14話 巫女の少女
「きゃ~~。……はぁ」
某県木枯山の8合目辺りにある山小屋から、小さな悲鳴声が、ため息と共に聞こえてくる。
「まただわ……。力加減が分からなくなっちゃうのよね」
そこでは紙鬼化した智鶴が洗っていた皿を握りつぶしていた。
智成から課せられた最初の目標、『紙鬼化の保持』を達成すべく、紙鬼回帰状態での生活をしていたのだが、どうにも力加減が分からず、皿を洗えば握りつぶして割ってしまうし、床拭きをしようものなら、板の間を踏み抜いてしまう。その上術を解いた後の疲労感が凄まじく、他の修行を行う余力が残らない。
「おう! 30分経ったぞ」
「分かったわ。解除。はぁ~~~~しんどい」
ピピピ……と鳴るストップウォッチを止めた栞奈が、智鶴に終了を告げた。
暴走を防ぐために紙鬼回帰は現状30分までとされている。最初は30分保持することすら出来なかった彼女だが、今では何とか30分キープするという事だけは出来るようになった。
「お疲れだぞ。休憩しような。残りの皿は洗っとくからって、ええええ。何枚割ってんだよ。もうお皿、人数分無いぞ」
「だって、爪は長いし、力は強いしでなかなか上手く行かないんだから、しょうがないでしょ」
「はっはっは。しょうがないなんて言葉で、自分を騙すんじゃねえっ!」
奥から智成が現れ、思いっきり智鶴の脳天にチョップをかました。
「これは……酷いな。よし、じゃあ2人で買い出しに行ってくれ。山の下からバスで40分くらいの所にショッピングモールがあるから、適当に10枚くらい頼む」
「えええ……」
どの顔がそんな表情をしているというのか、嫌そうな顔を浮かべた智鶴は渋々それを承諾した。
「わ~い! ショッピングモールなんて久しぶりだぞ!」
「そうね。買い出しも麓のスーパーで済ましちゃうものね」
バスに揺られ、『グリーンシティ』という郊外特有の大型ショッピングモールを目指す。そこはこの地区最大の規模で、休日平日関係なく多くの人が利用する、地域の要的な場所である。
「いつもは栞奈が買い出しをしているのかしら?」
「そうだぞ。智成は何か山から出たがらないからな。でもちょっと申し訳ないのか知らないけど、最近ねっとしょっぴんぐ? とか言うのを使ったりとかしてるらしいぞ」
「以外と文明的な生活してるのね。てっきり主には現地調達かと」
「流石に山の生き物だけで暮らすのは無理があるぞ。妖のが多い山だしな」
「そう言えばそうだったわね」
木枯山は特有のガスと、それにつられる妖の量から野生の動物が、多く寄りつかない山である。勿論生息する生き物は居るが、ハゲ山の方にはポツポツと、主には森林の方にだけいるのだった。
「そう言えば、栞奈はなんであの山に居るの? 家族は?」
「あう……それはなぁ……」
その話題になると、途端にうつむき、言葉を濁す栞奈。
「壁に耳ありだぞ。ここじゃ言えない」
「あ、えっと、ごめんなさいね。私、デリカシーが足りてなかったわ」
「それは今に始まった事じゃないぞ」
「え?」
「もういいぞ……。まあ、いつか話すよ」
「ええ。その時はちゃんと聞くわ」
「うん」
そんなこんなで目的地に着くと、直ぐに栞奈の興味はそこに釘付けとなり、機嫌も元通りになった。
「どこでお皿を買うんだ?」
「私の少ない貯金を崩す訳だし、そんな高いのは買えないけど……。そうね、最終的には100均にするとしても、ちょっと良いのも見てみようかしらね」
適当にウインドウショッピングをしながら食器を探す。目が飛び出るような高級洋食器から即決できるような安い物まで色々見て回った。
栞奈は初めてなのか、久々なのか、色々なお店や売り物に目移りばかりして、目当ての皿を買うには時間がかかったが、何だかそれも良い息抜きで、智鶴も栞奈も終始笑顔が耐えなかった。
「甘~~い」
結局100均でそれっぽい皿を買った後、休憩に入ったカフェで栞奈にパフェを奢ってやった。
「ふふ。山じゃ絶対に食べられないでしょ」
「まあな、でも、菓子ならたまに智成が作ってくれるぞ」
「え……」
智鶴の頭の中では、可愛いフリフリエプロン姿の智成が、笑顔でメレンゲを泡立てていた。
「何を想像してるか知らないけど、多分それは違うぞ」
よっぽど顔に出てたかと恥ずかしくなり、急いで表情を戻した智鶴だった。
帰り道、バスを降りた2人は荷物を分け合って、山を目指していた。
「これから山登りと思うと、しんどいわね」
「そうだな~。ロープウェイくらいあってもいいのにな」
「一般人が登ったら即死するわよ」
「たしかに」
他愛も無いおしゃべりをしながら登山口を目指して山裾の道を進むが、急に栞奈の足が止まる。
「無い……」
「何が?」
「首から提げてた、お守りが無いぞ! どっかで落としちゃったのかも……」
「もう暗くなるし、探すのは明日にしましょ? あとでショッピングモールにも聞いておくから」
「駄目なんだ……。あれがないと、わっちは……わっちは……」
どんどん不安な顔になっていく栞奈に訳を聞こうとした時、不意に背後から肩を叩かれる。
「おい、お前、やっと見つけたぞ」
「私? 何か用かしら?」
振り返るとそこには同じ黒スーツに身を包んだ男が、3人立っていた。
「お前じゃ無い。そっちのガキだ。神座の生き残り、今まで何処に隠れてやがった!」
「……………………」
顔面蒼白で、栞奈が小さく震え出す。
「どうしたの、大丈夫? 顔が真っ青よ」
「あ、あいつら……。なんでここに物部が……」
「物部? 知り合い?」
「……」
これはただ事じゃ無いと悟った智鶴は、黒スーツの隙をつくと、栞奈の手を握り、来た道をバス停の方向へ引き返した。
「おい、待て!」
男たちからそんな声が上がる。
「ヤバっ」
更に力を入れて加速する。その勢いで栞奈を抱えると、紙吹雪を発動。大分上手くなった紙漉の術で紙片を一枚の大きな紙にすると、それに乗り、山とは違う町の方へ向けて飛び立った。
「お嬢ちゃん、そんなあからさまに、術者ですって見せびらかしちゃ駄目だよ」
「え!?」
直ぐそばで声がした。何と男の1人が空中を走っていたのだ。文字通り、空中をランニングするかのように駆け、智鶴の後を追ってくる。
智鶴は追いつかれまいと、どんどん高度を上げる。
「何なのよ……。誰なの……?」
小声でそんな疑問を零す。腕のなかで智鶴にしがみつく栞奈は小さく震えていた。
「やだ…………やだ……」
腕の中で震える少女は、譫言で言葉を繰り返している。
「大丈夫よ。私が付いてるからね」
このまま高度を上げたら、雲に突っ込んでしまう。しかし、雲は水蒸気の塊。突っ込めば、紙はその水分を吸い重くなり、操作性が一気に落ちてしまう事が予測される。
まだ追われているのは、気配から分かる。追っ手の使う術が何なのか分からない以上、下手に手出し出来ないわ……。
「しょうがないか。栞奈、今から見たことは秘密にしてなさいよ」
その声も聞こえているのか分からないが、彼女は更に強く智鶴の服を握る。
「おい、待て。クソッもう少しで追いつけるのに!」
後方から悪態が聞こえてくる。幸い、追いつかれるにはまだ距離があるようだ。
「やるっきゃないわね。ぶっつけで上手く行くか分からないけどっ! 紙鬼回帰! 紙鬼!あなたの知識を渡しなさい!」
――はいよ――
脳裏に声が響く。
ズキンと脳が揺れるような感覚に、浮遊の術を解きそうになる。
「おえッ。1000年に及ぶ知識量は流石に凄いわね……でも、なるほど、そうやるのね」
ニヤリと笑うと、智鶴は雲に飛び込んだ。
「紙操術! 速記!」
それは祖父の術であり、何代も前に誰かが考案した術。智喜はそれで呪符を作るが、智鶴は自身の乗る紙に直接呪的意味を込めた。その意味『撥水』。生半可であるため、最大効力は発揮しないまでも、無加工よりは幾らかマシだった。
「くそッ! 雲で前が見えねえ!」
段々と追っ手の気配が遠ざかっていく。そのまま雲に入ったり抜けたりを繰り返し、追っ手を撒くと、えらく遠回りをして、山小屋へ帰った。
「なんとかはなったわね」
山小屋の縁側に腰掛け、一息つく。栞奈は水を一杯飲んだら気は確かになり、今は囲炉裏端に座っている。
「ごめんな……取り乱して」
彼女は暫くそうしていたが、落ち着いたのか、のそのそと縁側にやってきて、ちょこんと智鶴の隣に腰掛けた。
「いいのよ。後でもいつでもいいけど、何が起こってたのかだけは教えて頂戴ね」
「うん。大丈夫だ、そうだよな、巻き込んじゃったもんな。今から話すよ。実はな……」
思い出すのも苦しいのだろう。辛そうにしながらも、なんとか智鶴には伝えたいと、言葉を絞り出す。
「わっちの生まれは、神座家っていう、巫女の一族なんだ。わっちはその中で、本家の五女っていう位置に生まれたんだ」
栞奈はその先を語り続ける。
栞奈は五女という位置ながらも、巫女としての才覚が出た為に可愛がられ、幸せにすくすくと育っていた。4人の姉も、3人の妹もみんな仲良く、そして神座家に仕える門下の者たちも皆真面目で、文字通り何不自由ない暮らしをしていた。
ただ、母は出産時以外、俗世を離れた場所で暮らしていたために、物心ついた時にはもう居なかった事だけが、寂しかった。
そんな暮らしも3年前、徐々に壊れ始める。
「申し訳ございませんが、その要請にお答えする気は御座いません」
族長代理として、母の声を聞く役目の長女・杏奈が、黒いスーツの男と話している。
「だから、お前じゃ話にならねぇって言ってるだろ」
この家を初めて訪ねて来た時こそ、大人しく下でに出ていた彼も、何度も断られ、その上族長に会わせろと言っても聞かないその態度に、腹が立ち始めていた。
「そう言われましても、族長は現在俗世と断絶した生活を送っております故に……」
「なら、その族長に聞いて来いよ。物部の要請だとな!」
「伝えました。伝えた上で、お断りしなさいとのお達しが出ているのです」
「そうか、じゃあお前ら一族はどうなってもいいという事だな? お得意の占いで未来を見てみな、きっと悍ましいもんが見える筈だ」
胡座をかいた黒スーツの男は、凄むように言ったが、そんなものは何処吹く風とばかりに、澄ました表情を崩さない杏奈。それでも相手から見えない位置で、巫女装束の裾をキツく握りしめていた。
「ケッ。気にくわねえ。まあ良い、今日の所は出直す。また来るからな」
「何度来られても同じ事です」
男はその声に応えぬまま、屋敷から去って行った。
その姿が見えなくなると、杏奈はふらりと机に突っ伏す。
「お姉様!」
隣の部屋で控えていた妹たちが姉に寄って集り、心配の声を上げる。勿論その中には栞奈の姿もあった。今よりも幼く、齢もまだ10くらいと、人としても術者としても一人前とは思われない歳であったが、姉を心配する気持ちは誰よりも強く燃えていた。
「姉ちゃん、わっち、わっち、お母さんに言ってくる! 姉ちゃんにこれ以上無理させないでって、きっとお母さんも姉ちゃんが大変だって知ったら、何とかしてくれるぞ」
「なりません栞奈。良いですか? 母上は穢れを避けるために俗世を離れているのです。そこを訪れて良いのは、族長代理だけという掟をお忘れですか!」
「でも……でも……」
「でもじゃありません。私は大丈夫ですから。心配してくれてありがとうございます。栞奈は優しいのね」
「……」
そうして笑顔を向けられてしまうと、もう何も言い返せなくなる。
栞奈は一人部屋に戻ると、布団に寝転がり、天井の木目を眺めた。
「わっちはどうなっても良いから、今はお母さんに伝えなくちゃだよな……。でも、どうしような。昼は人に見つかっちゃうし、夜は妖が居て危険だからお母さんの所までたどり着けるか分かんないぞ」
今では難なく使いこなしている降霊術も、この頃はまだまだ発展途上も発展途上で、実戦経験は無いに等しかった。
「いや、今はそんなことを言ってる場合じゃ無い! 他の姉妹はみんな臆病だから、掟なんかに縛られて、情けないぞ。わっちがやらなきゃ。わっちが姉ちゃんを助けるんだ」
そう決断した栞奈の行動は素早かった。
その日から家の結界を抜ける方法、母の居る場所への道のり、妖と出逢った時の対処法を家の書庫で調べに調べ尽くした。
飯と就寝以外の時間を全てそれに費やした5日後の深夜1時の事である。
静まり帰った屋敷内を慣れない隠形で気配を立ち、抜き足差し足で出て行く栞奈の姿があった。戦闘系術師でない神座家は、この時間になると、大抵の者が寝静まっている事は既に調査済みだった。
こっそりと抜け出す。宿舎となっている建物から一番遠い所で術を行使。妖・ぶるぶるを降ろすとその気体に近い性質を身に纏い、結界の網をすり抜ける。
「以外と上手くいったぞ」
正直この方法は妖力を発してしまう事から、上手く居ない候補の方法だったが、あっさりと抜けられ、拍子抜けする。
このときの栞奈はまだまだ未熟だったから、結界の欠陥には気がついていなかった。
「よし、このまま川沿いに山を登れば直ぐだ!」
暗い夜道に足が震える自分を、言葉で鼓舞する。一歩、また一歩と夜道を進む。勿論誰にも見つかる訳にいかないので、明かりは点けない。川のせせらぎと気配だけを頼りに、先へと進む。
1時間の登山の末、母が居るという場所に着いた。だが、そこには洞窟があるのみで、建物らしきものは見えない。
母は異界に居るかも知れないと考えた栞奈は、その洞窟に入ってみる事にした。もしかしたら、ここが異界の入り口かもしれないと期待を込めて。
だが進めども進めども世界が変わる雰囲気も無いし、そもそも異界への行き方なんてまだ習っていない。ここまでかと諦めたその時だった。
「うおっ。あ、イテテ……」
足下に飛び出した石に躓き、盛大に転けてしまった。
傷口から滲む血が、洞窟に染みこむ。
するとどうだろうか。今まで真っ暗だった洞窟が、見る見る明かりに包まれていく。
異界の扉が開いたのだ。
「なんで……? ああ、もしかして」
そう。洞窟を開くための媒介は『神座の血』だった。
目の前に一つの扉が現れた。それを引き開け、先に進むと、幾つもの廊下が延びていた。そう、そこは神座の聖地へと続く『神座回廊』。その入り口から始まる何本もの曲がりくねった長い廊下。その廊下を正しく進めば、神座の族長が住まう部屋に辿り着ける。
「ここが……。や、やった~! 何だか分からないけど、到着だ~~」
栞奈は廊下をズンズンと進んでいく。しかし、曲がれば行き止まり、進めば終わりが見えないときた。歩けば歩くほどに、自信や希望が薄らいで、不安や後悔が募っていく。
「わっち、ここに来ない方が良かったのかな……。そうだよな。族長でも、族長代理でもないもんな……」
とぼとぼと歩き続ける事だけしか出来ない。もう戻る道も分からなかった。
何時間歩いただろうか。栞奈は膝から崩れ落ちると、その場にへたり込んでしまった。
「お母さん……」
小さく呟くも、何処までも続く廊下にただ虚しく反響し、消えるだけ。
「でも、姉ちゃんのために……!」
壁に手を突いて、足に力を込めて、なんとか立ちあがる。そして、どこまでも何処までも歩き続けた。
「お腹減ったぞ……」
もう3日は歩いているような気がした。家はどうなってるだろうか。わっちが居なくなって、騒ぎになってるかな。
朦朧とする意識の中で、そんな事を考え、小さく笑う。
「わっち、ここで死ぬのかな。お母さんに会いたかったぞ……。姉ちゃん、助けたかったぞ……」
栞奈自身はそう声に出したつもりだったが、乾ききった喉は、もう発声する余裕も無く、ただ掠れた息の音にしか聞こえない。
「最後の頼みだぞ……」
栞奈はポケットに仕舞っていた長い数珠を取り出すと、二重になるよう捻って手に掛ける。
この方法は、霊力の消耗が激しい為に、最後の手段として取っておいたものだった。
「ヒラリヒラヒラヒラヒラリ。神座の英知よ我が身に、宿れ……」
残された力を振り絞り、術を唱える。ガクンと膝から崩れる。意識が持って行かれそうになるのを耐え、霊界との交信を図る。
今まで一度も成功した試しの無い術だったが、全ての望みを託して、呪力を練る。
「だめ、か……」
諦め掛けたその時、ふっと脳裏に何かの気配を感じた。
それは、そのまま進めと言っている気がした。そして、しかるべき時には曲がれと、自然に右か左かどちらに行けば良いのか分かった。ふらふらとした足取りで、先を目指す。
術が成功したのか、極限状態で第六感が覚醒しているのか、はたまた。その確たるものは分からないまま、感覚を頼りに歩き続ける。
きっとあと一歩で倒れると思ったが、目の前にはここに入って初めて見る『襖』があった。
「駄目だぞ……。折角、折角辿り付いたのに……。もう、開ける力が残ってないや……」
それは声で無く、もう完全に、ヒューヒューという呼吸音でしかなかった。
栞奈はその襖に倒れ込むようにして、気を失った。
目を覚ました栞奈は、ここが天国かと思った。
春のような微風が肌を掠め、暑くも無く寒くも無い。木漏れ日のような優しい光りが辺りに満ち、環境に関しての文句は一つも無い。「快適」その言葉がここまで当てはまる場所を他に知らなかった。
「きっと、姉ちゃんを助けたくて、死んだから、天国に、来られたんだな……」
そんな事を呟くと、近くでガタンという音がした。
誰かが近づいてくる。その気配に、意識がどんどんとはっきりしてくる。自分がどこかの建物にいること、自分が布団に寝かされている事、様々な感覚が全身に行き渡り始めた。
「誰……?」
自分を覗き込むそれはそれは美しい女性に、そう声を掛ける。
「あなたは、栞奈ね……。ここに来てはいけないと教わらなかったの? もう、杏奈は何をしているのかしらね」
「お、母さん……?」
「そうよ。あなたの母であり、神座家族長の神座詩織よ。急に襖がガタンって鳴るからびっくりしたじゃないの」
自分が必死になって来たというのに、母は特に驚いた様子も見せず、ただ普通に振る舞っている事に、拍子抜けしてしまった。
「は、はは、ははは……」
「もう、何を笑っているの? 意識が戻ったなら、布団から出なさい。何か話があったのでしょう? そうでもなければ、わざわざ掟を破って来たりしませんものね」
栞奈は布団から起き上がると、枕元に置いてあったコップの水を飲み干し、正座で座り直すと、はっきり言った。
「お母さん、杏奈姉ちゃんがもう持たないんだ。どうか、どうか、姉ちゃんがもっと楽になれる方法をとって欲しいぞ……お願いだ……」
「それは……厳しいかしらね……」
「なん、で……」
「まだ栞奈には難しい事だけどね。今ここで払う犠牲は、この先の未来に繋がるものなの。今と未来、その両方を天秤に掛けた時、今はこうすることが最善であるのよ。とても厳しいことを言っているのは分かってるわ。でもね、分かって頂戴」
「分からないぞ。今目の前で苦しんでいる姉ちゃんを無視なんて出来ない!」
栞奈がそう言った瞬間、母の表情が一変する。
「そんな、何で部外者が……? そう、歯車はそこで回るのね……」
母は慌てて栞奈の手を取ると、彼女を隣の部屋の押し入れに入るよう、促す。
「栞奈、運命の分岐が変わったわ。よく聞きなさい。今からきっかり1時間後に、床の間の花瓶が割れます。それまで、呼吸以外の物音は一切立てないこと、そして花瓶が割れたら、この異界を抜けて、彼方にある木枯山を目指しなさい。そこで待つ(、、)の。そうすれば、きっといつかアナタの運命を変えてくれる人に出会うから。その人に出逢うまではそこに居なさいね。わかった?」
「分かんないぞ。分かんない!」
「聞き分けなさい。ああ、もう来てしまう。栞奈、アナタも勿論、娘たち、家族、一族、門下の者も全員愛しています。ね、良い子だから、言う事を聞いて頂戴。お母さん一生で一度のお願いだから」
ただ母を見つめる。ここで意地を張っても仕方が無いと理解した彼女は、涙をいっぱい溜めながらも零さないように頷いた。
「……分かったぞ。ここに居たら良いんだな。うん。わっちもお母さんを愛してるぞ。叶うならまた会いたいぞ」
「ええ、きっと、きっといつの日にか」
母はそう言い残すと、押し入れの戸をきっちりと閉め、離れていった。それは気配で分かった。
母が元の部屋に戻ると、そこには数人の知らない気配があった。
声が漏れ聞こえてくる。
「杏奈! 杏奈!」
襖の隙間から微かに見えたのは、血に赤く染まった着物の端。
「もう堪忍出来ねえ。これが物部に逆らった者の末路だ!」
その声を最後に、後は何も見えなかった。ただ、悲鳴と何かが壊れる音だけは聞こえた。
震えながら暗闇で蹲り、小さくなって居ると、突然隣からパキンと音がした。
恐る恐る押し入れから出ると、隣の床の間で花瓶が割れていた。まるでそうなる事を決められていたように、何の外的要因も無く、綺麗に真っ二つに割れていた。形を失った水が静かに畳へ吸い込まれていく。
「お母さんの占いは凄いな……」
そろそろと移動し、ゆっくり襖を開ける。そこは壁や天井に血しぶきが飛び散り、床には血塗れで姉・杏奈が横たわっていた。
「姉ちゃん!? 杏奈姉ちゃん!」
駆け寄り、抱き起こすが、既に息絶えており、魂の気配ももう無かった。
「そんな……。何で……」
甘ったるい血の匂いに、目眩がした。
「あれ!? お母さんは? お母さん?」
母の姿は何処にも無く、また死体としてどこかに転がっても無かった。
きっと彼奴らに連れて行かれたのだろう。部屋に飛び散る血の量から、無事であるとは考えにくかった。
「うう……うえっ……」
止めようにも、涙が溢れてくる。だが、ここにいつまでも居て、何かが変わる訳でも無い。流れる前に袖でグイッと拭うと、姉の遺体を担いで、立ち上がり、廊下に出る。
決して気持ちの良い話しでは無いが、帰り道は滴る姉の血が導いてくれた。
「そっか、姉ちゃんの血で入り口を開けたのか……」
姉はきっと苦しんで死んだのだろう。死んでも尚こうして弄ばれ、鍵として、見せしめとして、連れ回されたのだと思うと、やるせない悔しさに再び涙が溢れそうになる。
「泣かないぞ、泣かない。姉ちゃんを家に寝かせてやるまでは、まだ泣けない」
ズルズル、ズルズルと10程歳の離れた死体を引きずり、家に着いた。結界などもう機能していないようで、裏口の戸は開けっぱなしになっていた。そっと中を覗き込み、絶句する。
そこに広がるのは、死体、死体、死体の山と、飛び散り、滴り、水たまりを作る血の光景。
身体の力がフッと抜けた。姉の死体がズルリと庭に落ちる。
身体がワナワナ震えた。恐怖に、怒りに、憤りに。
「何で、何でなんだ……。わっちら、何か悪いことしたか……? 神様がいるなら教えてくれよ……なあ、なあ!」
言っていても始まらない。暫く立ち尽くしたら、おもむろに再び姉を担いで歩きだす。
静かに目を閉じる姉を客間に寝かし、それから、みんなも出来る限り引きずり、客間や居間に寝かしてやった。
自分が異界に行ってどれくらいが経っているのか分からなかったが、みんな昨日まで楽しく笑って居たのに。ずらりと並ぶ死に顔を目にして、現実が重くのしかかる。
「わっちが唯一の生き残り……。わっちは、わっちは生きなきゃ。皆の分もちゃんと生きて、いつか神座家を取り戻すから。みんな、気兼ねなく成仏してくれ」
最後の文句を言い終えるまでに、自然と手を合わせていた。
「みんなごめんな。お母さんの言いつけなんだ。もう行かなくちゃ」
すっかり魂の気配が消えた屋敷に、声は虚しく響く。彼女は自室で荷物を纏めて、着替えを済ますと、家を出た。朝日が嫌みったらしく、これでもかと気持ちよく登り始めていた。
きっともう戻ることは無いと思ったが、それでも何だか寂しい気持ちは、他の感情に負けてしまったのか、湧いてはこなかった。
涙は一滴も流れ落ちなかった。
家を出ると、公衆電話から宮内庁の魔術呪術管理局(通称:魔呪局)に連絡を入れ、事情を簡単に説明した。これでみんなの死体が、そのまま朽ちることは無いだろうし、ちゃんと成仏させてもらえるに違いない。
木枯山に付いたのは、それから1ヶ月後の事だった。近くの公共交通機関はまだアイツらの目が光っているかも知れないから、徒歩で向かった。また、呪術で飛んでいくことも考えたが、呪力を練ったことで、アイツらの監視網に引っかかることもあると思い辞めた。そんなこんなで、人気の少ない道を選んで歩いて、遠回りに遠回りを重ねて辿り付いた。
それでも、5合目までも登らない内に、修行初日の智鶴同様、山のガスに当てられ、意識が飛び、倒れた。
目が覚めると、そこはどこかの家の中で、近くに人の気配がした。
掴まったのか? 駄目だったのか? お母さんの言いつけ、守れなかったのか?
最後の抵抗にと、懐に仕舞っていた匕首を構えて飛び起きる。部屋の中に男は一人、しかも背を向けている。
「おお、起きたか。この山に入る物好きがって、うわっ」
その男が振り返らない内に蹴り倒し、首筋に匕首の背を当てた。
「応えろ。お前は物部か?」
「物部……? あんな物騒な奴らと一緒にしないでくれ。俺は千羽智成。この山で暮らすただの呪術師だ」
「千羽、智成。お前わっちをこんな所に連れ込んで、何をする気だ?」
「何って、まだ動かない方が良いぜ。霊力も回復しきってないだろ」
そう言われると、急に身体からガクッと力が抜ける。
「あ、れ……?」
倒れないように栞奈の身体を支えてやると、再び囲炉裏端に寝かせてやる。
「それとな、折角倒れていた所を助けて貰っておいて、命を狙ってくるとは、どんなセンスのねえ躾をされてんだっての。全くこれだからガキは……」
智成はブツブツ文句を言いながらも、囲炉裏で温めていた水団をかき混ぜる。
「まあ、何があったか知らねえけどよ。先ずは食べな。回復するぜ」
身体を起こし、一口啜った。鰹出汁の利いた、暖かい汁が、身も心も解していく。
すると、何故かずっと堪えていた涙が、今になって溢れてきた。
「わっち、わっちな、一族も……家族……門下まで皆殺しにされてな……」
泣きながら、聞かれてもいないのに、言葉がスルスル口から零れていく。
「お、お、お母さんが、隠してくれッて……。わ、わっちだけが生き残って……。ェッグ……。みんなを、寝かせてやってな……。ヒッ……それでな……」
「あ~もう、分かったから。泣くか食うか話すかどれかにしろよ。全く、……大変だったんだな。もう大丈夫だ。ここには俺がいる」
智成はそう言って、抱き寄せ頭を撫でてやった。すっかり空になったお椀を床に落としたことにも気がつかないまま、智成に抱きつき、泣いた。感情の津波が引くまで、去って尚、自分の腑に落ちるまで泣き続けた。
……そして今に至るってわけなんだ」
「……」
話し終わり、智鶴がどんな表情をしているか、悲しい表情を浮かべていないか気になった栞奈が覗き込むも、智鶴は自信の足下から目をを逸らさない。
「智鶴?」
「あ、ゴメンなさい。考え事をしていたの。栞奈の運命の人って誰なんだろうなって思って」
「それは、きっと……」
「きっと?」
「まだ言えないぞ。智鶴、話聞いてくれてありがとうな。久々に話したらスッキリしたぞ」
「ううん。私には何も出来ないけど、話を聞くくらいなら」
「いや、智鶴はわっちを守ってくれたじゃないか。わっち、無事に帰って来られて嬉しいぞ。ありがとうな」
「ええ。当然よ」
言葉では冷静を装った智鶴も、顔を少し赤らめていた。
「でも、何でそいつらがここに……?」
「きっと、智成特製のお守りを無くして、術が解けたから、わっちの居場所がバレちゃったんだぞ。でも、この山には智成がアイツらを遠ざける結界を張ってくれているから、暫くは大丈夫だと思うぞ」
「でも、さっき見つかっちゃったし、結界が破られるのも時間の問題よね……」
「……まあ、また智成と話してみるよ。智鶴はそんなに心配しなくて大丈夫だ」
「でも……」
「やっぱりお前は優しい奴だな」
「そんな事ないわよ……まあいいわ。どんな奴が来ても守ってあげるから。どんと任せておきなさい」
「ありがとうな」
夕焼けが山を赤く染める。二人の少女が闇に立ち向かうのは、まだ先のお話。
どうも、暴走紅茶です。
今週もお読みくださりありがとうございます。
切りが悪くてついつい長い1話になってしまいました。すみません。
それでも読んでくれたあなたに、改めて最大限の感謝を!
ではまた来週~。




