悪役の悪役(急)
9
「天笠彰良くん。きみは悪役を演じている。そうだよね?」
「……疑問の意味が、よくわからないが」
「つまり、演劇部の一員として悪役を演じている──」
「それは、そうだな」
「──なんてことではなく。もっと私的に、一身上の都合で、日常的に、悪役を演じている。そうだよね?」
天笠くんは、戸惑っているようだった。当然だろう。意味もわからずにひとり呼び出されたかと思えば、特に面識のない女子生徒から話しかけられて。意味のわからないことを言われたかと思いきや、意味のわかってしまうことを言い当てられて。
始めは困惑するのが当たり前のことで。けれど、その困惑が終われば、次がやってくる。
「…………おまえは」
天笠くんの目が据わる。改めて正対してみると、彼の目つきの悪さを思い知らされた。なまじ顔面が整っているせいか、険を見せるとよりいっそう怖ろしい。目の前のわたしを放ってはおけない敵だとみなしたのか、彼は声を低くする。
「おまえは──おれの、何を知っている?」
「何も知らないよ。わたしは何も、知らない。きみのことなんてわからないし、あの娘のことだって、本当の意味ではわかっていない」
わたしが知っているのは、自分のことだけだ。わたしは彼を嫌悪している。同属への嫌悪を向けている。似た者同士と知ったから、今のこの場に立っている。
「何も知らない──なら、何をしようとしている。何故ここにきた」
彼がすぐさま質問を変えてきて、わたしは思わず笑ってしまいそうになった。見事な機転だった。わたしの答えの真偽確認に時間を潰すなんてことはせず、まだ一切情報のない部分について先に尋ねてくる。実に無駄のない防衛術だ。このことが彼にとっていかに重要な、誰にも知られてはいけなかった秘密であるかを、言外に物語っている。
「何を。何故。そのどちらも、とても単純なことよ」
自分の感情について知ってしまえば、非常に簡単な結論だった。観客席を立って、舞台裏を訪れて、果てには舞台の上にあがりこんでくる理由なんて、はっきりしているではないか。
苛立ったからだ。むかついたからだ。腹が立ったからだ。
食事を終えてすぐに料理人を呼ぶように。責任者は誰だ、と怒鳴り立てるように。
なんなんだこの演技は、と──
「わたしはきみに、文句を言いにきたの」
同類を否定するために。その存在を認めないために。
呆気にとられた様子の彼に対して、わたしは立て続けに問うていく。
「とはいえ、わたしは何も知らないからね。正当な文句を言うためにある程度は質問に答えてほしい。まず、きみが悪役を演じていること。これはもう認めるよね?」
「────」
「沈黙は肯定と受け取るよ。まあ、この点についてはどちらでもいいのだけど。重要なのはここから。では、その演技をしているのはあの娘のためなのね?」
「…………」
「いや、この問いには答えられないのか。舞台裏を明かすような言葉は口に出せない。だからあの娘とも話していない。違う?」
「……ノーコメントだ」
「ふうん、別にいいけど。対象を明確にして議論する必要もないからね。わたしは汐華さんのことを話しているつもりだけれど、きみが同じ人について答えてくれるとは限らないだろうし」
「……そういうことにしておいてくれ」
「じゃあ、これが最後の事実確認だけど。きみが悪役を演じるのは、彼女のためといっても正確には──彼女を救うため、だよね」
すれすれを攻めすぎたせいか苦笑している天笠くんに対して、最も重要なことをわたしは尋ねる。これは推測だけでは手の届かない情報だ。程度問題の検証。事態がどれほど差し迫っているのか。
「そして、きみが悪役を演じること以外に彼女を救う方法はなかった。それが最善の策だった。だからきみはそうした。──それで、合っているかしら」
「…………おれは、そう思っている」
「そう」
これで、決まりだった。彼の返答が違っていれば、もしかしたらわたしは手を引いていたかもしれない。それは叶わぬ夢になった。
本当の対決は、ここからだ。
「なら、わたしはそこに文句をつける」
なぜならそれが気に入らないからだ。そんな状況を最善だと言えてしまえる彼のことが、気に入らない。
「きみが言っているのはこういうことだよね。きみひとりだけが悪役を演じることが最善だった。つまりこれは、自分以外の全員の幸福のために自分を犠牲にする作戦だ、と」
「そう受け取ってもらって構わない」
「難点があるならきちんと口にしてほしい。わたしは実際のところをまったく知らないんだから。規模も経緯も全然わかっていないの。だからたとえば──自分以外の全員、とわたしは言ったけれど。ここでいう全員とはどこまでを指すの? きみとあの娘のふたりだけなのか、それ以外も含むのか」
「……文字どおりの全員、というつもりだったが」
「全員の全とは何か、という定義を訊いているのだけれど。まさか地球の裏側に暮らす人間まで含めるつもりはないでしょう?」
「わかった、訂正しよう。おれが想定していたのは、おれと彼女の周囲に暮らしている人間、という意味での全員だ。日常のなかで互いの姿を視認する可能性がある程度に、物理的に近しい範囲内。これでいいか」
「ええ」
いたって平然とした表情で受け答えながら、わたしは得たばかりの情報を脳裏で吟味する。
彼が対処していたのがどんな状況だったのか──依然としてさっぱりわからなかった。下手に話を聞いてしまったために、なおさら霧が深くなったような感覚。自分と距離的に近しい人間に例外なく襲いかかるかもしれない恐怖、と考えていいのだろうか。
正体がますます掴めなくなった。それが歯がゆい。何を相手にしているのかもわからないままで、言葉が届くはずもなかった。焦燥感が募る──けれど。
同時に、光明も確かに見えていた。真実を知らずとも感情に訴えかけられる、そのための手掛かりが。だからわたしは、内心の苦悶などおくびにも出さず言葉を続ける。
「わたしが気に入らない点はそこにある。それは最善だ、ときみは考えているでしょう。自分を犠牲にすることで他の全員が幸福を得られるのだ、と。違う?」
「違わないな。何故って、事実としてそうなっているんだから。俺が悪役を演じ始めたことで、事態は解決していた。誰も傷つくことはなくなった。事情を知らないおまえには実感がないかもしれないが──しかしこれが事実なんだよ」
少しだけ、彼の声の調子が高まっていた。平静が保てなく、なりかけている。落ち着きが失われようとしている。
「いいえ──違う、と言わざるを得ないかな。解決なんてしていない。誰も傷ついていない、なんてことはないでしょう。だってきみは、きみ自身と、あの娘のことを無視している」
「そんなはずはない! 少なくとも彼女は救われた。脅かされることもなくなった。それは間違いなく幸福のはずだ。そして、彼女が幸せであることが──おれの幸せなんだから」
「……物理的な安全の話をしているの? 肉体的に無事ならそれでいい、とでも? 冗談じゃない。一番大切なことを見落としているでしょう」
「……見落とし?」
本当にわかっていないのか、それとも惚けただけなのか。いずれにしても、彼が一度声を荒げたことは確かだ。間違いなくわたしは、彼の弱いところを突いている──そのことを確認して一息つく。
「わたしはきみたちの関係について何も知らないけれど、それでも断言できることだってある。きみはあの娘を救おうとしたのでしょう。悪役を演じてでも、救いたいと考えたのでしょう。きみと彼女は、そういう関係だった。それほどに近しい関係だった。それなら──」
これがわたしの、第一の矢だ。
「──きみがきみ自身を犠牲にしてまであの娘を救おうとすることを、彼女が心から喜ぶはずがない」
それは、正論だった。一切隙のない、反駁の余地のない、あまりにも正しすぎるほどに正しくて──ゆえに正しくない正論だった。そんなことはわかっているのだ。自覚的に、いっそ憐憫しているかのように思われるような表情を装って、わたしはそれを口にした。
だから当然の反応が返ってくる。かろうじて激昂を抑えた、けれど怒気を隠しきれていない、押し殺したような低い声で。
「……おまえに、何がわかるっていうんだ──!」
激情に後押しされた言葉。
それを無視して。
黙殺して。
冷然と、わたしは続ける。
「別に嬉しくないわけではないでしょうね。助けてくれる。救われる。それはきっと、確かに嬉しいはず。でもそれだけではいられない。自分のために別の誰かが犠牲になる、代わりを用意することで自分だけ助かるなんてことを、心の底からは喜べないでしょう。──あの娘は、優しいから」
彼の仮面は、すっかり剥がれかけていた。息を切らしている。今にも飛びかかりたくかるほどの怒りを、懸命に押さえつけている。
その顔が見たかったのだ。
「──そこに生まれるのは罪悪感」
悪役を演じる虚構に満ちた表情ではなく、その下の素顔に。本当の天笠彰良に向けて、わたしは言葉を紡いでいく。
「罪悪感に塗れた幸福は真の幸福ではないでしょう。たとえ一度は解放されても、救われたような気になっても──いずれ自責に追いつかれる。片足を掴んだままの罪悪感が、決してあの娘を自由にしない。彼女はいつまでも、過去に縛られ続けることになった。それがきみの行いの結果。
──きみには彼女を救えなかった」
彼女の幸福は、彼の幸福と同値だったのだから。
彼は自分の幸福のために彼女を救おうとした。けれど彼女は、彼を生贄に捧げることでは幸福になれなかった。これはただ、それだけの話。
──という、わたしの妄想だった。
もちろんこれが完璧な真実だと思っているわけではないし、わたしの話がここで終わるわけでもない。思ってもいないことを言ったわけではないけれど、すべてを言葉にしたわけでもない。あくまでこの罵倒は、今後への布石だ。可能な限り情報を引き出しつつ、状況を確認しながら──彼の本音を引き出すための荒療治である。
ゆえにここからが正念場。第二幕は、怒りが臨界点に達したことで逆に頭が冷えたらしい天笠くんの言葉から始まる。
「随分と言いたい放題言ってくれたようだが……おまえのほうこそ重要なことをひとつ見落としているんじゃないのか。つまりおまえは、結局実際に何が起きていたのかを知らないだろう──!」
「…………」
沈黙を返すことでわたしは続きを促した。実際、それは本当のことなのだ。わたしは何も知らない。現実味を感じていない。実感を得られていない。
「部外者でしかないおまえに好き勝手言われる筋合いはない。おれの選択が間違っていただなんて、そんなことを言わせるわけにはいかない。それだけは許せない。だっておれには。おれたちには、こうするしかなかったんだから──」
悔恨と悲痛と思しき感情に顔を歪める天笠くんに対して、わたしは何も言えなかった。その心情に共感できなかった。すべて、彼の言うとおりだったから。
呆れるほどにわたしは事情を知らない。過去の彼らがどれほどの手詰まりにあったかなんて、これっぽっちもわからないのだ。天笠くんと汐華さんが感じた絶望を想像することすらできやしない。
でも。けれど。
「他に手があったならそうしたさ。おれだって、できることならそうしたかった。でも無理なんだ。どうすることもできなかった。どうすればいいかわからなかった。本当の救いなんてものがあるとは信じられなかった。唯一、ただひとつだけ思い浮かんだ可能性がこの方法だった。だからそれに縋って、おれは悪役を演じた」
何も知らないままながらに、わたしは辿り着いていた。
「──これでおれたちは完璧に救われたんだと、信じるしかなかった」
今の自分は幸せなのだと思い込むしかなかったのだ、と。
そのことを認めさせることこそ、わたしの狙いだった。ここまでが必要条件だ。そうしなければならなかった。
自分はすでに救われたと思っている人間を、救うことなんてできないのだから。
ゆえに。
「ならばわたしは、そこに文句をつけましょう。──その甘さこそがきみの最大の失敗だったのだ、と」
「なん、だと──?」
わたしは彼を救わない。
あくまでも徹底的に、責め続ける。
「そう、甘いのよ。何もかも甘すぎる。反吐が出るほどに甘い。完全な救いが得られないなら自分を犠牲にすればいいなんて──その発想に腹が立つ」
「だが──仕方がなかったんだ」
目を伏せる彼を、わたしは嘲るように見つめる。嘲るふりをする。嘲笑を装って──本心を覆い隠して。
「何かを犠牲にしなければ本当の幸福は得られない。そういうものなんだ」
彼はそう言って苦笑する。その表情が誰かと重なった。自分自身の未来を諦めたみたいな目つきだった。そうすることしかできない、という言いわけに塗り固められた笑い顔だった。その印象が、鏡で見たわたしと似ている気がした。
だから、
「──ふざけないで。その妥協こそが最悪なの。諦観こそが罪業なのよ」
わたしが放つ第二の矢は、彼とわたしをひとまとめに刺し貫く。
「本気で本当に幸福になりたいのなら──誰かを犠牲にしなければ幸福になれない、なんて定説そのものを犠牲にして幸福を勝ち取ってしまえばいい」
そのくらいの覚悟がないといけないでしょう、とわたしは暴論を吐いた。
「犠牲が存在すれば幸福の存在も認めてくれるシステムなんでしょう? なら、そのシステム自体を犠牲として入力してもいいじゃない」
「……詭弁だろう」
「詭弁も弁。つまり論理よ」
「……そうか」
天笠くんは力なく笑う。そんな彼をわたしは嗤う。嘲弄の表情を取り繕う。
「……最後まで運命と戦う覚悟がなかった、か。中途半端なところで次善の策に走ってしまったから、こうして彼女と話すことすらできないどん詰まりにまできてしまった。これもすべてはおれの覚悟が足りなかったせいだ、と」
「そうね」
心にもないことを言った。
本当に幸福になる覚悟。絶対に本物を勝ち取る覚悟。
そんなものを抱いていないのは、わたしのほうだったのに。
「参ったな……反論する気にもなれない」
最初の警戒心も先ほどの怒りもすっかり薄れて、今の天笠くんは打ちひしがれている。
そう仕組んだのはわたしだ。そうなるように話の流れを誘導した。こうすれば彼の心情はこのように推移するだろうと、手に取るようにわかっていた。
──なぜなら、わたしと彼は似ているからだ。
もちろん、本質的な部分で決定的に異なることはわかっている。何度も確認したように、彼が直面した絶望を、わたしはまったく理解していないからだ。
その絶望の大きさをどれほどに見積もったとしても、わたしが経験した挫折とは比べものにならないだろう。彼に比べたらわたしのそれは、もはや挫折とすら呼べないに違いない。
だって、ただ他人との会話が苦手だっただけだ。その程度で何かを諦めて、その程度で未来を悲観して、現実から逃げて読書に没頭した。あまりに規模が小さすぎて呆れてしまう。
その矮小さがずっと嫌だった。
虚構と現実との区別に敏感だったのも、始まりが現実逃避でしかなかったことから目を逸らすためなのだ。たとえ今のわたしが本当に心から物語を愛していたとしても、過去のわたしが自分の逃避に虚構を利用したという事実は失われない。
そのことに気づいて、気づかないふりをして、現実逃避のなかで現実逃避する自分から逃避して。そんなくだらない自分自身が心底嫌で──えっと、何の話だったか。
そう、彼とわたしの話だ。わたしの卑小さなんて嫌なほど理解している。それに対して彼が相対した現実がどれほど苦しいものだったのかも、知らないなりに理解している。そんな彼と自分を比較することのおこがましさなんて、もはや言葉にするまでもないだろう。
でも。だけど。
それでも、やはりわたしは、彼とどこか似ている。
自分のことから目を逸らしているわたしでも、直感的にわかってしまうくらいに。似ていたから同属として嫌悪したのだ。
まるで彼は、自分の人生を諦めているわたしを鏡に映して、見せつけてくるみたいだったから。
物語を楽しめれば幸せだ、とわたしは思っていた。
彼女を救えたなら幸せだ、と彼は先刻言っていた。
そう思わなければ生きていけなかった。
今の自分を、妥協している自分を、肯定しなければ立ってもいられない。
だって、諦めないことは怖いことだ。つらくて、しんどくて、おそろしいことだ。どんな未来が待ち受けていたとしても希望を信じて歩み続ける、なんて──そんなことは、わたしには無理だ。昔の天笠くんにも、無理だったのだろう。
だからわたしたちは、諦めることを肯定しなければならなかったのだ。わたしは物語を理由にして。彼は彼女の幸福を理由にして。
──けれど。
同時にわたしは、諦めないことに、憧れてもいるのだ。自分にはできないと、知っているから焦がれてしまう。いつだって自分の信じる方向へと進んでゆく、物語の主人公に。主役に。英雄に。星埜恒一という少年に。汐華知佳という少女に。自分の人生を、誇れるように生きていくような在り方に憧れる。わたし自身には不可能だからこそなおさら、そういう生き方をしている、そういうふうにしか生きられない不器用な他人が愛しく思えてしまう。
そして。
そして天笠彰良もきっと、そうすることができるはずの人間なのだ。
なぜなら彼は、今やすっかり小説と物語に溺れ果てたわたしが、小説同様に奇なる存在として目をつけた人なのだから。そもそも、ただ自分に似ているだけの人間に興味を抱くだろうか。人生を生きながらどこか諦めている輩なんて、いくらでもいる。誇りも拘りもなくただ今が楽しければそれでいい、なんて享楽主義も数えきれないだろう。それでもわたしは彼を意識したのだ。星埜くんや、あの汐華さんと、同格の存在として認識した。
だからわたしは──
「……結局おまえはどうしてこんな話をしにきたんだ」
と、そこで現実に引き戻された。わたしが長らく思索に耽ってしまったからか、天笠くんは訝しげな表情をしている。そこに先ほどまでの虚無感はそれほど窺えないところを見るに、ある程度は自分で整理をつけたという感じだろうか。
それでいい。それでこそ、というものだ。
「まさかことごとくおれのことを責め立てたいだけ罵倒するため、というわけでもないだろう」
「……まあ、それでもいいんだけど」
思惑はさておき、事実上やったことの半分はそれと相違ないと思う。半分というのは過小評価だろうか。六、七割は痛罵のためだった、というべきかもしれない。
「じゃあ、それを話す前に最後の確認をしておこうか。天笠くん。きみが悪役を演じたのは、きみとあの娘と、そしてその周囲の人間のためだった。今でもその認識に違いはないね?」
「……まあな。仮にこの行動が、おれに覚悟がなくて逃げた結果だったとしても、それを認めたとしても、根幹にあった動機が揺らぐわけじゃない」
「その全員のために──正確にはきみ以外の全員の幸福のために、きみは悪役として犠牲になったというわけだ。けれどあの娘はそれを喜ばない。その点についてはどうかな?」
「それは──正直に言ってしまえば、今更の話だ。結局、それを知ったところでどうしようもない。どうにかすることは無理だと、おれは思ってしまっている。それでも彼女が幸福ではないのだとしたら……幸福ではないとしても、このほうがましだ、と言うしかないな」
「このほうがまし、というのは──きみが悪役を演じる前後での変化の話?」
「そうだ。実際のところ、そのことで変化が及んだのはおれと彼女のふたりだけだからな。他の連中は誰もこんなことを知らない。彼女は相対的には幸福だと考えられる。おれ自身のことは──まあ、どうでもいい」
「……そう」
わたしはこっそりと心中でほくそ笑んだ。これでもう決着はついたようなものだった。彼がそういう人間だったからだ。自分と彼女のことだけではなく、周囲の幸福まで考慮してしまうような人間だったからこそ。
「なら──こういうのはどうだろう」
第三の──そして最後の矢を、わたしは口にする。
「わたしがきみを見ている」
「────」
意味がわからない。その感情が直接顔に出たような天笠くんに対して、わたしは笑う。今度こそ本心から。一切隠すことなく、にやにやと笑ってみせる。
「きみが悪役を演じたことで何が変わったか、という話だよ。ほとんどの人はそれを知らないから無関係。きみのことはきみ自身が考慮から外している。あの娘については、真に幸福になったとはいえないけれど、まあどちらかといえば良い影響を与えたという感じかな。どちらかといえば、だけどね。──けれどわたしは違う」
天笠くん自身が言っていたことを再度述べていく。これはすべて否定しようのない事実だ。彼が自分で認めている論拠を拒めるはずもない。だから彼は、もう詰んでいる。
「わたしは迷惑を被っているんだよ。きみが悪役を演じていることで酷く不愉快な気分になった。これはどちらかといえばなんてものじゃない。間違いなく悪影響だ。紛れもなく不幸だよ。だからこうして文句まで言いにくる羽目になってしまった。いったいどう責任をとってくれるんだい?」
「は────?」
口をあんぐりと開けた。すっかり混乱しきった様子の天笠くんにわたしの笑みはますます深くなっていく。実際に文句をつけたこととわたしが感じた不愉快とは異なっているのだけれど、そこは別にいいだろう。彼がわたしと似ているせいで自己嫌悪が激しくなりました、なんてわざわざ言ってやる必要はあるまい。
「おっと、わたしが感じた不幸よりもあの娘が得た相対的幸福のほうが大きいから、なんて詭弁が通用するとは思わないほうがいい。そもそも彼女はきみが犠牲になることを望んではいないんだから。きみが悪役を演じるのをやめればわたしも彼女も幸せ。完璧な論法だろう?」
「な────おまえはいったい、何が望みなんだ……?」
その問いを待っていたのだ。
「簡単な話さ──きみはただ、その過酷な運命に立ち向かうだけでいい」
そう言いながら──わたしは笑みを浮かべる。
邪悪な笑みを。
外道な笑みを。
醜悪な嘲笑を、精一杯に装って。
「わたしはきみが立ち止まることを許さない。諦めることを認めない。限界なんて超えてしまうくらいの努力を、血反吐を、尽力を、苦労を、一切の躊躇も遠慮も容赦もなく要求する。──そんな、|悪役《
きみ》の悪役になるよ」
「────」
「実際、きみがすべての可能性を見据えたうえで諦めた、というのも昔の話だろう? 結局わたしはそれがどういう状況だったのか知らないんだけれど──少なくとも今年でないのは確かだよね。一年前? 二年以上前? 中学生の頃? それとも小学校時代かな? どうせならなるべく過去のことであってくれれば、当時とはかなり環境も違うだろうし希望が見えてくる。──嬲りがいがあるというものじゃないか」
「────」
「まあ、どちらにしてもきみに選択権はないよ。きみが悪役を演じることがどれほど肯定できないものであるかは、きみ自身の言葉で証明されている。きみにはもはや、今度こそ本当に彼女を救ってみせる以外の術は残されていない。たとえそれがどれほど不可能なように思えたとしても。ありえない可能性を排除したあとに残るものは、どれほどありそうにないことであっても真実でしかないのだから」
「────…………おまえ」
長い長い沈黙の末に、困惑と呆然を消化して顔を上げたであろう天笠くんは──なんとも表現しようのない表情をしていた。
端的にいえばそれは笑顔なのだけれど、しかしそこに込められた情動は計り知れない。
わたしの身勝手に対する怒りがあって、再び誰かを危険に晒してしまうかもしれない哀しみがあって、本当の意味で彼女を救える可能性への喜びがあって──ずっと背負い続けてきた重荷を肩から降ろすことの楽さがあって。
決して一言では表現しきれないさまざまな感情と、未来に待ち受ける苦難に対する悲愴な覚悟を秘めた笑い顔で、天笠くんは言った。
「おまえ──ひどい悪役だな」
そうして、舞台の幕が降りる。
10
──結局のところ。
それで何が変わったのかといえば、別にたいした変化が生じるわけでもないのだった。
一度舞台の上に立ったとはいえ、わたしなんていうのは所詮端役である。主役どころか脇役とすら呼べやしないモブのなかのモブである。そんなわたしがちょっと口を挟んだくらいで状況が変わるかといえば、決して変わらないのだと言わざるをえない。
依然として。
天笠くんは今日も悪役の仮面を被っているし。
汐華さんはわたしと友人の距離を保っている。
たったの一日で物語が劇的に変化する、なんてことはまったくなかった。
そもそもの話、わたしが天笠くんに好き勝手言ったことだって正しいとは限らない。あれはあくまでわたしの考えだから。
繰り返し確認したこの枕詞にもそろそろ飽きてきたけれど──わたしは核心を何も知らない。
後日談だけを読んで本編に文句を言う、そんな愚かさがあの日のわたしだった。
たとえば天笠くんが悪役を演じたこと。わたしはそれを自分勝手に否定して罵倒したけれど、実際には当時の彼が選べる最善策だった、という可能性だってある。彼が諦めたことこそが彼と彼女を救えたのだ、ということだってあるだろう。下手に中途半端な不屈を貫いてしまったら最悪の事態に陥っていた……かもしれない。
もちろん断定できない部分は推量にとどめたつもりでいるし、天笠くんの反応を受けて適宜修正を加えていってはいたけれど、真実にはほど遠いだろう。
だから。
それでも口を挟みたかったというのは、つまるところわたしの──読者の傲慢に過ぎないのだ。
あれは決して正義ではない。いかなる価値基準に則っても正しいとはいえない。そんなことはわかっていて、そのうえで干渉せずにはいられなかったという、単なる傲慢であり身勝手であり──すなわち悪である。そしてその悪を自覚的に行動に移したわたしは、間違いなく悪役であると言ってしまって過言ではないだろう──なんて。
そんなことを考える。これは妄想かもしれない。冗談かもしれない。虚構かもしれない。
結局のところ、どうでもいいことなのだ。
どのような意図で語られた思考であろうと構わない。
妄想も冗談も虚構も現実と区別せずに楽しむからこその読書家であり、物語好きなのだから。
ゆえにわたしは、すでに自分の問題との決着をつけている。どんな過去であろうと気にはしないと決めた。
たとえ本を読み始めた発端が現実逃避だったとしても、今のわたしが本心から物語を愛していることに違いはないと思う。だって物語と現実との区別をつけていないのだから。物語と同様に現実を楽しめることは、現実と同様に物語を扱っていることに他ならない。
現実に現実逃避はできないのだから、考えてもどうしようもないことだ。
そして、それは汐華さんについても同じことだった。彼女にどのような過去があったのかはもはや本質的ではない。彼女がどんな人間だったとしても、彼女がかつて淑女を演じ始めたとしても、今の彼女が汐華知佳であることに変わりはない。どれほど巧みな演技をしたところでそこにいるのは演者本人でしかないと、わたしは知っている。誰もが知っている。そのことを承知で演じられる虚構を楽しむのが演劇なのかもしれない。それならわたしは一生演劇を好きにはならないかもしれないけれど。
何を演じたとしても汐華さんは汐華さんだと、今のわたしには断言できるから。
けれど天笠くんについては話が別だ。彼には決して、そのままでいいなどと言えやしない。とっとと自分を変えてしまえと、わたしは嗤いながら背中を押すだろう。同属嫌悪だとか似た者同士だとか関係なく、今の彼を認められはしない。
だって彼は、悪役に向いていないのだから。
下手に演技力が高いからなおさらよくなかったのだ。自分以外全員の命を背負っていたがゆえの真剣さもあるだろうし、単純な経験値の問題もあるだろうけれど、中途半端に演技力ばかりがあったせいで悪役を演じることができてしまった。
でも、彼に悪役は似合わない。適性がない。
状況が彼にそう強いてしまったから演じているだけのことで、天笠くんに向いているのはもっと別の役柄だ。
わたしが口を挟んだ一番の理由も、結局はそこにあったのかもしれない。天笠くんが好きで悪役を演じている分には一向に構わないのだ。けれど、それがみんなのためだとか自分の幸せだとか──そう思いこむしかなかったから、というだけの理由で悪役を演じるのを見れば腹が立つ。適性のない悪役を天職だと思っているような、その無自覚さに苛立つのだ。
だからわざわざ背中を押した。
代わりにわたしが悪役を担ってでも、だ。
わたしについては、それで構わないのだ。わたしは生きることに向いていないから。他人の物語を楽しむだけで満足できる安い人間に、悪役を演じたところで不都合はない。けれど彼は違う。彼が生きることに向いている、とまでは思わないけれど、少なくとも悪役に向いていないのは確かだ。
だから──さっさとヒーローになってしまえ、と。
そんなことを思われているとも知らず、今日も天笠くんは汐華さんとの接触を絶っている。不満はあるけれど、仕方がないのかもしれない、とも思う。拗れた関係がそう早く元に戻るはずもないし、彼にも心の準備が要るだろう。だから今は、あの演劇だけで我慢してやることにする。
数日前。文化祭の出し物の演劇で、彼と彼女は、久方ぶりの会話を交わしていた。たとえそれが悪役とヒロインという立ち位置であっても、それでも久しぶりに話したふたりは、幸せそうな顔をしていた。幸せだったはずだ。そうであってほしい、と思う。
今はこれでいい。バッドエンドが確定していなければ充分だ。終わっていない限り、終わり方はいくらでも変えられる──終わるまでは終わらない。彼らの物語がハッピーエンドを迎えるその日を、わたしは楽しみに待ち続けている。
事実に小説よりも奇なる点があるとすれば。
それは自分の行動によって展開を変えられることかもしれない、とわたしは思うのだった。