配そうに言う。
「すぐに助けられなくて悪かったね。二階に行って少し休んでおいで」
申し訳なくて自分が情けなくて、口を開いたら涙が出そうだった。
こんなところで泣き出しては更に迷惑をかけてしまうと思い、私は大人しくカレンの好意に甘えることにした。
「あんたはしばらくサラについててあげて。忙しいっていったって、少しくらい時間は作れるだろ? あんたたち二人とも、言葉が足りな過ぎる」
カレンは腰に手を当てて、クルトに尊大に命じた。
一瞬クルトと二人きりにされることに不安を感じたが、久しぶりに会うことができて嬉しい気持ちがあるのも本当だった。
なにより、私はまだ彼に助けてもらったお礼を言えていない。
クルトはしばらく黙り込んでいたが、カレンには勝てないと悟ったのかため息をついて彼女の言葉に従った。




