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レヴィローズの国に到着したエレナは息を呑んだ。
国境を越えてすぐのことだ。
アレグライト国との国境を過ぎてすぐに村に到着した瞬間、エレナはその村の中に広がる異様な光景に茫然とすることとなった。
「なん……ですか、これ」
村では人々がいた。いたけれど――彼らは、まるで石像のように微動だにせずに、ただそこに存在していただけだった。呼吸の音すら聞こえてこない。
人々は何かの作業中に、石像にされる術をかけられてしまったかのように、その動作のままに動きを止めていた。
「レヴィローズでは、三年前からずっとこうだ。レヴィローズは海に面した国で、国境がアレグライト国にしか面していないから、アレグライト国がなんとかこの状況であることを外部に漏らさないように抑え込んでいるが、すでに近隣諸国では三年も沈黙を続けるこの国に疑問の声が上がっている」
サンドラードは空を見上げた。アレグライト国では青空が広がっていたというのに、レヴィローズへ一歩踏み込んだ途端に、まるで夜のように分厚い雲に覆われた曇天であった。
そして、その分厚い雲は大きな渦を巻いていた。渦の中心は、ここからさらに南にあるようだ。
「この方々は、生きているんですか……?」
「わからない。だが、俺はそうであると信じている」
「どうしてこんな……」
エレナは恐る恐る近くにいた村人に近づいた。子供だった。追いかけっこの途中で動きを止めた男の子は、今にも動きそうな様子で、楽しそうに笑っている。
エレナがそっと男の子の頬に触れると、彼の頬は暖かかった。暖かかったことにほっとしたが、同時に、これがやはり石像などの類ではなく人であるのだと認識して戸惑った。
サンドラードはエレナの隣にやってきてその場に膝を折ると、エレナのふれた男の子の頭を撫でた。
「呪いのせいだ」
「呪い……?」
「そうだ。三年前に発動した呪いだ。詳しいことはレヴィローズの城で話す」
エレナはそっと胸元に手を当てた。ドレスの下にはアメシストのペンダントがある。ジュリアは城に連れていかれそうになったら、必ずこのペンダントをつけて行けと言った。これはエレナを守ってくれるらしい。
エレナはドレスの上からペンダントトップに触れたまま、悲痛な表情を浮かべるサンドラードの横顔を見やった。
彼はいったい何者なのだろう。レヴィローズの国のこの状況は、アレグライト国で情報を押さえられて諸外国には秘密にされているという。では、彼はアレグライトの国の人だろうか。
エレナはサンドラードに連れられて馬車に戻った。ここからさらに南にある、レヴィローズ城へ向かうそうだ。
馬車の中で、サンドラードはずっと難しい表情を浮かべていた。
エレナは馬車の窓から、黒に近い灰色の雲に覆われた国の様子を見やる。まるで、時が止まったようだ。呪いと聞いてジュリアを思い浮かべたが、彼女がこんな残酷なことをするはずはない。ジュリアがユーリにしたことも残酷だったが、これは常軌を逸している。
(……ノーシュタルト一族の、仕業よね?)
世界で異能を使えるのは、ノーシュタルト一族の血を引くものだけ。もしもこれが正しく「呪い」だというのならば、この原因を作ったのはノーシュタルト一族である可能性が極めて高い。
けれども、いくらノーシュタルトがどこの国にも属さない特殊な一族であると言っても、一つの国をこんな目に合わせて平然としているとは考えたくはなかった。どこの国にも属さないからどこの国の法にも従わない――。だが、法以前に、これは人としての倫理観の問題だ。
ノーシュタルト一族は、自分たちが世界で一番優れていると信じている。そして、ほかの国々が恐れる異能の力を持っていることも事実だ。だが、だからと言って何をしていいわけでもない。それは傲慢で、非道で、許されざることだ。
エレナはかつて、無能と蔑まれていたエレナに向かって異能の力を振るった義母や、異母兄妹を思い出した。彼らはエレナに異能の力を向けて、一歩間違えれば死んでいたような目にあわせたこともある。けれども苦しむエレナを見て、彼らがしたのは後悔ではなく嘲笑だ。その顔を思い出したエレナはゾッとした。
そして父はエレナがどんな目にあおうとも無関心だった。生きていようと死んでいようと関係ない。存在自体、認識するつもりがないと言わんばかりだった。
ノーシュタルト一族の仕業でないと否定したい一方で、彼らならばやりかねないとも思ってしまう。
エレナは馬車の窓外に流れていく、まるで残酷な絵画の世界のような異様な光景を眺めつつ、暗澹たる気持ちになった。
「ここから城まで二日かかる。食料はアレグライトを出るときに用意しておいたから問題ないが、ここから先は宿は使えない。野宿になるが、俺は外に出ているから、そなたは馬車の中で休め」
しばらく黙り込んでいたサンドラードが言った。
レヴィローズの国民がすべてこのような状況であれば宿が使えないのも頷ける。けれどもサンドラードを外へ追いやることには気が引けた。エレナはユーリの妻になるまで、ずっとぼろぼろの小屋で生活していたのだ。隙間風の入り込む小屋は外とそれほど変わらない。外で眠るのはエレナの方が適任である。
エレナはサンドラードに自分が外で休むと言ったが、彼はぎょっと目を剥いた。
「女を外で休ませるわけにいくか! それにそなたは、ロデニウムの第二王子の妃だろう!」
サンドラードは、どうやらエレナがユーリの妻であることを知っていたらしい。
(そっか、わたし、王子様の妻なんだった)
ユーリがあまりに王子らしくないためにうっかりしていたが、彼は第二王子だった。つまりエレナは王子の妃という身分なる。なんてことだ。気がついていないうちに御大層な身分になっていたらしい。エレナは急に血の気が引いてきた。ユーリは離宮で暮らしているから、深く考えていなかったが、ほかの人から見た時にエレナはユーリの妃。下手なことをすれば、笑われるのはユーリだ。これはまずい。
エレナは慌てて背筋を正した。きちんとしなくては。だらしないところを見せてはだめである。
サンドラードは、急に背筋をピンと伸ばしたエレナに不思議そうな顔をしたが、そのまま話を続けた。
「わかったら、そなたは馬車で休め。いいな」
エレナは頷いた。
サンドラードは再び黙り込んで、深い緑色の瞳を閉ざした。
重たい曇天のせいで昼か夜かも判別できないような暗い中を、馬車がガタガタと揺れながら進んでいった。