悪役の裏側(前)
人生を演劇に喩えたらどんな配役になるだろう、と考えることがある。
たとえばクラスメイト全員が出演する脚本だとしたら。
星埜くんが主役である、という考えには誰もが頷いてくれるだろう。彼にはそういう風格がある。星埜恒一を主人公とする物語はきっと華々しいものだ、と思わせる、そんな雰囲気が。
では主演男優が星埜くんなら、その隣に並ぶのは誰だろう──と想像を巡らせてみると、これはおそらく私だと思う。自慢するわけではないけれど、ヒロインにふさわしいのは汐華知佳だ、と皆が認めてくれるはずだ。
私自身もそうでありたいと思っているし、そう在ろう、と意識して日々を過ごしている。他の女子とは覚悟が違うのだよ、覚悟が──なんてふざけてみたりもするけれど。
でも、事実なのだ。
私はいつも、ヒロインであろうと振る舞っている。誰にも文句をつけられない、才色兼備で隙がない、最高のヒロインでありたいと。そう、思っているのだから。
ともあれ、主人公とヒロインが決まってしまえば他の枠も次々に埋まっていく。
悪友という立場にいる彼であったり、いつも陽気に周囲を元気づけるあの子であったり、普段は騒がしくも体育では大活躍を見せる彼であったり、委員長として学級内を見渡す彼女であったり……。
ヒトの個性というものは実に多様で、あらゆる点がまったく同じ人間なんてひとりもいない。一見似ているふたりをよく観察してみたら全然違う、なんてことも数えきれない。
私のクラスメイトである彼ら彼女らも、それぞれに違う色をした立派な名優たちだ。
けれど。
単に彼らが違うとはいっても、なかにはもっと本質的に違うというか──ただの個性という分類では捉えられない、決定的な異彩を放っている生徒もいる。
たとえば、月詠さん──月詠夢見さんがそうだ。彼女は私たちとの立ち位置がまったく違う。
演劇という比喩に則って考えてみれば、彼女には役柄が与えられていないのだ。
配役という枠組みで遊んでいたのに横紙破りにも程があるだろう、とも思うけれど、それが私の偽らざる第一印象だった。
月詠さんは舞台の上にいない。
彼女はそこから一歩引いた位置で、淡々と演目を眺めている。その座席は観客のものなのか──それとも監督者のものなのか。実際にはわからないけれど、彼女の世界を見つめる瞳が私は好きだった。どこまでも真摯で、まっすぐで、ありのままの世界を見通しているかのような──不思議な目つきだった。
彼女自身はその印象を否定する。わたしが好きなのは空想の世界であって、現実の物語にはそんなに興味はないのです、なんて悪ぶってみたりする。けれど、それが照れ隠しであることくらい私にもわかるのだ。
彼女はきっと、自分が思っている以上にこのせかいのことが大好きで──そして同時に理想が高い。加えて意外と洞察力があるせいで、見たくないものまで見えてしまうのだ。
彼女が求める美しい物語に対して、現実は薄汚れすぎているから。
だから彼女は自分を閉ざしてきたのだと思う。ヒトの敵意や嘘や背信や悪徳を、直視することができなくて。
そんな彼女が私のことを友人と認めてくれるのは、結構嬉しいことだったりするのだ。私が本物のヒロインであることが認められているかのようで。
──実際には、そんなことなんてないのに。
私はあくまで虚像を演じているだけで、決して本当に優れた人間なんかではないのに。
そのことを思い出させるのは彼の存在だ。
天笠彰良。
私の同級生のなかでも舞台上で異色に見えるうちのひとり。彼が変わっているのは、その演技に対する姿勢という点だ。
そもそもの話、演劇の配役なんて所詮比喩に過ぎない。だから、それぞれがどの役に決まるかというのは基本的に受動的だ。そういう性格だから、そういう立場だから、と後づけのように与えられる解釈でしかない。もちろん例外はあるだろう。友人関係を上手く転がすために弄られ役でいよう、くらいのことは生じうるはずだ。けれどそれも、あくまでその時点までの人間関係の積み重ねによるものだと思う。たまたまそういう役柄で上手くいったから次もそうしよう、という経験則である。彼らの配役は、偶然と天命によって自然と定まっていったものなのだ。
けれど天笠彰良は違う。
彼はそれまでの人間関係を振り切って、自分の意志で悪役を演じることを選んだ。悪役という立場に甘んじた。
この点において彼は、他の誰とも決定的に異なっている。その特殊性こそが私を責め立てる。彼は私の、過去の後悔と、無知と、愚昧と──その他あらゆる罪業の象徴だった。
だから今日も、私はあの頃のことを思い出す。
1
私が小学生だったときのことだ。
小学生の頃だった……と思う。正確な時期に関する記憶は曖昧だ。始まりがいつだったのかはわからない。終わりがいつ訪れるのかも知れなかった。始点も終点も定かでないまま、けれど明らかな観測事実だけはそこにあって。
私は不幸な人間だった。
比喩でも冗談でもなく。比較論でも自虐風自慢でもなく。幸か不幸かでいえば間違いなく不幸で。けれどいかなるほどの不幸であるかは言明できず。相対論的主張ではなくあくまでも絶対論的に。私は、不幸であるとしか表現のしようのないほどに不運だった。
平凡な日常なんて幻想としか思えずにいた。
道を歩いている途中で暴走自動車に撥ねられかけることなんて茶飯事だった。
工事現場の近くを歩けば鉄骨が落ちてきて。
電車に乗ろうとすれば人混みに突き飛ばされて。
あるいはごく普通の街中で不審者に刺されかけて。
その度にかろうじて命は救われたけれど、翌日にはまたすぐ死にかけた。そのうち小学校に通うことも諦めるしかなくなった。徒歩も自転車もバスも危険に隣り合わせ。親の車に乗っていると命の危険に気づけない。家を出ないのが一番だとわかっていても、それを我慢できるような小学生ではなかった。けれど、どうすればいいのかわからないのだ。
理由がわからなかった。所以が意味不明だった。原因を知らない以上、結果をどうすることもできやしない。
運が悪かったのだ。星の巡りが悪かったのだ。そんなふうに自分を呪った。まるで呪われたかのような自分の不運を呪った。私が悪いのだ、と思った。運のない私が悪い。ついていない私が悪い。疫病神の私が悪い。厄祓いのために家を出て戻ってくるまでの間に何度も何度も死にそうになった私が悪い。結局、厄を祓っても何ひとつ状況は変わらなかったのだから。わけがわからないのだから私が悪いに決まっているだろう。
けれど、彼は言ったのだ。
「おまえが悪いわけがないだろ」
と。道を歩いている途中で暴走自動車に撥ねられかけた私を助けながら、天笠くんは言った。
ずっとそうだった。彼はいつも私の隣に並んで歩いていて、危ないときは助けてくれる。
「理由がないわけがないんだ」
と。工事現場の近くを歩いていたら落ちてきた鉄骨から私を助けながら、天笠くんは言った。
その言葉は気休めだとわかっていたけれど、それでも嬉しかった。不幸の根源を探るために小学生ながらも八方手を尽くす彼を、もちろん私も手伝っていた。
「きっとどこかに原因があるんだ」
と。電車を待っていたところを人混みに突き落とされた私を助けながら、天笠くんは言った。
いかなる科学的知見に基づいても理由を解明できなかった彼が非科学の道に迷いこんでいくのを、私は祈るように見守っていた。
そして。
「…………まさか」
と。ある日にごく普通の街中で不審者に刺されかけた私を庇いながら、天笠くんは天啓を得た。
私の不幸の原因を説明できるかもしれない想像。仮定。推測。
悪夢のような仮説を、彼は。
「──おれが、悪いのか?」
ずっと私のことを助けてくれた彼は。
私を不幸が襲うとき必ず傍にいた彼は。
必ず傍にいたから私を助けてくれた彼は。
そんな、ことを、言った。
限りなく非現実的で。徹底的に非科学的で。それでも説明づけることはできてしまう、仮説だった。
とはいえ、悪いのが彼ではないことはすぐにはっきりした。私が不幸に襲われるのは、彼の傍だけではなかったからだ。父といても、母といても。私を助けてくれる人が近くにいるとき、私は不幸に襲われた。対して、独りでいる私が命の危険に晒されることはなかった。
けれど、だからといって安心できるはずもない。傾向が見えてしまった分、その不気味さがいっそう恐ろしい。不幸はどうして私を襲っているのだろう。私が助かる場合に限って私を狙う、その理由は何なのだろう。
加えてひとつの懸念があった。このまま今の状況が続いたら、どうなるのだろう。仮に私を襲う不幸が私自身の命を奪わないとしても、そのことは私以外の存命を保証しないのではないだろうか。
だとしたら。もしこのままだったら、いずれ父さんや母さんや天笠くんや、あるいは弟や妹が──命を落としてしまうかもしれない。
その懸念だけは胸に秘めながらも検討を続けていた、そんなある日のことだった。
「…………上位存在の意思を仮定してみよう」
と天笠くんは口にした。
「これは科学的に説明できることじゃないと思う。だから非科学を仮定する。なんらかの、人間よりも上の存在がいる、と考えてみる」
「上の存在?」
「神でも仏でも霊でも、呼び方はなんでもいい。とにかくそういうやつがいて、何か理由があって知佳のことを狙っている、とする。そうすると、その理由は──」
「理由は?」
首を傾げる私に、彼は沈黙を返した。しばらく黙ったまま、ただ私を見つめて。首を傾げたままの私に埒があかないことを悟ったのか、諦めたように口を開く。
「そいつらが望んでいるのは──きっと、悲劇だ」
「ひげき」
「かわいい女の子が原因不明の苦難に襲われて。周囲の人間がいったんはその娘のことを助けて、けれど危険は止まらなくて。いつ終わるとも知れない恐怖に怯える。あるいは周囲を遠ざけて、孤独な毎日を過ごす。……そんな、悲劇のヒロインだよ」
「…………」
説明されても、当時の私にはそれほどの感慨が湧いていなかった。言っていること自体はなんとなくわかるのだ。その恐ろしさは私自身が痛感していた。けれど、それ以上に気をとられていたのが──仮説を語る、彼の表情だった。
そのときの私たちは小学六年生が終わる頃で。子どもであると同時に、少しずつ大人になっていく時期で。けれど天笠くんの表情には、年齢だけでは説明のつかないような、なんともいえない感情が秘められていて。
「もしそうだとしたら──打開策はある」
希望を口にしているはずの彼が、どうしてか悲しそうに見えて。
「どうするの?」
思わず問うた私に、彼は答えた。
「おれが悪役をやる」
「…………」
「そいつらが望んでいる悲劇を、おれがつくるんだ。そいつらが不幸を起こすまでもないように、そんな必要もなく、ヒロインと敵対する存在がいればいい。おれがその悪役を演じるなら、そいつらには悲劇に見えるけど実際はそうじゃないだろ?」
なんて、簡単なことのように微笑む彼から、目が離せなかった。当時の私にはその笑顔をどう考えていいのかわからなかったし、今でもうまく言葉にできない。
それはきっと悲壮な顔で。けれど同時にそれは笑顔で。希望を語る悲しげな顔。理想を信じなければならない絶望に満ちたような。
何も言えないままにその表情を見つめていた私から、彼は目を逸らして。
「だから、今日でさよならだ」
そのまま彼が去っていくのを、私は呆然と目で追っていた。小学生を終えたばかりの私には情報量が多すぎたというのもあるし、今にして思えば、私の情操は少しばかり遅れていたのかもしれない。気がつけば毎日のように不幸に遭っていて、いつ本当に死んでしまうかもわからなくて、心を閉ざすしかなかったのかもしれない。
結局私は、何が起きたのかがいまいちわかっていなかった。彼が言ったことの意味をきちんと理解することもできずに──そんな愚かさを振り払えないまま、私は中学生になった。
両親は悩んだ末に、私にひとり暮らしをさせる決断を下していた。単独行動中の私に危険が訪れないことは実験的に確かめられていたからだ。けれど、そんな理屈についていけないほどに私は子どもだった。
ひとり暮らしはどうしようもなく寂しかった。
中学が始まるまでずっとひとりでは耐えられなかった。
天笠くんが私のところを訪れる日を、心のどこかで願っていた。
だから、その日。
中学生活一日目。
長々しい入学式を必死で耐えて、自分のクラスの名簿に天笠彰良の名前があることを確認して、教室の席で座りながらも生徒が入ってくる度にそちらを見てしまっていた私にとって。
天笠くんの入室を認識した途端に喜び勇んで立ちあがり、慌ただしく彼に駆け寄り、満面の笑みで話しかけていた私にとって。
「悪いけど、話しかけないでくれるかな」
その言葉と。
路傍の石でも眺めるような彼の目と。
凍てつくような、その瞳の冷たさは。
私にとって間違いなく絶望であり。
そしてこれ以上なく、悲劇だった。
2
魂が抜けたように日々を過ごしたかった。
ずっと私と仲良くしてくれて。ずっと私を助けてくれて。もしかしたら好きだったかもしれない彼に嫌われたことを、抜け殻のように悲しんでいたかった。
中学校という新しい環境で得た友人に慰められながら、天笠彰良という悪役のことを呪って、悲劇のヒロインのように生きていたかった。
それが無理な相談であることを、私は知っていた。
最後の日に彼が残した言葉の意味を、今の私は身を以て理解していた。経験しなければそれを理解できない自分の愚蒙さを、心底悔いていた。
私は不幸ではなくなったのだ。
不運に遭わなくなった。暴走自動車にも鉄骨にも鉄道事故にも不審者にも、襲われなくなった。
そのことは間違いなく──天笠くんの仮説が正しかったことを証明していた。
だから私は、二度と彼とは親しくなれない。
彼が私を傷つけたのは私のためだから。悪役を演じて私を救うためだから。その決意を、覚悟を、裏切ることなんてできないから。
代わりに考えた。
今の私にできることがあるとしたら。
私のために悪役を演じてくれた彼のために、できることがあるとしたら。
それは彼の行動を無駄にしないことだ。
天笠彰良という悪役と汐華知佳というヒロインとの関係を固定化して、二度と物理的な不幸に襲われないように。
そのために立派なヒロインになろうと、私は決心した。
一大決心だった。
愚かな私を偽って、無力な私を欺いて、弱く惨めな私を隠して、聡明で華麗なヒロインを演じて──過去の自分を切り捨てるための、決心だった。
……今考えてみれば、その判断が正しかったとは考えづらい部分もある。
私に悲劇のヒロインとしての役割を期待していると仮定された上位存在からすれば、この程度で干渉をやめる理由もないからだ。
むしろ逆ですらありうる。
最大の親友に裏切られて、その裏切りに奮起して成長したはずの少女が、再び不幸に見舞われる──そんな悲劇だって、ありえたはずだ。
相手が毅然とした意志をもつ強い少女であるほど、なおさらその表情を歪めてみたくなるような──そんな趣味だって、ありえたはずだ。
当時の私は、その可能性には気づかなかった。自分を責めることに必死だったのだ。天笠くんだけに苦痛を押しつけるわけにはいかなくて。そんな自分を許すことはできなくて。
何もしない自分を否定することで、逆説的に、天笠くんに救われている自分のことを肯定しようとした。
誇れる自分で在ろうとしたのだ。
天笠くんを犠牲にしてでも救われる価値があるのだと、自分を誇らなければならなかった。
自分を苛める、という表現が的確に合う日常だったと思う。勉学にも運動にも一切手を抜くことなく取り組んで。礼節や所作も学んだし、時間を見つけては読書にも励んで。かといって睡眠時間を削るわけにもいかない。寝不足は美容の大敵だからだ。外見も中身も美しく在ろうと、限りなく気を遣って。周囲の生徒の助けになることもできる限り行って。
──とにかく、本物に近づこうとした。
天笠彰良という悪役に見合う、本物のヒロインに。
本物のヒロインとは何かなんて、わからなかったくせに。
どこまで辿り着けば理想なのかわからなかった。理想のヒロインとか最高の少女とか、それが何かなんて、知らなかった。わからないのならできることをすべてやってしまえばいいと、そう思いながら日々を過ごした。
気がつけば学力では学年の上位圏に入っていて、運動もそこそこできるようになって、容姿もなかなか磨かれてきて、校内でも名前が広まっていて。
そのことに実感を抱けないでいるうちに、私の中学一年目は終わった。
3
二年に上がると、星埜恒一という生徒と同じクラスになった。
彼は完璧な人間だった。
もし私がヒーローを目指していたのなら目標は彼だっただろうと、そう思うくらいに。
頭が良くてスポーツ万能で見た目も爽やかで、だからといって驕るわけでもなく誰もに優しくて。ついでに父親は刑事で、彼自身の夢もそうらしい。
女子に人気が出るのはもちろん、男子だって嫌いにはなれないだろう。親しみやすさも含めてあまりに完璧で、惚れたとしても無理はないというものだ。
そんなことを理性で判断しながら、どういうわけか私の心は冷めていた。奇妙なほどに冷静で、不自然なほどに無感動で。感情の部分が信じられないほどに揺らがなかった。
喩えるなら、まるで──
もしかしたら運命だったかもしれない誰か、のような。
そんな無関心さが逆に効果を発揮したのか、いつの間にか私たちは良い友人になっていた。
興味のない相手から言い寄られる辛さを冗談のように語る彼の口ぶりが思い出される。私のほうも特に誰かと恋愛するつもりはなかったから、互いにとって良い異性避けになるだろう、という合意を結んでいた。
実際、彼との交友関係はなかなかに良い影響を及ぼしてくれた。
私が必死になってヒロインを演じているだけの養殖であるのなら、彼は産まれながらに本物だった天然のヒーローである。その振る舞いを観察するだけでも参考になるし、一緒に勉強すると相乗効果が尋常ではない。
毎週に数日ずつ図書館で会って勉強していれば自然と風評も立ったけれど、私も彼も悪戯っぽく笑いながら噂が流れるままにしていた。
そんな感じだったから、三年に上がっても受験の心配なんて欠片もしていなかった。時期が近づくにつれて勉強会の頻度を増やしもしたけれど、取り立てて特筆すべきこともなく、あっさりと私は高校に合格した。
4
中学三年から高校一年に掛けて、私は天笠くんとの関係について悩んでいた。
この頃になると、彼と私にあったことなんてまるで昔話のように思えてしまっていて。小学生の私が不幸と悪運に塗れていたことなんて夢物語のようで。
かつての不運なんて影も形もない今なら、彼とよりを戻してしまっても構わないのではないか──と。
そう思うと体が震えた。喜びではなく怖さから。夢物語のように現実感がなくても、夢のなかで感じた恐怖だけは強く根づいていた。その恐怖を再び目の当たりにする可能性だけで、勇気が出せなくなる。
結局のところ、上位存在仮説が正しかったかどうかなんてわかっていないのだ。不幸に襲われなくなったばかりの頃は解放感から断定してしまったけれど。
一度天笠くんが悪役を演じただけで私が自由になっている現状と、かつての私が悪運に襲われ続けていた過去は、どうにもそぐわない。
上位存在が私に飽きたから、と考えるのが最も妥当に思えるけれど、もしそうだとすれば、その逆だってありうるのだ。
今の私が、彼らに飽きられたから救われているのなら──今後私が変わった行動をすれば、再び彼らに巣食われてしまうかもしれない。
その可能性は否定できない。だから動けない。
すべてが神のみぞ知ることならば、私は神に知られないよう身を潜めているしかないのだ。
実際、私が不幸だったことに悲劇性がどうとか悪役がこうとかが関係していたかというと、疑わしいような気もしてくるのだ。
なにせ、今の天笠くんは別に悪役ではない。私たちはいたって没交渉を貫いている。
入学初日の顛末を知る女子は彼に白い目を向けていたけれど、私自身が彼と敵対的な行動をしたことはなかった。全然興味なんてありませんよ、という顔を自然と演じられている。
たとえば、私が受けた高校は県内でもかなり偏差値の高い進学校だ。そこに合格した生徒は同じ中学のなかでも三人しかいない。すなわち私と星埜くん、そして天笠くんだ──という話を級友に聞かされても私は、「そうなんだ〜」と軽く流すだけだった。
三年間演じ続けてきた笑顔の仮面は、強固に私に貼りついている。
高校に入るとさらに事情が変わってくる。学校内に私と天笠くんとの因縁を知る第三者は、もはやいないに等しかった。星埜くんは薄々感づいているかもしれないけれど、彼とはお互いに深入りしない関係を築いている。だから問題はない。
そうなると、天笠くんと交流をしていないこと自体が新天地では不審に見える恐れがあった。
中学以来続けていた星埜くんとの勉強会で、対外的にはある程度の目くらましができる。けれど限度があるだろう。恋人がいるからといって、他で唯一の同中勢と一切の干渉をもたないのは怪しまれる。実際には恋人がいるわけでもないのだから、なおさらのことだ。
もはやごまかしているほうが面倒だし、関係を修復してしまえばいいのではないだろうか──と考える勇気が、どうしても抱けない。
もし、天笠くんと友人に戻ることで、不幸もまた再来したら。
その可能性をはねのけて足を踏み出すことができない。
決して話したくないわけではないのだ。むしろ話したい。仲良くしたい。昔のように親しくしたいし、星埜くんという新たな友人も紹介したい。天笠くんとの交流を絶ってからどれだけ私が頑張ってきたのかを話して──褒めてほしい。認めてほしい。ゆるしてほしい。
そんな欲望は、過去の不幸を思えばあっさり押し潰されてしまう。
日常のなかでたまに天笠くんと目が合って、そのたびに彼を走る緊張感からも、互いが同じ恐怖を抱いていることが受け取れた。その程度の相互理解から状況が悪化するかもしれないと怯えた。だからどんどん互いを意識する機会が減っていって、気がつけば空気のように存在を無視してしまっていた。
そんな水面下のやりとりなんて気に留めることなく光陰は矢になって、あっという間に高校生活は二年目に突入して。
そして私は、月詠夢見と出逢った。