用意周到
今日この日、赤坂尊という男は、万全な対策を練りこの地に立っていた。
彼はいつも鞄に折り畳み傘を入れ持ち歩いている。
それは朝可愛いお姉さんが『雨の心配はありません』と言っても、綺麗なお姉さんが『今日は全国的に晴れるでしょう』と言っても、人の良さそうなおじさんが『傘は必要ありません』と言ってもそうだった。
折り畳み傘。それは大した荷物ではなかったが、毎日とあればそれなりに苦痛を伴った。それでも彼は毎日それを鞄に忍ばせていた。
何故か?
そう、それは全て、今日この日の為なのだ。
今朝は可愛いお姉さんも綺麗なお姉さんも人の良さそうなおじさんも、皆口を揃えて言っていた。
『過ごしやすい一日となるでしょう』
にこにこと笑う太陽のマークが左右に揺れて、降水確率は0パーセント。
しかしどうだろう。今は夜空に星は見えず、ザアザアと響く雨音。そこかしこで皆予報士達に小言を吐くだろう。
けれど、この男は違った。
待っていたのだ、この時を。
赤坂という男は非常に見た目が良く、目立つ存在であるが故に常に回りを意識していた。どのように見られれば効果的であるか、円滑に物事が進むか、障害なく乗り越えられるか。端から見れば彼は大層恵まれた人生イージーモードの人間であったが、彼自身はそうではなかった。
いつも笑っている良い奴。なんていうレッテルを貼られた可哀想な男なのだから。いつも笑っている良い奴なんて存在はこの世にいるわけがないのに。
そのいつの間にか貼り付けられたレッテルを剥がすことの出来なかった彼は、いつもそれを演じてきた。
そんな影の苦労人である彼が今の会社に入社しても、おおよその人物はいつものようにとるに足らない存在であったが、幾人か目を引く人々がいた。
彼は今日、そのうちの一人である黒木真に、一世一代の告白を試みようとしている。
黒木という男は実に愚直な男だった。余りにも馬鹿正直なので、時々見ている方がハラハラする所があった。
営業課である赤坂のガラス一枚隔てた隣の総務課で日々忙しそうにしている黒木は、その真面目さ故にいつも遅くまで残業していた。
勿論、この日も。
赤坂は彼を初めて見た時、とても不思議な気持ちだった。
何故もっと上手くやらないのだろう。嘘でも何でも、もっとそれらしく、適当にやれば回避出来る事はたくさんあるのに。
彼はいつも正面からぶつかっていった。清々しいくらい、真っ直ぐに。赤坂にとってそれは衝撃だった。
みるみる内に惹かれ、恋に落ちたと気が付くまでそれほど時間を要さなかった。
しかし赤坂は、彼にとって未知の生物に近い黒木という男を口説く方法を見付けられずにいた。声をかけるのも躊躇われ、どう近づいて良いかもわからない。
こんなに難しいことがかつてあっただろうかと頭を悩ませた彼が絞り出した苦肉の策が、この、折り畳み傘なのだ。
ちら、と赤坂が彼の方を見やると、
『黒木、とりあえずここいらで終わりにしようか』
と彼の上司、水嶋伸一が言った。
『…そうですね』
返事を返した黒木がパソコンの電源を落とし、帰り支度をするのに合わせて、赤坂も書類をまとめるふりをする。
そしてその横では、水嶋誠二が席を立った。
この水嶋誠二という男は、赤坂の後輩である。容姿も人間性も、仕事においても大変優れていたが、明確な弱点がひとつだけあって、それが-
『伸一兄さん、一緒に帰ろう!』
ブラコンだ。
『誠二、残ってたのか』
『たまたまだよ』
たまたまなわけ、ない。
ほとんど毎回のように兄の残業にこっそり付き合っては、帰路を共にしているのだから。
赤坂はこの二人の存在も勿論頭に入っていた。この二人こそがこの策のキーマン、いやキーマンズなのだ。
水嶋伸一という男は黒木の直属の上司で、真面目で誠実、そして優しい、"いい人"をそのままトレースしたような出来た人間だった。
見る人によっては面白味の欠片もないが、また見る人によっては心底愛する人間になり得る人だった。
誠二にとって彼は後者で、絶対的な信頼とたゆまぬ愛情を寄せられている。また直属の後輩である黒木にとっても彼は後者で、尊敬の念を抱かせていた。
赤坂を残し、彼らはオフィスを後にする。
しかし赤坂はまるで焦っていなかった。
ここまでは、全て作戦通りなのだから。
『お先に失礼します』
とそれなりの挨拶を添えて帰っていく誠二に頷いて、伸一に頭を下げた赤坂の目線は、その後ろで社交辞令さながらに会釈をする黒木に奪われていた。
3人を乗せたエレベーターが先に落ちるのを見て、別のエレベーターに乗り込む。
焦らない。
階下の乗降口で鉢合わせないように、ゆっくりと間をとった。
赤坂がエントランスホールに着いた頃、案の定まだ雨は降っていて、入り口で足止めを食らう3人の背中が見えた。
『あー、やっぱりちょっとまだ強いな…』
伸一が困ったように言った。
『走れば行け…うーん…』
ザァザァと酷い雨を目の前にした誠二は、一人ならば走って駅までたどり着いたに違いないが、横にいる伸一を気にしてか走ろう、とは言わなかった。
『まさか降るとは思ってなかったからなぁ…』
伸一は優秀な人間だったが完全無欠の超人ではなかった。どこか抜けているような人を和ませるところがあって、誠二もそれに似てゆるい部分があった。
二人は置き傘なんかしない。
雨が降る、と言われればそれを信じて必ず傘を持つが、降らない、と言われればその逆は然りなのだ。
"過ごしやすい一日"になることを疑わなかった二人に勿論傘はない。
『タクシーでも呼ぶ?』
伸一が声を出したその時だった。
『これ使ってください、二人で』
黒木の穏やかな声が雨音と共にホールに響いた。
『え?』
兄弟は驚いたように声を出したが、赤坂は知っていた。そして待っていた、この展開、この流れ、この時を。
黒木の場合、こういう時このような気の利かせ方をする。恐らく自分はタクシーを拾うつもりだろう。
『いや、悪いよ』という伸一に傘をほとんど押し付けている。
ここだ、そう感じた赤坂は足早にホールへと向かい、声をかける。
『どうしたんですか?』
手にはさも偶然持ち合わせていたように見せた、折り畳み傘を持って。
『先輩』
誠二の一言で全て察した風に装い、
『傘、俺ので良かったら、入って行きます?』
と黒木の目を見て言った。
黒木の傘は既に伸一の手中に収まっていたし、誠二は伸一と一緒の家に帰るのだ。それならば赤坂と黒木が一つ傘の下に入って歩くことは、ごく自然な流れであった。
赤坂は胸を高鳴らせて、答えを待つ。
ザァザァと落ちる雨粒の音が耳に届かなくなるほど心臓の音がうるさかった。
そしてこれをきっかけに踏み出せなかった一歩を踏み出そうという赤坂の熱意がこもった傘を見た黒木が言った。
『いえ、もう一本ありますので、大丈夫です』
この唐突な雨。傘を持つこと自体が珍しいのに。
黒木真という男は、2本も持って来ていたというのか。置き傘か、手持ちかわからないが、この展開を見越していたというのか?
赤坂は目の前が真っ暗になって、差し出した右手の上の傘が妙に憎らしく見えた。
返す言葉がなくなって、ただ上手く息の吸えなくなった赤坂がぱくぱくと口を動かす。ここまでは全て作戦通りで、ひとつも取りこぼしがなかったのに。
好意を寄せる黒木にそれを打ち砕かれた。打つ手がなく、うなだれる。
こうして赤坂の一世一代の告白は、不発に終わり、幕を閉じた。
しかし後日、
この日をきっかけに黒木が赤坂に声をかけるようになり、二人の距離が縮まって行くのだが…
それはまた、別のお話。
【用意周到】
心遣いが隅々まで行き届いて、準備に手抜かりがないさま。