8話 百目鬼隼人の過去-1
午後の光が障子越しに緩く差し込んでくる。だが、そこに居る彼は光りから目を逸らすようにベッドに背をもたれさせ、暗闇を見つめていた。
彼――百目鬼隼人は独り部屋の中で考え事をしていた。
それは、先日の散歩中にすれ違った親子、その2人を見た時に思い出した、自分の過去についてだ。
最初こそ、それは重くのしかかってきたが、今となっては思い出す回数も減ってきていた。しかし、10年経った今でさえ、術を使う時にそれがどこかストッパーの様な役目を果たしてしまっている事実も、無視することはできない。
もしかしたら、藤村の言っていた通り、強くなるためにはそれを乗り越えなくてはならないのかも知れない。近頃、強くなるにはと考える度に、この思考が過ぎる。まるで千羽家に来た当初に戻ってしまった様だった。
「親……か」
向き合おうにも、どう向き合えば良いのか分からない。
どうというか、何というか、どこからというか。
だが、たった一つわかっている事がある。全てが分岐し、彼の人生における全てのターニングポイントは、眼が開いたあの日。
そう、全ての始まりは10年前に遡る。
――10年前、百目鬼5才の歳。
季節は春が過ぎた5月の頃。ある日の百目鬼は幼稚園で友達と遊んでいた。お遊戯の時間だったか、休み時間だったかは定かでない。
その日、百目鬼はドッジボールをしている最中に転んだ。小さい子なら良くある事だが、腕を見ると、石で切ったのだろうか、切り傷が出来ていた。
「せんせー。腕、怪我しちゃった~」
百目鬼は『先生のお部屋』という、所謂職員室へ行くと、傷を見せる様に腕を突き出した。
「どこ~? 怪我なんて見当たらないけど?」
「ここ! も~ちゃんと見てよ!」
そう言って怪我を指さそうと、自分の腕を見た。
「あれ~? 怪我してない?」
そこには子供らしく少し日焼けした健康な肌がどこまでも続くばかりで、怪我なんて見当たらない。首を傾げつつも、「見間違えかも!」と言って、友達の元へ戻った。
家に帰った後、リビングのソファーに座り、『母上様とご一緒』を見ている時だった。ズキンと頭が痛くなった。両手で頭を抑える。そして、痛みが引いてきたから、うっすらと目を開いていくと、腕に無数の切り傷が付いていた。
「うわっ!」
大きな声に驚いて、お母さん――百目鬼春賀がスリッパをパタパタ言わせ、駆け寄ってきた。
「大きな声を出して、どうしたの。どこか痛い?」
「え、あ、ああ、う、腕が……」
「腕? 腕がどうしたの。見せてみなさい」
言われるがまま、腕を差しだす。
「何も無いじゃないの」
「え? でも、傷が……」
「もう、アニメの見過ぎよ。もうご飯だから、その前にお風呂、入っちゃいなさいね」
「……はーい」
この時の発言を後から悔やむことになろうとは、母はまだ知らなかった。
そんな事が何度か続いた。
お風呂に入っている時、トイレでホッとしたとき、友達と遊んでいる時……。その切り傷は現れた。それでも、それは直ぐに消えてしまう。だから先生に言っても、母に言っても、誰に言っても信じてもらえなかったし、自分でも見間違くらいにしか思っていなかった。
しかし、何度も何度も、時には無数に現れるそれを段々と無視していられなくなった。だから、何度も訴えた。
世迷い言のような訴えも、回を重ねる毎に心配が募り、母は隼人を連れて精神科を受診。それでも、どこにも異常は認められず、「子供は構って欲しくてそんなことを言ったりするから、あまり神経過敏にならず受け止めて上げて下さい」と、そう言われただけだった。
「大丈夫、大丈夫よね」
春賀は一抹の不安を抱えるも、美味しそうに、嬉しそうに夕飯を食べる息子を見て、きっと大丈夫だ、成長していくにつれてそんな事言わなくなるだろうと、そう自分に言い聞かせた。
それでも、その日は来てしまう。
初めて傷に気がついた日から1ヶ月と少しが過ぎた頃だった。
その日は幼稚園のお遊戯の時間で、クラス対抗のドッジボール大会が開かれていた。クラスで数チームを作り、他クラスと混合で行う、トーナメント形式の大会だ。
1ヶ月前から友達と沢山ドッジボールをして、練習をしてきたから、自信もやる気も十分だった。傷もここ2、3日は見ていないから、きっと大丈夫だろうと思っていた。
百目鬼のいるチームは無事に勝ち上がり、3回戦となった。
今日は真夏の様に日差しも強く、先生が水分補給をすることと、キチンと帽子を被ることを、口うるさく言っていた。
だから、ちょっと頭が痛いのも、それだと思っていた。きっと暑いからだ。そうだそうだと思った。
だが、試合が続くにつれ、鈍痛は激しくなり、ついには頭を抱え、膝から崩れるようにして蹲った。
頭を抑えて、痛みに耐えるが、そんな悠長なことを言っていられる痛さでは無い。両目がカッと開く。そして、目の前にある腕の内側にいつもの傷が無数に現れていた。だが、頭痛が強くて、それどころでは無い。
「ま、まただ……」
うめき声を上げながら、痛みに喘ぐ。
「お、おえ……」
嘔吐もした。意識は飛びそうなのに、むしろ飛んでくれた方がありがたいくらいなのに、ヤケにはっきりとして、目も閉じることが出来ない。
それでも、どうせ直ぐに傷は消えるし、どうせ直ぐに収まるだろうと思った。
先生が心配して駆け寄ってくるのが目の端に見えた。
――そして、腕の傷が一つ開いた――
それは目玉だった。それを見た瞬間から、時間が酷くゆっくりになった。先生が駆け寄ってくるのも、まるでスローモーションかの様に見える。
幸せの崩れる音がした。
「ひ、ひいいいいい。うわ~~~~~~~~~~~~~」
思わず悲鳴を上げる。だが百目鬼本人の嫌悪を余所に、次々と目が開いていく。1つ、2つ、3つ……そして、ぶわっと全ての目が開いた。
突如、知らない事が次々と脳に流れ込んでくる。知らない人が歩いている。知らない人が本を読んでいる。知らない人が笑っている、怒っている、泣いて居る……。
本棚のちょっとした隙間に分厚い辞書をねじ込まれた様に、彼の脳内に情報が押し込まれていく。
自分を見た先生、友達、顔だけ知っている同級生が驚き、悲鳴を上げ、慌てふためいているのがよく分かった。
どれだけの間そうしていたのだろうか分からないまま、突如世界がブラックアウトした。
目を覚ますと、見知らぬベッドに寝かされていた。腕には点滴、傍に母が居た。
「あっ! 目を覚ました! よ、よかった……。よかったーーー」
母が今にも泣きそうな顔で百目鬼の手を握る。そして、直ぐにナースコールを押すと、先生と看護師さん数名が病室へと駆け込んでくる。
それは、倒れてから3日目のお昼時の事だった。
「良かった、目を覚ましたんだね。まだ混乱しているだろうけど、気を失った時の事を話してくれるかい?」
中年で少し太った病院の先生が優しい声でそう聞いてくるから、彼はゆっくりと経緯を話した。
「そうかい。沢山の目か。それは怖かったね。でも、もう大丈夫だよ。いま注射を打ったし、お薬も出すからね。一応検査をしたいから、明日までお泊まりして貰わなくちゃいけないけど」
注射の中身は鎮静剤だった。
「うん。ありがとうございます」
やはり病院は彼の事を精神的な病と捉えた。だが、母・春賀は彼の言っている事が本当の事だと思い始めていた。
――昨日の事。
息子が目を覚まさない状況に眠ることも出来ず、パートも休み、付きっきりで傍らに居た。どうすることも出来ないが、ただ手を握って目を覚ましてくれるように祈った。夫はどうしても抜けられないからと仕事に行ったが、娘の面倒を引き受けてくれた。
電話が鳴る。
「隼人君のお母さんですか? くつわ幼稚園の桃園です」
電話の相手は息子の担任保育士だった。
「はい、そうですが……」
何故か不安を覚え、鳩尾の辺りがキュッと痛んだ。
「お話ししないでおこうか迷ったのですが……。その……。先日隼人君が倒れた際にですね」
「はい」
心臓がドクドクと鳴っているのが容易に分かった。携帯を持つ手が汗ばみ、震え、落としそうになりながらも、聞き漏らさぬよう、しっかりと耳にあてがう。
「腕に、人の『目』の様な発疹が出ておりまして。救急車に乗せた時には消えていたので、見間違えかも知れませんが、園児の中にも見たという子が居ましたし、一応お伝えしておこうかと……」
後半の声はもう、耳に届いて居なかった。
ただ呆然と立ち尽くす。
医者は異常が無いと言った。ただし息子も、また息子を見た人も口を揃えて腕に目が出たと言う。どうすれば良いのか……。春賀は不安な気持ちのまま、無意識に夫の携帯へ発信していた。
「どうした? 隼人に何かあったのか?」
夫・信久はワンコールで電話に出た。抜けられないといいつつも、心配でずっと電話を気にしていたのだろう。
「ええ……。上手く言えないんだけど、その……。隼人、腕に発疹が出たみたいで、でも、それは直ぐに消えて、でも、実際にその発疹を見たという人も居て、でも、お医者さんは異常が認められないって……」
「一回落ち着け、な。ゆっくり要点を話してくれ」
彼女は大きく深呼吸をした。病院らしい薬品の香りが気持ち悪く鼻孔を突く。
「ごめんなさい。取り乱してた。要点を言うと、隼人は病院じゃどうにも出来ないかも知れない。あの子に今必要なのは、神社やお寺なのかも」
「ごめんな。そんなこと急に言われても、ピンとこない。今日は必ず定時で帰るから、家でゆっくり話そう」
「ええ、そうしましょう。仕事中にごめんなさいね」
「いいさ。大事な息子の事だもんな」
そう言って夫は電話を切った。出版社務めの夫に付いて上京してから早7年。結婚をして、2人も子供に恵まれて、何不自由なくとは言えないまでも、それなりに幸せな日々を送ってきた。何も神や仏に背く様な事はしていないハズだ。なのに、何で……。
私? 私が悪いの? 違うの? 誰が悪いの? あの子の話を真に受けなかったから? 早くお祓いにでも連れていけば良かったの? 仏門に入れれば良かったの?
自責の念に駆られ、今にも泣き出しそうになるのをグッと堪え、病室に戻った。
その日は、もしも息子が目を覚ましたら、直ぐに連絡をして欲しいと、ナースセンターで看護師に伝え家へ戻る。
途中で娘の華英を幼稚園から引き取る。兄と年子の妹は同じくつわ幼稚園だ。
春賀が現れたのを見て、先生たちは怪訝そうな顔をし、他に集まっていた母親たちはヒソヒソと噂話を始めた。肩身の狭い思いをしながら娘を引き取ると、そそくさと車に戻る。
「ねえ、ママ? 兄はお化けなの?」
運転中、車に置きっぱなしのぬいぐるみを持て遊ぶ娘が、不意にそんな事聞いた。
余りにも急な問いかけに、胃の辺りがざわっとする。
「違うよ。お兄ちゃんは華ちゃんのお兄ちゃんでしょ? ちゃんと人間だよ。何でそんなこと言うの」
どこか自分にも言い聞かせている様にも聞こえ、自嘲しそうになる。
「まーちゃんのにーが、そう言ってたって。華のにーはお化けだって、腕に沢山目があるんだって、それでみんなをジロジロみてるんだって」
「……」
ちゃんと違うと言いたかったが、自分の息子がそう言われている事実に胸がキュッと痛み、声が出なかった。代わりに涙が浮かんできた。景色が滲む。華英にバレない様、赤信号でさっと拭ったが、化粧が少し溶けてしまった。
「ママ……?」
「大丈夫よ。大丈夫。先ずはお兄ちゃんが元気にならないとだよね」
「うんっ。にーと早く遊びたい」
少しでも明るくなる様に話の矛先を誘導して、ニコリと笑う。そうするだけで、少し心が軽くなる気がした。
夜。華英を寝かしつけた後、リビングで夫と向かい合う。
「それで、神社やお寺って、どういうことなんだ?」
「隼人の腕に目が現れたのは事実なのよ」
「お前までそんなこと言って。それは隼人の妄言だって最初は言ってたじゃないか」
「そりゃ、あんな小さい子が急にそんなこと言っても、何かのごっこ遊びか、構って欲しいのかって思うでしょ!」
余りの図星に、ついつい声が大きくなってしまう。
「そんなに喧々しないでくれよ。頼むから落ち着いてくれ。今状況をちゃんと分かっているのはお前だけなんだ」
「そ、そうよね。ごめんなさい」
春賀は自分が保育士と華英から聞いた事を話した。
「そうか……。目撃者がいるのか。そうだな、そうなると話に信憑性が出てくるよな」
「そうなの。でも、病院では異常が認められないみたいで、鎮静剤を注射されただけだったわ。それに、もしこれからもそう言う様なら、メンタルケアもするからまた来院してくれって。でも、私、それが正解とは思えない」
「……じゃあ、行ってみるか? 神社」
「え?」
「隣町に、それなりに大きくて神主様もいる所があるだろ。毎年初詣に行っている所。そこで看て貰うか?」
「……」
「……」
「もし、もしもよ? それでもどうにもならなかったら、私……どうしたらいいの?」
「そんなことは考えるな。きっと上手くいくよ。大丈夫、大丈夫。駄目なら駄目な時に考えよう」
「そ、そうね……」
この時はこれで上手く行くと思っていた。きっと家族4人変わらずに居られると思っていた。
どうも、暴走紅茶です。
ついに語られますよ。ちょっと暗いお話が続きますが、
何卒、彼の過去にあった事を最後まで読んでやって下さい。
それでは、また来週