悪役の悪役(序)
その日の情景は、どういうわけか心に残っている。
昨年経験した、高校生活初めての文化祭。前夜祭と称して全校生徒の前で行われたパフォーマンスの、そのひとつが演劇だった。
とはいえ、わたしはそれほど三次元の人間に興味を抱いていなかった。実写のドラマにしても演劇にしても、どれほど巧みな演技をしたところで登場人物の容姿は演者のままである。そのことが苦手だったのだ。
人は見た目がすべてだ、とはあまり思いたくない。けれど、外見が比較的重要な役割を果たしていることもまた事実。もちろん役者の容貌を楽しむ客層が存在することも知っている。でも、少なくともわたしは、そういう楽しみ方は物語に対して不誠実ではないかと思うのだ。
物語を──虚構を楽しむのならば、可能な限り余計な現実を排したうえで楽しみたい。
だから、あくまで個人の一意見だけれど、わたしは演劇というものをあまり好ましく思っていない。当然の帰結として、彼ら演劇部の興行にも関心を向けていなかった。
その証左にわたしは、一年前に観劇したその題目を覚えていない。どれほどの長さの、どんな主題を提示した、どういう劇だったのか。これっぽっちも記憶に刻むことなく、各場面で話の流れを漠然と捉えながら、ただぼんやりと時間が流れるのを待っていた。
でも。
それでもなぜか、彼のことだけがはっきりと印象に残っている。
主人公の前に立ち塞がるその姿。ヒロインの希望を閉ざしていくその振る舞い。主役へと向ける憐れむような目つき。彼らを嘲笑う冷酷な表情。
決して、彼の演技が素晴らしく良かったというわけではない。別に下手なわけでもなかったけれど、格別に賞賛するほどでもない。演じていた内容だってありふれていたはずだ。彼に意識を向ける特別な理由はなかった。──それなのに。
彼はまさに──どうしようもなく悪役なのだ、と。
そんな感覚が、頭を離れなかった。
1
わたしは生きることに向いていない。
そう、自覚するようになったのはいつだろう。気がつけばそんなことを考えていたように思う。
どう向いていないかって、会話が絶望的に苦手なのだ。相手に興味をもてない。興味のない相手と話すようなことがない。だから話さない。すると自然に会話の技術は衰えていく。そんな繰り返しがあった。苦手意識が生まれるのも頷ける。
普通ならそのあたりで現状に危機感を覚えるのかもしれないけれど、残念なことにわたしの関心はまったく別のほうへと向いていた。
本を読むことが、好きだったのだ。
自分ではない誰かの人生を思い描くことが楽しい。自分の人生が行き着く先を考えることは面白くない。卵と鶏の関係性。きっとどちらが先ということもなく、それらの価値観は同時にわたしに息づいたのだと思う。
ジャンルに拘ることもなく、さまざまな本を読み漁った。小説という媒体には飽き足らず他にも手を出してみたが、最終的には文字媒体という原点に回帰することになった。
絵や映像はわたしの肌に合わなかったのだ。
目で実際に捉えた瞬間、その光景は想像できないものではなくなってしまう。ここではないどこかへの憧憬、というのは過言だろうけれど。決して想像できないものを想像する矛盾に憧れていたのかもしれない。
とはいっても、小説でないからといって楽しめないわけでもないのだ。文章以外を楽しむ経験を蓄えたことは、わたしにとってある種の転換点だったのだと思う。
本を読んでばかりのわたしは、現実との関わりを忘れていた。けれどわたしは、少しばかり本を読みすぎた。飽きたというわけではなく、慣れてしまったのだろう。食べ慣れていないものに新たな刺激を求める美食家のように、わたしは現実へと目を向けるようになった。
事実は小説より奇なり、という言葉は真でも偽でもない。小説と同じくらいに面白い事実だってあるし、事実のほうがまだマシだと思わされるような、つまらない小説もある。
場合による、というか、主語と目的語が大きいのだ。
どれほど奇であるかを定量化してみれば、一定の基準を超えて小説より奇なる事実も存在する。この命題は紛れもなく真だろう。重要なのは、そのような事実が現前している状況といかに遭遇するか、ということである。
何が言いたいのかといえば、これがわたしの現実に対する態度である、ということだ。
より面白い小説を追い求めて本を読み漁るように、より奇なる現実に巡り会うことを祈って日々を生きている。決して自分の人生なんかのためではなく、自分の目の前に現れるかもしれない奇妙な現実のために。徹底した傍観者目線を貫いていくのだ。現実そのものからは一歩引いた読者の視点で、好奇と興味の目を無遠慮に注いでいる。
意識して注意を向けてみれば、現実にも物語のような存在はごろごろと転がっている。
たとえば、今わたしが所属しているクラスを見てみよう。高校二年生──思春期も終盤に差し掛かり、迫りくる大学受験に足を取られるよりも早く青春しようと誰も彼もが足掻く時期である。たぶん、きっと、おそらく。
残念ながらわたしはそういうものへの興味が薄いのだけれど、しかしそれ以上に興味深い素材をいくつか発見していた。
まずは星埜恒一。──彼は主人公である。主役、ヒーロー、英雄、中心人物……言い方はなんでもいいのだけれど、端的にそれらの言葉で表現してしまえるほどの才覚を備えている。勉強ができてスポーツ万能で容姿も整っていながら驕らず誰もに優しい人格者、と一切の隙がない。
しかし最も重要なのは、彼が刑事の息子であるという点だ。最重要項目である。なにせわたしは推理小説も好きなのだ。
普段から父親に事件の話を聞いているのだろうかいや実際に現場を訪れている可能性もあるし万事に優れた彼のことだから下手すると事件解決に携わっていることすらありうる明晰な頭脳によって難事件を解決に導いていたり脳細胞が灰色だったりするのだろうか……思考が逸れてしまった。
ともあれ、どんなジャンルの物語であろうと主役を張れるほどの風格を見せているのが彼という人間なのだ。
そしてこのクラスのヒーローが彼であるのなら、ヒロインが彼女であることに疑いはないと思う。
汐華知佳。わたしに友人と呼べる存在がいるとすれば、唯一そう称しうるのが彼女である。
尊敬している。
信頼している、と言ってもいい。
彼女のどこがわたしにそう思わしめているのか、といえば……うまく表現するのが難しいが、おそらく彼女の在り方そのものだと思う。
生き方が好きだ。
彼女は自分の人生というものに対してこれ以上なく自覚的で、彼女が誇れる自分自身で在れるように、日々を丁寧に誠実に生きている、ような気がする。少なくともその精神性は、クラスの他の女子とは一線を画していると思う。
彼女は誰よりも真剣に人生を生きている。そしてそれは、わたしが真っ先に諦めて投げだしたものだ。けれど、見限って打ち捨てたからといって、その価値を認めていないわけではない。だからわたしは彼女の在りようを尊重したいと思っている。
だから、というだけではもちろんないけれど。
顔も好きだ。毎日欠かさず手入れされていることが伺える綺麗な艶の黒髪、同様にきちんと整えられている肌、それでいて矜持や傲慢が表情に浮かぶこともなく、穏やかな微笑から性格が滲んでいる顔。
すべてが好きだ。愛好している。愛しているわけではないけれど、非常に好みではある。顔立ちではなくその雰囲気が。もちろん顔立ちそのものも端正だし、そのうえ頭も性格も良いし、加えて顔が良い。顔がよいのである。普段は優しげな表情を冷厳に歪めて叱咤されたくなる……いやならない。なりません。またもや思考が道に迷ってしまった。
そんな彼女は、どういうわけかわたしのことを好いてくれているらしい。いや好かれていると思うのは傲慢だろうか。肯定されているというか、承認されているというか、小指の先ほどには好意を分け与えてくださっているというか、そんな感じである。
ときどき彼女が自分に意識を割いてくれている現実が信じられなくなったりもするけれど、少なくともクラスの他の有象無象よりは好感度が高いと思う。
別に自信過剰ではない。態度だって多少気安いし。その気安さが無関心の故だとしたら立ち直れなくなるけれどたぶんそんなことはないと思う考えたくない。
かといってわたしのような塵芥が好きだというのなら、それはそれで解釈違いになるのだけれど。難儀な人生である。まあ、なんだかんだで良い友人関係を築けているのではないだろうか。そう思うことにしよう。
本題の前にずいぶん長々と考え続けてしまったようにも思うが、ともあれ今回の議題は最後のひとりである。
天笠彰良。
顔で評価するのなら、学年でも星埜くんに比肩するほど顔面偏差値の高い数人に含まれるだろう。
目つきが悪いことで若干印象も悪いが、しかしそれがいいという層も少なくないと聞く。
態度にも険があり、そのことが悪感情に繋がるかもしれない。しかしその険は意図的に演出しているものだという説もあるようで、ごく稀に垣間見える素と比較すれば気にならないらしい。ギャップがどうこうというやつなのだろう。
総合的に見て、王道を征く星埜くんと同程度に学年で人気を集めている、と推測される男子。それが彼、天笠彰良なのである。
……というのはすべて他の女子の噂話からもれ聞こえてきた情報である。決して、決して、わたしがそんな胡乱な思考をしているわけではない。いや胡乱であるという点では大差ないかもしれないが、あんな連中ほどに色惚けしてはいないと確言しておきたい。そもそもわたしは三次元にそこまで興味をもっていないし、色恋などは以ての外だ。
後にも先にも、未来永劫、わたしが彼に抱くのは、間違っても恋愛感情ではない。
といっても、世間の風潮すべてに反抗しているというわけでもないのだ。彼女たちの感想にもいくらか頷けるところはあるし、学年でそれなりの人気が生まれることに納得できる程度の魅力はあるのだろう。全面的に同意するわけではないが、理屈で理解することはできる。
少なくとも顔が良いことは確かだ。
確かに顔は良いのだ。
しかしそこは要点ではない。
顔面が目の保養になるからといって、他の女子のように惚れた腫れたの騒ぎになるわけではない。わたしが彼に抱く感情は、ずっと変わっていないのだ。一年前のあの日から。同じクラスになってから数ヶ月ほど経ったけれども、そのままで。
依然として。
わたしは彼のことを、どういうわけか、どうしようもなく、悪役だと思っている。
2
このクラスの体育の授業は、そこそこ変わっていると思う。
それは学校単位の異常性ではなく学級単位の珍しさだ。別に体制の側が奇妙な校風を強いているということもなく、教育課程が他と違っているわけではないのだけれど、気がつけば授業風景は風変わりなものになっていた。
発端は初回の授業にあった。年度始めだからかその日はかなり自由度が高く、教員が自己紹介と授業方針の説明を手早く済ませ、あとは自由ということになった。
そこで喜んだのは男子たちである。
高校生活二年目に突入し、最初は異界のように感じたであろう校内にすっかり慣れ親しんだ彼らは、一部の例外を除けば遊びに飢えている。限りある自由時間を意のままに費やそうと目論む男子たちの間で議論が始まったのは自然な流れだった。いかなる種目で遊戯に励むかという話しあい──そこで登場したのが天笠くんである。
彼の手腕は見事なものだった。ときには思春期真っ只中の少年たちの共感を掴み、ときには彼らの反感を煽り、あるいは運動の苦手な男子に意見を口にするよう仕向けたり、多数派も少数派も思いのままに操りながら、驚くべき速度で議論を煮詰めていき──いつの間にか、そこには対立構造が生まれていた。
片や我らが主人公たる星埜くんを筆頭とし、彼に親しい男子たちを中心とする集団。片やその星埜くんを目の仇にする者たち──青春の敗残者であり、辛酸を舐め続けた者であり、勇敢にも英雄に反旗を翻す勇士たちである。そして先頭には天笠くんが、皮肉げに口を歪めて立っている。
そうして試合が始まった。持てる者と持たざる者、あるいは人生の充実した者とそうでない者、あるいは勝利者と敗北者による、己の誇りを懸けた戦い。この先幾度となく繰り返されることになる、伝説の死闘の幕開けであった。
……というのは冗談である。
いや、現実に生じたできごとの描写としてはそれほど外してはいないのだ。ただその解釈の大部分がわたし個人の認識に基づいていた、というだけの話であり。
事実として。
初回の授業は後半が自由時間になった。
男子たちはその時間をどのスポーツで過ごすか話しあった。
天笠くんが主導した結果、議論は紛糾することなく速やかに終結した。
チーム分けという対立構造が生じるのはスポーツである以上仕方がないことだし、一方に星埜くんとその友人が集まるのは仲良しならば自然で、実力の均衡を考えると天笠くんがもう一方に回るのも当然の帰結である。クラス分けから間もない時期にモテ男への反感もなにもあるまい。
こうして振り返ってみても、あの日に起きていたのは至って普通な高校生活の一風景である。誰かが悪意に晒されたということもないし、試合中もほとんどの男子が楽しそうにしていた。もちろん例外がなかったわけではない。しかし運動を苦手とする生徒がその時間を楽しめないのは体育という科目上避けられない犠牲であり、それもまた一興というものだろう。繰り返すが、それは至って普通の授業風景だった。
だからこそ、わたしは疑わしく思うのだ。その疑いが先入観に基づくことは百も承知で。一歩間違えれば冤罪になりかねないことはわかっているけれど。
それでも、あの日の対立構造に天笠くんの意思を読み取らずにはいられない。
いや、意思というよりは戦略というべきか──あるいは演技というべきか。議論の流れを握ることで周囲から一段上の舞台に上がりつつ、その場の正義である星埜くんの反対に立つことで、自身を悪役として位置づけたのではないか。クラス分けから間もない時期にそう印象づけてしまえば、以降は適宜認識を補正していけばいいだけなのだから楽な話だろう。
そんな空想を、どうしても取り消せない。
何よりもその表情である。議論を主導し試合に臨んだ彼が終始浮かべていた、その笑顔。一見すると爽やかな微笑のようでいて、見方を変えれば嘲笑のようにも受け取れる。級友たちを掌の上で転がす黒幕のような、いかにもわざとらしい笑み。そのわざとらしさが想像させるのは、彼のすべてが演技なのではないかという妄想だ。
そもそもの話からすれば、学年での彼の評判を踏まえてみても明らかだろう。
目つきが悪い/そこがいい。
態度が悪い/根は優しい。
誰も天笠くんのことを、根っこから悪い人間だとは考えていないのだ。
天笠彰良は決して悪ではない。けれど悪を演じている。偽悪。偽物の悪意。つまるところ──悪役なのである。
なんてくだらないことを考えながら、わたしはその日の体育を眺めていた。
このクラスの体育の授業は、妙に自由時間が多い。教育課程に則った活動を欠かしているわけではないのだが、それ以上に生徒の自主性を尊重している。
教員の指定する種目と生徒が遊べる時間が半々くらいだろうか。理由はわからない。初回の授業で生徒たちの楽しげな姿に先生が心打たれたのか。星埜くんに汐華さんに天笠くんという、学年でも最上級に優秀な生徒が揃い踏みしているからなのか。はたまたどこぞの悪役気取りが裏で手を回しているのか。
なんて、最後のは与太話だけれど。
唯一わかっているのは、そのことを生徒たちが大いに歓迎しているということだ。
それはそうだろう。運動好きな生徒は自分の好みなスポーツができて満足、運動の苦手な生徒は義務的に体を動かす必要がなくてありがたい。もちろんわたしは後者に属している。生徒からの好感度を着実に高めている点で、教員のほうも得しているかもしれない。
それはともかく、こうしてわたしたちは他のクラスよりも少し自由な特権を得ているのだった。
本日の題目はどうやらバスケットボールであるらしい。たとえどんな競技になろうと一切参加するつもりのないわたしがぼんやりと視線を向ける先で、いつものように二項対立が生まれていた。
星埜恒一と天笠彰良。クラスにおける陽と陰。
男子二チームに分かれたそれぞれの主将を務めるらしき彼らは、例のごとく火花を散らしていた。というのは大げさで、実際にはなあなあにやっていっていた。まあそんなものである。温厚な星埜くんに悪意を向けたところで自分の株が下がるだけだと、天笠くんにもわかっているのだろう。
周囲の、主に女子からの声援に応えて、星埜くんが手を振り返す。ますます騒がしくなる黄色い声。それを受けた天笠くんが肩を竦める素ぶりを見せて、彼のチームがどっと沸く。
星埜くん自身もまた少し苦笑している、いつもの光景だった。
通過儀礼というか様式美というか。変わらないものがあるというのはよいことだなあ、と感慨にふけってみたりするわたしの横から、がんばれー、という声があがって少し驚く。隣を見ると笑顔の汐華さんが座っていて、まあ可愛いので許そうという気になった。透き通った彼女の声は喧騒のなかでもよく響くのか、気づいて振り返った星埜くんは笑って手を挙げた。その光景に嫉妬したのか一部女子の殺気が向けられて、巻き添えになったわたしは身を固くする。
ちょうどそのとき試合が始まってくれたので、彼女たちの注意はすぐにそちらへ流された。ほっと一息つく。そういう女子ばかりではないとわかってはいるのだけれど、醜悪な負の感情というものはやはり苦手だ。特に生身の人間が向けてくるそれは。
汐華さんに対するクラス内の印象は、綺麗に三分されていると言っていい。すなわち正か負か無である。それは正負の定義からいって自明かもしれないけれど、これほど鮮やかに分裂した傾向を見せるのは珍しいのではなかろうか。
彼女に負の感情を向けるのは、主に女子であり、恋に恋する人間である。あるいは自己評価の思いあがった人間である。そういう連中は自分が星埜くんと親しくなれる夢物語に期待し、そしてその可能性を奪っていく汐華さんに嫉妬する。
対して彼女に正の感情を向けるのは、男子はさておき女子では恋に恋しない人、あるいは身のほどをわきまえた人である。そういう人種は汐華さんも星埜くんも等しく天上人とみなしている。それゆえに、彼女たちが親しくしているとしても、自分とは縁遠い場所での人間関係だと思って素直に楽しめるのだ。
では、彼女に無の感情を向けるのは……。
そこまで考えたあたりで思索に飽きたわたしは考察を手放した。汐華さんに関することだから無為ではないのだけれど、興味のない人間について考えられるほどわたしの時間的資源は多くない。そんなことを無駄に思考するよりも、彼女と雑談しているほうが遥かに有意義だ。
というわけでわたしは、汐華知佳という友人と歓談しながら非常に楽しい数分を過ごしたのだった。
そのこと自体は素晴らしく意義のあることで。
けれど直後に、より印象深いできごとが発生してしまったのだ。
試合は接戦の末、星埜くんのチームが僅差で制していた。彼の友人たちは歓喜を叫び、対陣の男子たちは肩を落とす。星埜くん自身は達成感に満ちた表情を浮かべながら、応援の礼なのか汐華さんのほうへと拳を掲げてみせる。彼女もまた笑顔で手を振り返し、そして例のごとく一部女子の視線が殺到する。試合前の二の舞を避けるべく彼女から少し身を離していたわたしは、青春そのものの光景から目を背けて視線をさまよわせる。
一瞬の戦慄。
全身の硬直。
天笠彰良と目が合った。
勝利の歓声と敗北の落胆に彩られた体育館内で、彼だけがじっとこちらを見つめていた。表情はない。何も考えていないかのように不気味な無表情。喜びも悲しみもない、酷く冷めた目つきがわたしのほうを向いている。
まさか彼に対して不埒な考えを抱いていることに感づかれたのだろうか、不埒というのは冗談だが的外れではない。彼がなんらかの意図で悪役を演じるのではないか、なんて考察は、もし当たっているとすれば彼にとって非常に不都合だろう。仮にそれが真ならば、そしてそれを見破ったことが露見しているのなら、ただでは済まないかもしれない……。
と。
そこで気づいた。
気づくと同時にさまざまな記憶が脳裏で組みあがっていく。まるでパズルのピースのように。意味をもたなかった事象の断片が一枚の絵を描いていく。
天笠くんが静かに目を逸らしてコートから退場していくのを見ながら、わたしは高速で思考を巡らせていた。
まあ、確かにそう考えるのが自然なのだ。
何の変哲もない地味で無価値な文学少女こと、わたしなどではなく。
彼が見つめていたのが、汐華知佳という美しい少女だったのならば。
どうしてそんな行動をしたのか、という動機の面はさておくとしても──非常に面白い物語に繋がるのではないだろうか?
興味が湧いてしまった。関心を抑えられない。他者の、それも級友や友人の心中に土足で踏み入ることの不躾はよくわかっている。わたしは決して名探偵ではないのだから、そんなことが許されるはずもない。
けれど。
興味を惹かれてしまったものは、仕方ないでしょう──?
3
さて。
事態を整理しよう。といっても、どこから考えたものか。やはり推理のきっかけとなった場面を振り返るのが正道だろうか。
あの日。体育の授業のなかで、天笠くんはわたしではなく汐華さんのほうを見つめていた。
視線の先がわたしだった、という誤解が生まれた要因も単純だ。わたしは汐華さんとかなり近い位置に座っていたのだから。というか、試合が終了する時間までは隣に座っていたのだから。寄り添うように。すぐ傍で!
──というのはさておき、そういう事情を踏まえてみれば、最初わたしが勘違いをしてしまったことにも説明がつけられる。
ここで考慮しておきたいのは、そのときの状況だ。
あれはバスケの試合が終わってから少し後のことだった。星埜恒一は拳を掲げていた。汐華知佳はそれに笑顔で応えていた。そしてクラスの誰もが、その光景に気をとられていた。
汐華さんに好意的な女子なら、彼女と彼との青春を微笑ましく思ったはずだ。汐華さんに好意を向ける男子と悪感情を向ける女子は、彼女が彼と交流しているのを妬ましく見ていたはずだ。例外はほとんどいなかっただろう。
あの瞬間、クラスの視線はほとんど彼らに向いていた。
だからこそ天笠くんもまた汐華さんを見つめていたのではないか。そうすることが自然な場面だから。そして、そうすることに気づかれないであろう場面だったから。
わたしというもうひとりの例外に、彼は気づいていただろうか。汐華さんにこれ以上なく好意的だからこそ、あの瞬間は彼女から離れていた、わたしの存在に。まあ、気づいたからどうなるというものでもないだろうけれど。
加えて再確認しよう。
汐華さんに対するクラス内での印象は三通り。男子のほぼ全員と一部の女子は好意的である。星埜くんに恋焦がれる残りの女子は否定的である。そして、正負に二分できない唯一の例外が天笠彰良という人間であった。
彼を除けば、クラス内の傾向は綺麗に二極化している。けれど、彼の存在はその二極から外れている。なぜかといえば、彼は汐華さんのことをなんとも思っていない……ように見えたからだ。
そしてなぜそう見えたのかと考えてみれば──これは明らかで。彼は彼女と、一切関係していなかったのだ。
そのことを念頭におきながら学校生活を観察してみて、改めて確信する。そこには関わりがない。まったく関係性がない。なまじ一方が汐華知佳という才媛であるがゆえに、なおさらその事実は顕著だった。
彼女は非常に社交的な人間だ。誰にも愛想よく振る舞う、男子の理想のような美少女であり、そして友人たるわたしが観察する限り、その愛想はお世辞ではなく本心だった。それはわたしが彼女を尊敬している一因でもあったのだ。
利己心ゆえの演技ではなく、紛れもなく心の底から、彼女は人間を愛している。そう思わずにはいられないような底抜けの善性。
何が彼女をそうさせているのかは定かでない。しかし事実として彼女は、クラスの全員と数日に一度は会話している。用事があって話しかけたり世間話を振ったりと方法はさまざまだけれど、いずれにしても親交を深めている。
もちろんなにごとにも例外は存在するし、汐華さんもまた人間である。クラスの全員と平等に会話しているはずもない。その好例は星埜くんだろう。彼は彼女とそこそこ仲が良いし、わたしがふたりを『ヒーローとヒロイン』と喩えたのもそれゆえだ。
男子で最も親しいのが星埜くんなら、女子で最も親しくしているのはわたしだろう。わたしである。わたしなのだ、という自慢はさておき。
そして星埜くんやわたしを正の例外とするならば、唯一の負の例外が天笠くんなのである。
汐華さんと天笠くんとの間には、今まで気づかなかったことが驚きなほどに、交流がなかった。至って自然な不干渉。非常にさりげなく装われた無関心。彼らは世間話も業務連絡も交わすことなく、互いの存在にまったく触れずに生活を営んでいた。
意識的に見てみれば不自然極まりない状況である。そしてこのことを踏まえると、天笠くんが汐華さんに視線を向けていたことはますます不可解になる。
──けれど、わたしは知っているのだ。
彼にまつわるもうひとつの謎のこと。彼が悪役を演じているらしいこと。すなわち彼が、日常的になにかを演じているらしく思われること。そのことを重ねてみれば、新たにひとつの解釈が生まれる。
つまり。
彼が悪役を演じるのは彼女のためであり、そしてそれゆえに彼らは接触を絶っている。なぜなら悪役とヒロインが仲良くしていてはならないからだ──なんて。
馬鹿げた妄想だ、と自分でも思う。くだらない想像だ。根も葉もない真っ赤なお伽噺だ。冗談にもほどがあるだろう。
けれど、それでも仮説を捨てられないのは、否定の根拠がないからだ。それがどれほどありそうにないことであっても、確実にありえない可能性として除外されない限り、真実である可能性は失われないのだから。
だからわたしは、彼の演技の理由を見定めるべく、調査を始めることにした。
4
とはいえ、である。
調査したいからといってすぐさま調査を始められるほどの社交力が、果たしてこのわたしにあるだろうか。いや、ないのだ。思わず反語を展開してしまうほどに致命的な社交力不足である。読書にかまけてばかりいたつけがここで襲ってくるとは。運命を呪うとはこのことであった。
ひとまずわたしが始めたのは噂を集めることだった。それしかできることがなかった、と言ってもいいのだけれど、しかしこれが案外馬鹿にならないのだ。普段小説に没頭して過ごしている休み時間を犠牲に聞き耳を立てていれば、みるみるうちに情報が集まってくる。
たとえば天笠くんの顔が良いことであったり、目つきは悪いけれどそこがいいことであったり、態度に険があるけれど時折見せる素とのギャップがたまらないことであったり──つまるところ例の彼女であった。またお前か、と天を呪う。せめて萌え語りの内容がもう少し広がってくれればいいものを。もはやこれまでか。
などと脳内でふざけなければやっていられないほどに進捗がなかった。どうやらわたしは探偵に不向きであるらしい。元から特になりたいわけでもなかったけれど、改めて自覚させられると心にくるものがあった。せめてもの癒しを汐華さんとの心温まる交流に見いだしているうちに、日々は過ぎ去っていく。
そんなある日、文化祭準備の話しあいが行われることになり。
そして何の因果か、わたしのクラスは演劇をすることになった。
これだ、と汐華さんをヒロイン役に推しながらわたしは考える。まさに恰好の理由づけではないか、と思っているうちに星埜くんが主人公に抜擢され。そして悪役を天笠くんが拝命するに至って、決意は固まった。脚本担当を募る声に応じて、静かにわたしは手を挙げる。
そもそもの話、一から十まで天笠くんが演技をしている教室内での情報収集に無理があったのだ。
いわばここは、彼が演じている舞台の上なのだから。
役に演者のことを尋ねても、仮面を見つめて素顔を想像しても、成果が得られるはずもないのだ。舞台裏に足を運ぶしかあるまい。彼が所属する演劇部において彼の評判を訊いてみよう、とわたしは計画する。
……その発想に辿り着くまでにどれほど無駄な時間を過ごしたのかは、考えないことにして。