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壁画を見終えて宿に戻ると、ユーリに会いたいという来客が待っていた。
客人はどうやら、カドリア国の国王の遣いらしい。ロデニウムの第二王子が旅行に来ているという噂を国王が聞きつけて、ぜひ城へ招待したいとのことだった。
「外交に来てるわけじゃないんだがなぁ」
使者が帰ったあと、ユーリはそう言って肩をすくめたが、カドリア国の国王に誘われては断るわけにもいかないらしい。
カドリア国には、ユーリの兄と同じ年の王子がいて、ユーリの兄王子とこの国の王子はたまに手紙のやり取りもするほど仲がいい。つい最近までユーリは狼の姿で生活していたので、もちろんカドリア国の王子には会ったことはないが、現在はきちんと人の姿に戻っている。下手な嘘で挨拶を拒否して兄の顔に泥を塗るわけにはいかないのだ。
「ぜひ奥様もとおっしゃっていましたね。ドレスはどうしましょう」
エレナの荷物には、旅行用のかさばらないドレスしか入っていない。国王に面会するのであれば、それなりの格好をする必要がある。
ミレットはジュリアと相談して、急いで王都リバティルの仕立て屋を探した。一から仕立てている時間はもちろんないが、よさそうなものを見繕って、ミレットとジュリアが軽く手直しすれば、国王との面会日である二日後にはなんとか間に合うだろう。
ミレットとジュリアが慌ただしく宿を出ていくと、入れ替わりで散歩に出ていたライザックが戻ってきた。
エレナはライザックの様子を見て、目を丸くした。
「ライザックさん。どうしてそんなに濡れているんですか?」
ライザックは全身濡れネズミ状態で、ぽたぽたと髪からしずくを滴らせながら肩をすくめた。
「……今日も噴水が故障したようでね」
「それで水をかぶったのか。つくづく噴水に縁があるな、お前」
「嬉しくないよ」
王都リバティルの噴水は、海水をくみ上げているから塩分が含まれている。
ライザックはべたべたするから風呂に入ると言って、大浴場の方へと歩いていき、エレナとユーリは顔を見合わせた。
「不運な男だ」
エレナもライザックには同情を禁じ得なかったが、それにしても、本当によく故障する噴水である。
エレナは、噴水の近くにはできるだけ近寄らないようにしようと心に決めて、ミレットたちが帰ってくるまで、ユーリと一緒に宿に隣接しているカフェでお茶を飲みながら待つことにした。
二日後、エレナはユーリとともにカドリア城へむかった。
王都リバティルの北。小高い丘の上に建つ城は、ロデニウムの城と比べると小さいが、庭は緑が多く、海の生き物の形に剪定された灌木が並んでいてなんだかかわいらしい。
カドリア国王に謁見をすませたエレナたちは、国王が是非にとも城に一泊してほしいと言うので、次の旅行先をまだ決めていなかったこともあり、一泊だけ城に泊まることにした。
ユーリは国王との謁見のあと、この国の王太子であるマギルスに呼ばれてしまい、エレナはミレットとともに気になっていた城の庭を見せてもらうことにした。
短い芝の上にぽつぽつと点在する灌木は、魚や貝などの海の生物の形をしていて、それが一望できるように存在する四阿のそばには人魚の像が建っている。
四阿のそばには噴水もあって、大きな魚の口から水が出てくるような作りになっていた。
「かわいいね、ミレット」
「そうですわね、奥様。ふふ、これはイルカみたいですわ」
ミレットの言う通り、灌木を剪定してイルカが飛び跳ねている様子を器用に作り上げている。
せっかくだから四阿に座って庭を楽しもうとエレナたちが足を向けると、そこには先客がいた。
まっすぐな黒髪のすらりと背の高い女性と、ふんわりと波打つ金髪の小柄な女性である。
(あれ、この人……)
エレナは金髪の女性の顔を見た瞬間、レーン・ピエトル大聖堂で熱心に祈りをささげている女性の顔を思い出した。ここからだと少し遠いため顔ははっきりとは見えないが、雰囲気がとてもよく似ている。
エレナとミレットは、先客がいるのであれば引き返そうと踵を返しかけたが、立ち去る前にガシャンと大きな音が聞こえてきて足を止めた。
「何度言ったらわかるの! 紅茶が熱すぎるわ! やけどをしたらどうしてくれるのっ」
振り返ると、叫んでいるのは黒髪の女性のようだった。
ティーセットを叩き落したようで、四阿の石の床には陶器の破片が散乱している。
金髪の女性は謝罪するように何度も頭を下げて、散乱した陶器の破片を片付けようと手を伸ばした。すると、黒髪の女性が彼女の手を容赦なく踏みつける。
「あ!」
エレナは目を見開いた。
陶器の破片の上であのように手を踏みつけたりしたら、破片が刺さって怪我をしてしまう。
エレナはミレットが止めるより早く、四阿に駆け寄った。
「あのう!」
どういう事情かはわからないし、よそ者の自分が口をはさんでいい問題ではないかもしれないが、金髪の女性は痛そうな顔をしている。早く手から足をどけてもらって、手当てしなければ。
エレナが声をかけると、黒髪の女性は怪訝そうに眉を寄せた。
「あら、あなた誰? 見ない顔ね。勝手に城に入り込んだのなら衛兵を呼ぶわよ」
ずいぶん威圧的な女性だ。
エレナはちらちらと踏まれた女性の手を気にしながら、手短に「ロデニウムのユーリ王子の妻」であると告げる。
すると黒髪の女性は目を見開いて、慌てたように金髪の女性の手から足をどけると、その場で優雅に一礼した。
「これは失礼いたしました! わたくしはリザベラと申します。この国の王太子マギルス殿下の妻ですわ」
「マギルス殿下の……。はじめまして、エレナです」
呑気に挨拶を交わしている暇があったら、床に膝をついている金髪の女性の手当てをしたいのだが、リザベルは彼女のことを意に介さないようで、微笑みを浮かべて話を続けた。
「ユーリ殿下とお妃様がいらっしゃるとお聞きしていましたのよ。お見苦しいところをお見せしてしまいましたわ。この侍女はちっとも気が利かなくて。さ、ここは汚れてしまいましたから、わたくしの部屋でお話いたしませんこと?」
エレナは困ってミレットを振り返った。リザベルの相手よりも手当てを優先したい。けれどもここでエレナがここでリザベルの誘いを断り機嫌を害してしまったりすると、ユーリに迷惑がかかるのだろうか。
弱っていると、ミレットは心得ているとばかりに頷いた。
「奥様。わたくしはこのままこちらの方のお手伝いをいたしますので」
どうやらミレットが手当てをしてくれるようだ。
エレナはほっとしてミレットに口の動きだけで「お願い」と告げると、リザベルに連れられて彼女の部屋へと向かったのだった。





