2話 鳥肌が立つ程の邪気
「智房のやつ、どこで油を売ってるのか、遅いのう」
夕焼けの差し込む居間の窓から、チラリと玄関の方を見て、千羽智喜は眉根を寄せた。自分の経験からしても、今日は時間がかかりすぎている。どうせ八角斎とでも喋っているのかと、そこまで心配はしていなかったが、それでもどこか、心に不安が過った。これも気のせいかと、孫の方に向き直る。
「ねーねー。じーじー、おとーさんは?」
「じーじじゃなくて、ちゃんとお爺さまって呼ばなきゃ駄目でしょ」
「え~。いいじゃん~。おねーちゃん、うるさい~」
妹の言葉遣いを、お姉さんらしく訂正する智秋と、反抗する智鶴。そんな姿が微笑ましくて、智喜はなんともだらしなく目尻を下げた。
「お父さんは、まだお仕事じゃ。そら、じーじと遊ぶか?」
「遊ぶ~」
「お義父さん、また腰を悪くしますよ」
机を挟んだ向こう側で、洗濯物を畳んでいた美代子が、注意を呼びかける。
「大丈夫じゃて、まだまだワシは現役じゃよ」
「また、この間もそう言って、ぎっくり腰に……」
「この間はこの間じゃ。のう、智鶴」
そう言いながら、智鶴を抱え上げる。腰にグッと負担がかかる感覚がしたが、孫の可愛さに比べれば屁でも無かった。
「うん! じーじ、大好き!」
キャッキャと嬉しそうに声を上げる智鶴を、羨ましそうに見つめる智秋の視線に気がついたから、下の孫を降ろすと、上の孫に向かって両手を広げた。
もじもじしながらも、祖父の胸に飛び込んでくる愛らしさたるや。目に入れても痛くないどころか、目に入れてそれを証明したくもあった。
智秋を降ろしてやった。窓から差し込む日の光が、うっすら赤みを帯びてきていた。なんとも幸せな風景だったから、この後の事件と余りにも対照的だったから、今でもしっかりと脳裏に刻まれている。
腰をさすり、背筋を伸ばしたその瞬間、ズキンと頭に痛みが走り、全身に鳥肌が立った。
鼻ヶ(が)岳の方角から、今までに感じたことの無い濃密な邪気が流れてきた。
それはおぞましく、恐怖に魂が震える程だった。もっと正確に言うと、魂に巣くう鬼が反応しているかのような、初めての感覚……。
「お爺さま?」
智秋が不安そうな声を発し、急に険しい表情になった祖父を見上げる。
「なんじゃ、これ……」
智喜は何が起こっているのか訳が分からなかった。
同刻、邪気を感じた門下の者が、瞬発的に屋敷を飛び出し、その方角を探査すると、俊足で智喜の元へと戻り、跪いた。
「報告致します! 鼻ヶ岳山頂に鬼の姿を確認、全長約5メートル、総身白に染まった、一角の鬼です!」
「なっ……。それは……まさか、紙鬼……」
「お義父さん!? 今なんて?」
突発的な緊急事態、智喜の耳はヤケに静かで、隣に居る美代子の声すら届かない。
「緊急事態じゃ! 大広間に人を集めよ!」
跪く門下生に命令すると、居間を後にし大広間に入る。
智喜はあれやこれや、今からとる可能性のある行動を、浮かべられるだけ頭に浮かべて、最善の策を練っていた。
「……そうじゃ、智房は!? 智房はどうした!?」
「はっ! 未だ連絡取れず、現在確認中です!」
と先ほどから控えている門下生が答えた瞬間、別の門下生が居間に飛び込んできた。
「伝令! 伝令! 彼の鬼は、智房様である可能性が高いと判明!」
「う、嘘じゃろ……。詳しく申せ!」
「鬼から智房様の霊気を感じるという報告があったため、現地付近にて調査致しましたところ、鬼に引っかかっている端切れより、智房様の携帯電話の着信音がしたとのこと。確たる証拠とはなりませぬが、かなり確率は高いかと思われます!」
「……くそう。智房め、吞まれおったか」
悔しそうに、腹立たしそうに、歯がみする主からの指示を待つ門下の者たち。
既に大広間には、8割程の門下生が集まっていた。皆、やる気に満ちあふれ、出立の合図を、今か今かと待ちわびている。
智喜が大声を出すべく、息を吸った瞬間、ピリッとした空気が場に流れた。
「緊急任務じゃ! 鼻ヶ岳に現れた鬼、呼称を『一角鬼』とし、此奴の滅却を第一に戦闘を開始する! 戦闘系の術者から準備を始めよ! 現場の指揮は安否の確認できない智房に代わり、このワシがとる! 遅れを取るな! では散会!」
「おう!」
千羽家門下一同、声を合わせて心から返事をした。
三々五々屋敷を飛びだし、準備を再開し……と、誰も彼もが前向きに行動しており、そんな筈はないのだが、それでも、どうにも、どこからか、主君が鬼になった可能性に、不安の声が上がっている気がして、智喜はもどかしさを感じていた。
「藤村と何人かは残れ」
「如何されましたか?」
「緊急事態じゃ。悪いがワシは鼻ヶ岳に向かうでの。お主らで吹雪会の面子に連絡を入れてくれ。現状通達と至急応援求むとな」
「相分かりましてございます」
藤村と数人が電話機の方へ消えていったのと入れ替わりに、美代子が駆け込んできた。
「お義父さん、お義父さん……はあ、はぁ……」
息を切らしながら、智喜にすがりつく。
「美代子さん」
「あの人は……智房さんは、無事ですか?」
智喜はクッと顔を歪めると、吐き出すように言った。
「非常に不味い」
と。
「そんな……。助けられるんですか?」
「分からん。今できることは、あの鬼を倒す事だけじゃ。それが呪術師として出来る精一杯じゃて……」
「智房さんを殺すんですか? あんまりです。私は、私は……。ヒッ……。あの子たちもまだ小さくて、まだまだお父さんが必要な歳なんです。グスッ……どうか、どうか命だけは」
美代子の目から、涙があふれ出ていた。それを拭うこと無く、智喜の目をしっかりと取られ続ける。
「分かっておる。ワシかて大事な息子じゃし、千羽にとっても大事な当主じゃ。出来ることならば助け出したいが、何度も言っているように、現状まだ何も分からぬのじゃ。あれが智房であるという確証もまだ掴めとらん」
「……グズッ。ズビ。なら、私も戦います。戦場に、出ます」
涙と鼻水でグズグズになりながら、美代子が決心を口にした。
「なんと。じゃが、それは認められん。お前さんまでいなくなったら、あの子たちはどうするんじゃ」
「それは……」
彼女の目が泳いだ。
「いいから、母親としてあの子らの側に居てやりなさい」
お義父さんの言うことも尤もである。そうだ、私は妻であると同時に、二人の娘を育てる、母。今放り出していくのは良くない事だ。それに、もしも、もしも、私に何かあったら、あの子たちは両親の居ない子になってしまう事だって考えられる。これからもっともっと甘えたい盛りになっていくだろうに、成長を見届けたいのに、それすらも叶わなくなる可能性だって、大いにある。それでも……。
美代子の気持ちは揺るがなかった。
「嫌だ……。嫌です。行きます。行かせてください! あの子たちの部屋には自立式の結界を張ってきましたから、少なくとも一晩は大丈夫です。あの人が大変なのに、ただここで待っているなんて出来ない」
そうだ。頭ではどんなにこれが愚策か分かっている。それでも、それでも、最愛の人が、手の届くところで苦しんでいるのに、家でただ手を拱いているなんて、出来ない。そんなの、体が無事であっても、心がどうにかなってしまう。
美代子のそんな決心が集約された視線に圧倒され、智喜は直視できないまま、折れるしか無かった。
「……好きにしろ。後悔しても知らんからな」
「ありがとうございます」
美代子が部屋を後にした頃、我先にと門下生が屋敷から飛びだしていった。
「ワシも行かねばな……。智房、無事で居てくれよ。愛娘を可愛がるんじゃろ」
智喜は全速力で鼻ヶ岳へ向かった。
*
「智秋、智鶴。ごめんなさい。きっと怖いと思うけど、それでも、お母さん行かなくちゃいけないの」
明かりも付けない寝室のダブルサイズベッドに娘姉妹を座らせ、母はしゃがみ、目線を合わせると、2人の頭を優しく撫でた。
「やだ~。怖いよ~」
子どもながらに、母の雰囲気がいつもと違うのを察したのだろう。智鶴が不安げに甘えた声を出し、両手を差し出すが、自分の服の裾をキュッと掴む姉の力強さに気づき、怯えた顔のまま、手を引っ込めると、胸の前で拳を結んだ。
「帰ってくるよね?」
それでも智鶴は寂しいようで、母を呼ぶ声を止められない。
「智鶴。大丈夫、大丈夫」
智秋は自分だって不安が溢れ出しそうなのに、気丈にも妹の頭を撫でて、慰めてやった。それでどうしても声が震えていて……。そんな娘たちの様子を見た美代子は、涙を堪えながら、2人を抱きしめた。
「必ず、みんなで帰ってくるからね」
そっとそっと、優しく、呟いた。娘たちは「うん……」と力なげに応えるだけだった。
「いい? 絶対にこの部屋から出ては駄目よ? 飲み物や食べ物も置いていくから、トイレはちょっと我慢してね。ごめんなさいね。きっと直ぐに戻るわ」
2人をそっと離した。母の言葉に、姉妹は「うん」と応えた。
部屋の襖を閉める。
「ふ~~~。絶対に帰る」
自分で自分に言い聞かす。
襖に仕上げの護符を貼り付けると、家から出た。
彼女が最後の1人だった。
*
美代子が娘と話していた頃、智喜は鼻ヶ岳の参道を登っていた。いつもと変わらぬ鼻ヶ岳の風景に、まるで合成写真かと疑いたくなる程、不釣り合いなサイズの鬼が立っている。
「こりゃまた、でかいのう」
と暢気な事を口走った自分を恥じ、久しぶりにキッと当主の頃の顔つきになると、偵察部隊を呼びつけ、現状を報告するように命令した。
「現状を報告します! 一角鬼は現在停滞中! 攻撃に出る様子も、防御をとる様子もありません! また、霊視班の報告によりますと、彼の鬼からかすかに智房様の霊気を確認、あの鬼は智房様の変わられた姿とみて、ほぼ間違いないかと!」
「そうか……。きっと中で智房が戦っておるのかのう……。皆に伝令じゃ。今が好機! 動き出す前に叩け!」
「はっ!」
偵察班が散り散りに飛び去り、伝令を伝えて廻っていく。
「さて、ワシも出るか」
智喜は早速紙鬼回帰状態に入ると、懐から白紙の札を取り出した。
「智房よ。頑張れな。ワシが直ぐに楽にしてやる。……速記術 五行符」
智喜の手中で白紙だった紙に文字が走る。これが彼による紙操術の応用、速記術だ。この度書かれた意味は、中国思想の『陰陽五行説』より、自然を司る『木火土金水』の五気である。最初に効力を表した土符から順に、『土より金生ずる』『金より水生ずる』『水より木生ずる』そして最後に。『木より火生ずる』相生五行の順序に従い、五気を吸い上げた業火の火の鳥が、バサリと羽ばたき、紙鬼へと向かう。
その鳥の美しき羽ばたきに、一度門下生の手が止まり、皆仰ぎ見て、心奪われた。
バサリバサリと火の粉を散らして、紙鬼に到達。呪力の業火たる鳥は鬼の周りを優雅に飛ぶ。火の粉が舞う度に、鬼の身体を焦がしていく。最後にブワッと火力を増すと、鬼の胸元に飛び込んだ。直ぐさま引火し、瞬く間に燃え広がる。
紙鬼はその場を動くこと無く、悶えていたが、数秒後、口を開いたかと思うと、大気を震わせるほどの怒号を発した。
それにより発散された濃密な鬼気が渦巻き、呪力の業火はかき消されてしまった。
「チッ。やっぱり駄目じゃったか。おい! 皆の者! 手が止まっておるぞ!」
智喜の攻撃に見とれていた者らは、主の言葉に、慌てて鬼へ向き合い、呪力を練り上げる。
紙鬼が現れた際の衝撃で、結界の術式に異常が生じたのか、山に掛けられていた人払いの術は解けてしまっているようで、普段鍵なしでは入り込めないところまで、門下生は進軍していた。
ある者は呪符を投げ打ち、またある者は呪力で作り上げた水や炎で攻撃した。門下生が各々多種多様な呪術を以てして紙鬼に対峙する。どの攻撃も、決定打にはならないが、着実にダメージを蓄積させていった。
だが、こうした楽で一方的な戦いは直ぐに幕を引くのだった。
どうも。暴走紅茶です。
お読みくださり、ありがとうございます!
隔週でもきちいっす。プー太郎になりてぇ。
では、また再来週!