19
二十年と半年ほど前――
ジュリア・ノーシュタルトは、朝から産気づいていた。
生まれてこようとしているのは、二年前に結婚した夫との間にできたはじめての子供だ。
出産は難産で、子供が生まれたときにはジュリアはへとへとで、子供の顔を一目見た直後、気を失うように眠りについてしまった。
そしてジュリアが目を覚ましたとき、夫が笑顔で隣に立っていた。
ジュリアはほっとして、それから生まれたばかりの我が子を探した。
「あの子はどこ?」
すると夫は笑顔で答えた。
「大丈夫だよ、ジュリア。君の汚点は僕が消してあげたからね。大丈夫、次はちゃんと力のある子が生まれてくるよ」
ジュリアは何を言われたのか理解できなかった。
汚点? 次?
いったい夫は何を言っているのだろう。よくわからない話はいいから、生まれてきた息子に会いたい。
けれども夫は笑顔を浮かべたまま、一向に息子を連れてきてはくれない。徐々にジュリアの心の中に不安が広がっていった。
「まさかあなた……、あの子を……」
まさかと思った。でも、いつまでたっても息子に会えない。だからジュリアは震えながら訊ねた。すると夫は、何でもないことのように答えた。
「無能だったからね」
ジュリアは息を呑んで、そのまましばらく呼吸を忘れた。
「なん……ですって?」
「ああ、ジュリア。そんな顔をしないで。大丈夫だよ、あの子は生まれてすぐに死んだことにしたから、君が無能を産んだなんて僕とダニエルしか知らない。君の名誉は僕が守ってあげたからね」
「何を言っているの……?」
名誉? そんなもの、どうだっていい。
「ふざけないで。ふざけないで……! あの子を連れてきて、今すぐここに連れてきてよ! あの子はあたしの子よ! あたしの子なの……!」
「ジュリア、落ち着いて。冷静になって。君は出産で疲れているんだ。落ち着いたらきちんと理解できるよ、あの子は無能だった。仕方のないことなんだ」
「ふっ、ざけないで……! あの子はどこ!? あの子はどこにいるのよ!?」
ジュリアはベッドから起き上がろうとして失敗した。
ジュリアを支えようとする夫の手を振り払って睨みつけたとき、ジュリアの耳にひどく冷静な声が届いた。
「お前の子ならもう海の底だ」
「―――!」
声のするほうを振り返ると、そこには夫の従弟のダニエル・ノーシュタルトが立っていた。
「何を怒る。私たちはお前の名誉を守ってやったんだ。感謝こそすれ、怒鳴られるいわれはない」
冷静な声。それがジュリアの心をひどく乱して、呼吸が苦しくなって胸をかきむしった。
「ジュリア、君は興奮しすぎているよ。さ、少し休むんだ。そうすればきっと冷静になれる」
寝かしつけようとする夫の手を、ジュリアは叩き落した。
夫は肩をすくめて、ダニエルとともに部屋から出て行った。
二人が出て行ってしばらくして、ジュリアは大声で泣いた。泣いて泣いて泣いて――、涙が枯れるまで泣いたジュリアは、虚ろな目をした顔を上げた。
「許さない――」
その日――
ジュリアは夫を呪い殺して一族の地を飛び出した。
ジュリアの話を聞き終えたとき、エレナの目からは涙が止まらなくなっていた。
ノーシュタルト一族は「無能」と判断された子供の息の根を止めることに抵抗はない。それはエレナが「無能もの」と呼ばれていたからこそ理解していた。彼らにとって異能の力がないことはすなわち、生きている価値のないことだった。エレナも母がかばわなければ、この世にいなかっただろう。
そしてジュリアの語った「ダニエル」。それはエレナの父の名だった。わかってはいたことだが、改めて父の冷淡さを理解して、エレナはゾッとした。
「夫を殺して一族のもとを飛び出したあたしは、しばらくあちこちを彷徨ったわ。一族を滅ぼしたくても、あたしにそんな力はない。どうしようか考えていた時に、ロデニウムで王子が生まれたことを知った。あのときのあたしは相当頭がおかしかったから、ノーシュタルトの名前を名乗って王子を呪ってやれば、あの男の矜持をズタボロにできると考えたの。異能の力がすべてとか言っておきながら、手も足も出ないとわかったときのあの男の顔が見たかった。ノーシュタルト一族の評判が地に落ちた時のあいつの顔が見たかった。なんて馬鹿げたことをしたんだって今は思うけど、当時のあたしは真面目にそう思っていたのよ」
エレナは顔を覆った。
どれだけジュリアが被害者であろうとも、ユーリに呪いをかけた時点で彼女は加害者になった。ユーリが呪われた事実は変わらないし、彼は苦しんだ二十年も変わらない。けれども、エレナは彼女を責められない。ノーシュタルト一族であるエレナには――、ダニエルを父に持つエレナには、ジュリアを責めることはできないのだ。
エレナが顔を覆ってぽろぽろと涙をこぼしていると、突然、ガシャンと大きな音が響いた。
エレナが驚いて顔を上げると、ユーリが窓ガラスを蹴破って部屋に飛び込んできたところだった。
「殿下……!」
ガラスを蹴破ったせいで、ユーリの体にあちこち傷ができている。
エレナは立ち上がり、ユーリに駆け寄ろうとしたが、それよりも早くにユーリがエレナのそばまで走ってきて、ぎゅっとエレナを抱きしめた。
「大丈夫か!?」
ユーリはキッとジュリアを睨みつけた。
「おい、お前、部屋に鍵をかけてエレナを泣かせていったいどういうつもりだ! ケリーやバジルはどうして倒れている!」
「そこの二人はちょっと眠ってもらっただけよ。大丈夫、少ししたら目を覚ますわ」
「ではどうしてエレナが泣いている!」
「ユーリ殿下、あの、これは違うんです」
エレナはジュリアに泣かされたわけではないとユーリに説明しようとしたが、ジュリアは「いいのよ」と言って、ユーリに向かって小さく微笑んだ。
「完全じゃないけれど、呪いは解けたみたいね。よかったわ。そして、こんなにも長くあたしの都合に巻き込んでしまってごめんなさい。あたしはジュリア・ノーシュタルト。あなたに呪いをかけた張本人よ。捕えたかったら捕えてもいいわ」
ユーリは大きく目を見開いた。