10 新しいお仕事
サラを見つけた時、心臓が止まるかと思った。
深い森の中で、今にも死にそうになっていたサラ。さらさらとした黒い髪と、瞼の内に眠る漆黒の瞳。
俺はそれを知っていた。
そして、もう二度と見ることはないと思っていた。
堪らなく胸が痛くなって、凍っていた心が溶けだしたかのように愛しさが溢れた。
今すぐに彼女を閉じ込めて、誰にも傷つけられないように守りたい。そんな衝動に必死に抗った。
俺は自分に言い聞かせた。
――彼女とサラは別人だ。
だから、こんな思いを抱くのはサラにも彼女にも失礼だ。
それでも、己の猛る血を抑えることはできなかった。俺はサラの体を背負い、街へと向かった。
***
クルトに仕事の紹介をお願いしたはいいが、私はそれから二週間ほど寝たきりの生活が続いた。
別に怪我をしたわけでも病気をしたわけでもないのに、例の巨大な狼を癒したことで思いの外消耗していたらしい。
聖女だった頃は毎日やってくる信徒たちを次々癒してもこんなことはなかったので、自分の力は有限だったのだと初めて知った。
一体あの狼は何者だったのだろう。
それは今も分からないままだ。
「サラー。悪いけどこっちに出てきてお皿片付けて」
「はーい」
井戸の近くでお皿を洗っていた私は、女将さんに呼ばれて店の中に入った。昼の混雑がひと段落ついたところなので、食堂の中は空席が目立つ。
あの日、私が寝かされていたのはこの食堂の二階だった。
そしてまだ床上げも済んでいない時に、女将であるカレンを紹介されたのだ。
その時に、私は自分をサラと呼んでほしいと話した。故郷で私をサラと呼ぶ人はいなかったから、本当の名前で呼んでもらっても問題ないだろうと考えたのだ。
記憶がないのに不自然に思われるだろうかと危惧したが、クルトもカレンも、特に疑う様子もなく受け入れてくれた。
カレンはウンディーネという種族で、水を操ることができた。水色の髪に水色の肌。耳は魚のヒレみたいな不思議な形をしていて、人間以外の存在に会ったことがない私はとても驚かされた。
銀狼国でも、ウンディーネは珍しいらしい。基本的には海で暮らす種族なのだそうだ。クルトの言葉を借りるなら、カレンは変わり者なのだという。
カレンはクルトから、私の世話を依頼されたと言った。けれどそれでは申し訳ないので、なんとか恩を返すために今は毎日ここで働かせてもらっている。
最初の頃はグインデルの裏切りを思い出して辛い思いもしたが、毎日忙しく働いているとそんなことを考える暇もないのである意味都合がよかった。
ちなみにクルトとは、もうひと月ほど会っていない。
彼は忙しい仕事をしているらしく、最後に会った時にしばらくここには来られないと言っていた。
そう言った時の彼はとても悲しそうで、どうしてそんなにも私に良くしてくれるのか不思議だった。床上げが二週間かかったのも、医者はもう大丈夫と言ったのにクルトがかたくなにまだ寝ているべきだと言い張ったせいだ。
助けてもらっただけでも十分なのに、その後のことも気にかけてくれるなんてなんて優しい人なのだろうか。
私はクルトやカレンに感謝しつつ、毎日を過ごしていた。
そしてこの銀狼国に来てから、あっという間にふた月が経過した。
この食堂は、カレンの料理がおいしいと評判でたくさんのお客さんが来る。
実際、彼女の料理はどれもとてもおいしかった。最初に食べさせてもらったおかゆも、彼女が作ったのだと聞いた。
空いた席に置かれたお皿を回収し、皿洗いをしていた井戸まで運ぶ。一度では足りず、何往復もする羽目になった。
食堂のテーブルには、オークや半獣人。コロボックルにドワーフなど、多種多様な種族の姿があった。
ここは銀狼国の王都でツーリという。
カレンの話では、色々な種族が集まるので王都は特に人が多いとのことだった。
ここの住人からすれば、むしろ人間しか住んでいない国の方が、不思議に見えることだろう。
グインデルは魔族の国と言っていたが、暮らしてみると異種族同士が暮らしているだけの普通の国だった。
とはいっても、神殿の奥で聖女として生きてきた私は世間知らずで、人間の常識すらろくに知らないのだけれど。
日常のことは母と暮していた時のことを思い出してなんとかなったが、それでも何度もカレンに迷惑をかけてしまった。
驚いたことに、この国には人間も住んでいるらしい。なので人間だからといって珍しがられるようなことはなかった。
「サラちゃん。今日もよく働くね」
声をかけてきたのは、街の門番をしているというハーピーのフレデリカだ。
門番は色々な人種の人と会うからか、フレデリカは特によく喋る相手の一人だ。ちなみにハーピーは鳥の特徴を持つ人型の種族で、基本的に女性しか生まれないらしい。
「ありがとうございます。フレデリカさん」
「フレデリカさんなんてよしてよ。羽根がかゆくなっちゃう」
フレデリカは余り敬称をつけられるのが好きではないようだ。年齢も同じくらいなので、よく話しかけてくれる。
私は誰に対してもさん付けするのが普通なので、こう言われると逆に困ってしまうのだ。
「そうですか? ええと……フレデリカ」
「うん! そう呼んで。今日は忙しくてさ~、お昼が遅くなっちゃったの」
「そうなんですか」
「まいっちゃうよね。お腹ペコペコ」
どう答えていいかわからず、私は曖昧な笑みを浮かべた。
フレデリカはおしゃべりが好きなようで、私の返事を待たず仕事で大変だった話をし始める。
仕事に戻らなければと焦っていると、カレンに呼ばれた。
「サラ、料理運ぶのお願いできる?」
私はフレデリカに謝ってテーブルを後にすると、厨房へと向かった。
厨房に入ると、カレンが忙しそうに料理を作っていた。
「どれを運べばいいですか?」
出来上がった料理が見つからなかったので尋ねると、カレンは少し苦笑しながら言った。
「困ってそうだったから、つい声を掛けちゃった。余計なことならごめんなさいね。フレデリカは誰にでもなれなれしいから」
どうやら私が困っているのを見て、わざわざ呼び戻してくれたらしい。
料理で忙しそうにしているのにそこまで気を配れるのかと、思わず感嘆してしまう。
「い、いいえ。その、気を遣っていただいてありがとうございます」
「迷惑だったらちゃんと言わなきゃだめよ。サラは大人しいから」
カレンの言葉に、私は首を左右に振った。
確かに戸惑いこそあるが、カレンに話しかけられること自体は嫌ではないのだ。
最初にフレデリカに話しかけられた時には驚いたが、いつもにこやかに話しかけてくれるのは純粋に嬉しかった。
当たり前のことだが、この街では誰も私を聖女として見ない。
ただの人間のサラとして扱ってくれる。
誰かに親し気にされるなんて、本当に何年ぶりの事だろうか。
私にはフレデリカの明るさも、そしてカレンの親切なところも、どちらもありがたかった。
それは二人が、私の過去など何も気にせずに付き合ってくれるからだ。
「そう? ならよかった。サラは真面目過ぎるから、時々サボって友達とおしゃべりしてもいいのよ」
店主としてはあり得ない助言に、私は驚いてしまった。
その時ちょうど料理ができたので、それを注文のあったテーブルに運んでいく。
テーブルにいたのは珍しく人間の二人組だった。本当にこの国には人間がいるのだと、思わずまじまじ見てしまった。
「なんだい、人間が珍しいかい?」
私の視線に気づいたのだろう。片方の男が話しかけてきた。どちらも四十代くらいで、旅装を身に纏っている。
「あ、いいえ。その」
失礼なことをしてしまったと、私は慌てた。
「おや、よく見たらお嬢さんも人間じゃないか?」
「おいおい、こんな髪色の人間がいるかよ。ばばぁだってんならまだしも」
どうやら彼らは、私の髪色から人間ではないと判断したようだ。確かに、黒目黒髪の人間というのは珍しい。少なくとも、私は自分以外に同じ特徴を持つ人を知らない。
聖女だとばれては大変なので、私は彼らの誤解をそのままにしておいた。
否定せず苦笑していると、彼らは勝手に勘違いしてくれたようだ。
「それにしても、銀狼国でこんなうまい飯が食えるなんてな!」
昼間からビールを傾け、彼らはご機嫌だった。
何度目か分からない乾杯をし、おいしそうにビールを口から流し込む。
「お二人は、どちらからいらっしゃったんですか?」
思わずそう尋ねてしまったのは、旅人ならユーセウス聖教国のことをなにか知っているかもしれないと思ったからだ。
そしてその考えは、間違ってはいなかった。
「ああ、俺たちは行商をしていてね。今はユーセウス聖教国に行った帰りなんだ」
驚いたことに、この二人はユーセウス聖教国につい最近までいたらしい。思わず前のめりになりそうになるのを堪えて、不審に思われない程度に質問してみる。
「そうなんですか。ここからどれくらいかかるんですか?」
「そうだなぁ。陸路で十日。そこから船に乗って十日。港から陸に上がってそこから更に馬で二十日ってところか」
つまり神殿の地下にあったあの門は、四十日の距離を一瞬で行き来できる代物ということだ。
「それは大変でしたね。お疲れ様です」
私がねぎらいの声をかけると、彼らは気をよくしたのか愛想よく話を続けた。
「そんな苦労をしたってのに、肝心の聖女はいないときたもんだ」
その言葉に、どくんと心臓の音が大きくなった。
「全くだ。なんでも病気を治してくれるって話を聞いて、せっかくユーセウスくんだりまで出かけて行ったのによ」
「聖女……」
思わず呟くと、私が興味を持ったらしいと思ったのか、男が呂律の怪しくなった口で説明してくれた。
「そうとも。なんでも、どんな病気や怪我でも手をかざしただけでたちどころに直しちまうって話でよ。おらぁ昔から胸が悪いんで、商売ついでにそれを治してもらいに行ってきたんだ」
「ところがどっこい。やっとたどり着いたと思ったら、ミミル聖教の信者の、それも金持ちしか診られないときたもんだ。本当に目ん玉が飛び出るような喜捨が必要なんだとよ」
話している間に興奮してきたのか、片方の男がジョッキを強くテーブルにたたきつける。
「聖職者が聞いてあきれるぜ。何が聖女様だ。きっととんでもねぇごうつくばばぁに違いねぇ」
「だっはっは! ちげぇねぇ」
そう言って、二人はお腹を抱えて笑い出した。