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「三年前、レヴィローズの第一王女ソアリスが十五歳の誕生日を迎えた日のことだ。ソアリスは生まれた時から、ある呪いを身に受けていた。それは、十五歳になった日、彼女が糸紬の針に触れると発動する呪いだった。言い換えれば、糸紬の針にさえ触れなければ呪いは発動することはない。城の中には使用人たちが使う糸紬の機械があったが、王女がその呪いを受けた時にすべて撤去されていた。城には糸紬の機械はない。そう――、あるはず、なかったのに、なぜかソアリスはその日、城の中にある宝物庫へ向かった。十五歳の誕生日に、祖母が使っていたティアラを譲り受けることになっていて、待ちきれなかったらしい。宝物庫には、歴代の王や王妃たちが使っていた様々なものが納めてある。その中に、あったんだ。何代も前の王妃が使っていた糸紬の機械が」
サンドラードはここでいったん言葉を区切って、大きく息を吐き出した。
このあとは、レヴィローズの城の様子を見れば聞かなくてもわかる。ソアリス姫は糸紬の針に触れてしまい――、そして呪いは発動した。
しかし、エレナはここで疑問を持った。呪いはソアリス姫にかけられたものであるのに、どうしてその力が国民全員にまで及んでしまったのだろうか。そもそも、ソアリス姫にかけられた呪いとはなんだろう。
(それに、どうしてサンドラードさんはそのことを知っているの?)
一つの国の姫にかけられた呪いである。国の姫に呪いがかけられているなんて、普通であれば口外しない。おそらく、知っているのはソアリス姫に近しいものたちだけだったろう。そうなると、サンドラードはソアリス姫もしくは王家と親しい関係であったと推測できる。
「ソアリス姫にかけられた呪いとは一体何なんですか?」
エレナが訊ねると、サンドラードが口を開く前に、馬車の扉が開いた。
「眠りの呪いです」
ヒューバートだった。彼はエレナの膝に巻かれた包帯を見て眉尻を下げると、深く頭を下げた。
「怪我をさせてしまい申し訳ございませんでした」
「いえ、そんなに大きな怪我ではないので大丈夫ですよ」
エレナは首を横に振ったが、ヒューバートはそんなエレナの様子にますます申し訳なさそうになった。
ヒューバートはサンドラードの隣に腰を下ろすと、馬車の扉をしめた。
「ここからは私がお話します。サンドラード様より私の方が詳しいですから。そうですね、まずは私たちのことをお話ししておいた方がいいかもしれません。ここにいるサンドラード様ですが、アレグライト国の第二王子でソアリス姫様の婚約者でいらっしゃいます。そして私は、ソアリス姫様が幼いころより護衛を務めておりました。呪いが発動した日は仕事でアレグライト国におりまして、呪いには巻き込まれずにすんだ次第です」
エレナは驚いてサンドラードを見た。それなりの身分の人だろうとは思っていたが、まさかアレグライト国の王子様だったなんて。
「黙っていて悪かった。だが俺は国を飛び出した身だから、かしこまる必要はない」
サンドラードはどうやら、ソアリス姫を助けるためにアレグライト国を飛び出したらしい。アレグライト国の国王は呪いの発動したレヴィローズの国を見て、サンドラードとソアリスの婚約を解消させようとしたらしいのだが、彼はそれを拒んで国を出て、姫の――ひいてはレヴィローズの呪いを解く方法を探して旅をしていたそうだ。
「姫の呪いについては、姫が生まれた十八年前にさかのぼります。それは、国の伝統にしたがった結果起こった、悲劇でした――」
ヒューバートは膝の上で拳を握り締めて、吐き捨てた。
「姫に呪いをかけたのは、本来、姫の誕生を祝うべくやって来た、ノーシュタルトの魔女でした」
エレナは息を呑んだ。
「レヴィローズは昔から、国王に子供が生まれたらノーシュタルトの一族を呼んでいたの。ノーシュタルトの一族から生まれた子供に祝福を授けてもらうためにね」
アレグライト国とレヴィローズ国の国境付近――、レヴィローズへ入る手前の町で取った宿の一室で、ジュリアはユーリたちを前に語りはじめた。
宿の窓から見えるレヴィローズの国境当たりの空は重たい雲が広がっている。国境を一歩すぎれば、その先は時が止まった世界だ。
呪いの術の得意なジュリアでも、レヴィローズの国に広がる呪いにはゾッとした。もしも「彼女」が生きていれば、呪いは正しく姫を眠らせるだけですんでいただろう。けれども彼女が亡き今、その呪いは正しく発動しなかった。ソアリスを死から救うために上書きされた呪いは、明らかに術者を失って暴走している。
こんなことは「彼女」も望んではいないはずだ。
「ソアリス姫が生まれた時、もともと呼ばれていたのは、ノーシュタルト一族の中でも強い力を持っていたシフォレーヌという魔女だった。彼女はレヴィローズの王妃とも仲が良くて、よく手紙のやり取りをしていたの。だからソアリス姫が生まれた時、彼女に祝福を授けてもらえるように、レヴィローズの王妃は手紙を書いた。けれども、シフォレーヌはその時妊娠中で、長距離の移動は難しかったの。そこで代わりにノーシュタルトから派遣されたのは、マリアンナという魔女だった。隠してもしょうがないからこれも言っておくけど、シフォレーヌはエレナの母親――、ノーシュタルト一族の長ダニエルの正妻だった女性よ。そしてマリアンナは側室の一人で、ああ、ユーリ王子も会ったでしょう? あの豚みたいなエレナの異母妹の母親よ」
「豚……、ああ、あのバネッサとかいう」
「殿下、いくらなんでも女性に豚はないだろう」
ライザックがあきれたような顔をしたが、ユーリはふんっと鼻を鳴らした。
「あの女はエレナを傷つけようとしたんだぞ! 豚で充分だ! 実際豚みたいに丸いしな」
「……一応、本来、そのバネッサ嬢が殿下の花嫁じゃなかったっけ?」
「やめろ! 考えたくもない!」
もしエレナではなく、当初の予定通りバネッサが嫁いできていたら――、そう考えるだけでユーリはゾッとする。見た目はともかくとして、あの性根のひん曲がった女だけは願い下げだ。
ジュリアは「娘も娘だけど、母親はもっと頭がおかしいわ」と嘆息して続けた。
「レヴィローズにとって何より悲劇だったのは、派遣されたのがマリアンナだったってことよ。マリアンナは本当に自分勝手な我儘な女で――ああ、思い出しただけでも腹が立ってきた」
ジュリアはテーブルの足を蹴飛ばした。
話が長くなると察したミレットが立ち上がり、人数分のお茶を用意して戻ってくる。
ジュリアはぱちりと指を鳴らしてテーブルの上にチョコレートの山を出現させ、大きめのチョコレートボンボンを口に放り込む。
ユーリは前足でティーカップをはさむと、それを傾けて器用に紅茶を飲んだ。
「マリアンナはね、美しくて強い力を持ったシフォレーヌのことが嫌いだったの。そして、シフォレーヌが自分よりも先に妊娠して腹を立てていた。まあ、嫉妬よね。むしゃくしゃした頭のおかしいマリアンナは、招かれたレヴィローズで憂さ晴らしすることにしたのよ。自分ではなくシフォレーヌを呼んだレヴィローズのことも逆恨みしていたからね。マリアンナは、あろうことか、祝福を授ける場面で、ソアリス姫に呪いを放った。十五歳の誕生日に、糸紬の針に指を突き刺して死ぬという呪いをね」
「なんで糸紬なんだ」
「知らないわよ、あの馬鹿の考えることなんて」
ジュリアは吐き捨てて、二つ目のチョコレートボンボンを口に入れた。
「当然、レヴィローズの国王夫妻は激怒したけれど、ノーシュタルト一族相手に戦争を仕かけるような愚かなことはさすがにしなかった。何もできずに嘆いていたところに、話を聞きつけたシフォレーヌが身重の体で無理をしてやって来たの。無茶するものよね。移動だけでものすごくかかるのに。結果シフォレーヌは、レヴィローズで産気づいてエレナはそこで生まれたみたいだけど、まあ、逆のエレナにとってはそれが幸いだったんだと思うわ。ノーシュタルトの地で生まれていたら、あたしの子と同じように生まれてすぐに殺されていたかもしれないもの」
ジュリアは三つ目のチョコレートボンボンを口に入れて、紅茶を一気に飲み干した。
「シフォレーヌはレヴィローズ国王夫妻の嘆きを受けて考えたの。一度かけられた呪いを消すことはできない。弱めることはできてもね。呪いを完全に消し去るなんて芸当、絶対解呪の特異な力の持ち主でないかぎり無理だもの。だからシフォレーヌは考えた末に、呪いを上書きすることにしたのよ。死ではなく、『眠り』に変えてね。いつかソアリス姫を目覚めさせる力を持ったものが現れる。そう信じて。……まさかそれができる可能性があるものが、自分の娘だとは思わなかったでしょうね。でも、呪いが発動する前にシフォレーヌは亡くなり、呪いは暴走。レヴィローズ国全土に広がったってわけ」
「……つまり、エレナが攫われたのは、この呪いのせいか」
「そういうこと。あなたにかけられた呪いがどういうものかについては伏せられていたみたいだけど、あなたが呪われた王子であることは有名だったからね。その呪いをエレナが解いたって言う噂が広まっていてもおかしくない」
ユーリは振り向いて、窓外の、遠くに見えるレヴィローズの国境あたりの空を睨んだ。
「エレナに解けるのか」
ジュリアは肩をすくめた。
「わからないわ。エレナの力はまだ安定していないもの。ただ、一つだけ言えるのは、エレナに解けなければ、あたしが知る限り、誰にも解けないということよ」
あたしも含めてね――、ジュリアはそう言って、大きく息を吐き出した。