第四章09 劣情にも劣る感情
ジロヴァガーレ号がこの帆船の名前。帆船の中でもかなり小型の種類に入り、操舵室含め部屋は七室のみ。操舵室と、その他の三室は食料と水を積んでいっぱいいっぱい。残りの三室は乗組員である俺たち四人が使用。大波が来ると心細いがしかし、船体が小さいお陰でメリットもある。
小回りが利くことと、――――魔法で操舵できること。
「……この船、ずるくねえか?」
ジロヴァガーレ号は勝手に十二時の方角を突き進む。向い風なのに真っ直ぐ進んでいる。
「ええ。魔法の力は偉大ね」
フィールとレンナが去った部屋の中で、ララと二人きり。慣れたはずなのに会話のネタを必死になって探している自分がいる。
真夏の船の中。直射日光は防げているが、やはり暑い。しかも西日になって熱量が強くなっている気がする。
暇つぶしの絵本を片手に、ララは暑さをこらえられずに髪を結いあげ、薄着になった半袖の服をまくって白い二の腕を露わにしている。俺はそんなララをなるべく見ないようにしている。
「注ぎ込んだ魔力で特定の操作を自動でしてくれる。直進・後退・左右への迂回に停船まで。ここまで魔法に仕事を奪われたら船乗りも失業だな」
「まあ、この船の大きさが小型だからできたっていうのもあるけどね。巨大帆船なんかじゃあ、さすがに航海士なしだと船旅はきついわよ。……といっても、帆船っていうカテゴリーなのにオールで漕がなくても、帆で風を受けなくても進むっていうのは、もはや帆船ではない気がするけれど」
「そこなんだよなあ。帆船なのに帆の存在価値がアレっていうのはなあ……」
行き着くところまで行き着いた魔法の力は、もはや神の領域なのではないのか。
このままでは人間がそこに足を踏み入れることになるのではないだろうか。
かつて天に繋がる唯一の巨塔を建てた人間達は神の怒りを買って地上に墜とされたという童話を読んだことがある。
神に近づくと、人間は痛い目を見るのがヴィクトリア帝国の道徳教育のひとつだというのに、その帝国の宮廷騎士団が進み過ぎた魔法力に行き着くというのは……。
「ケンシロー? どうしたの、顔が難しくなってるわよ?」
俺が魔法倫理観的なものについて考え込んでいると、ララが俺に近寄って下から覗き込んできた。
ララのはしばみ色の瞳と薄い唇が俺の目に留まる。ついでに薄着になった胸元から控えめな胸の谷間がかすかに――――
「――ララ、近い」
「え?」
俺はララから顔をそむけ、気を落ち着かせる。
「なによ、なになに? どうしたの? 船酔い? 病気?」
「そうだな。気の病だ。ちょっとだけ横になる」
俺は心の中に蟠る邪な欲望に顔をそむけながら、ララに背を向けて部屋の隅で横になった。
「そもそも、ララはどうして俺と同室を選んだんだ? ……本当は嫌だが、フィールと俺が同室するっていう選択もあったんじゃないか?」
「本当は嫌なんでしょ?」
「……」
「私の方がもっと嫌なの?」
ララのすっとぼけたように無防備な声音が後ろから聞こえてきた。
「そ、それは違うけどさ、男女が二人で同じ部屋だぞ? それがどういうことか分かって――」
「だってケンシローなら安心だし」
「どういう意味だよ」
俺が去勢された犬だとでも?
「普段、同居してるルビーに変なことしてないケンシローが危険かしら?」
「……あれは、別だろ。だいたい、見た目がガキすぎる」
「じゃあ、私だったら変なことしたくなるの?」
「……」
思わず返答に困って俺は閉口し、部屋に沈黙が流れる。
「え? その反応って……?」
「違う。そういうんじゃない。俺はただララのことを――っ!」
誤解のような誤解じゃないような俺の反応に対するララの反応を、俺は必死になって紛らわそうと半身を起こしてララに振り返り――――
「わ」
ララも俺の顔を覗き込もうとしていたのか、俺とララはぶつかり、体格の差でララが俺の下敷きになりかけた。
――絶対に今、体を密着させてはいけないと思い、俺は床に手をついて必死に体重を支えた。
結果的に、俺がララを床に押し倒して覆いかぶさっている――みたいな構図になった。
俺とララはしばらく無言で見つめ合い、彼女の顔を見た俺は声を発する。
「何でそんな顔するんだよ」
「……え? どういうこと?」
ララは俺を拒絶するような顔を、一切していなかった。これではまるでララは俺に――――たがっているみたいではないか。
不意に部屋の扉をノックされ、フィールが扉越しに、
「ケンシロー君、ララさん。枕と麻布を二人分持ってきたよ。……入っていいかい?」
「待て、フィール! えーっと、ララがこれから着替える所だから開けるな! 俺が今から部屋を出るから扉の近くに置いとけ!」
「ん? ……ああ、すまないね。僕としたことが無粋な真似をするところだったね。僕は甲板にいるからいつでも来給え」
「なんか違えよ!」
完全に違うわけではないが、部分的に違うところはある。
フィールの足音が遠のいて行き、俺はとりあえずララの上から退いた。
「すまん、ララ。ちょっと出てくる」
「待って、ケンシロー。少しだけ真剣な質問していい?」
着衣の乱れたまま、半身を起こしたララはそのまま俺を真っ直ぐ見る。
「私のこと、どう思ってるの?」
「――――」
「私はケンシローのこと、すっごく――」
「大切だよ!」
ララが決定的な事を言いそうな気がして、俺はとっさにそう叫んだ。
「大切な…………同僚だよ」
ひねり出すように、そう付け足した。
それを聞いたララは、表情に暗い影を落として、
「そっか……私はもうちょっと、ケンシローとの距離を縮められたと思ったんだけどな」
ララは自分自身にがっかりするような、悔しがるような顔で呟いた。そして、
「麻布と枕を部屋に入れて。私、ちょっとだけ寝たい」
「ああ。それと、喉は渇いてないか?」
「これから渇くかもしれないけど、水筒にはまだ自分の分があるから大丈夫」
すでに彼女の声は涙声になり始めていた。
俺は枕と毛布替わりの麻布を二人分部屋に入れる。ララはそれを受け取り、枕を部屋の隅に置いて、麻布を頭からかぶって寝た。
俺は自分の居場所を失いかける。
「ララ、俺――」
居たたまれなくなって、俺は部屋を出ようとし、
「そこにいて! ……傍にいてよ。ケンシローと私は、運命共同体でしょ。そうしてくれないと私、もう……」
麻布を被ったララの必死のお願いに膝をつき直した。
「ララ」
「ケンシローと私って、結局ただの仕事の同僚だったのね」
それは違う。俺はそんなつもりで言ったんじゃない。
俺にとって同僚はララひとりだけであって、だから大切な同僚というのは、俺にとってのララというのは、だから――――
「……好きだよ、ララ」
俺は嘘を言っていない。しかし自分には嘘をついた。
ララの機嫌を取るためだけに、俺は望まぬ形でそんな言葉を吐いた。
「仕事の同僚の私が?」
「大切な仕事の大切な同僚の、大切なララが――だ」
「それのなにが違うの?」
「――――っ」
こんなことが、伝わらないのかよ。俺はララのことを、こんなにも大切に思っているのに。
ララには俺の好意が伝わらない。――いや、俺が好意を伝えきれていない。
ララが洟を啜る音が聞こえ、俺はどうしてもこの場を離れられなかった。
俺がここを離れたら、きっとララは大泣きするだろう。
それだけは、俺の我が儘がさせたくなかった。
「――――――――」
閉口しつつ、どうせ彼女に見えないからと、俺は口だけを動かした。
――――ケンシロー・ハチオージはララ・ヒルダ・メディエーターに、恋をしている、と。
俺の劣情にも劣る感情が、どうしてもそれを伝えることを不得手にさせた。
俺の劣情にも劣る感情が、どうしてもそれを声に出すことを許さなかった。
俺の劣情にも劣る感情が、どうしてもそれを行為に出すことを許さなかった。
俺の劣情にも劣る感情が、自分を傷つけないようにと、大切な剣を傷つけた。
俺の劣情にも劣る感情が、自分を傷つけないようにと、半分の魂を穢した。
俺の劣情にも劣る感情が、自分を傷つけないようにと、鋼の意志に靄をかける。
俺の劣情にも劣る感情が、自分を傷つけないようにと、根を張り待つ人を遠ざける。
俺の劣情にも劣る感情が、自分を傷つけないようにと、護られることを拒否した。
俺の劣情にも劣る感情が――――
第四章09話目でした。ケンシローが自覚しはじめました。
応援よろしくお願い致します!