第二章28 希死に至る病
死を希った時は少なからず誰にでもある。それが普通は死に至らない些事なだけで、日常的に希死に思い至ることはあるだろう。それ自体は大病ではないのだ。それどころか、臆病ですらない些事な病なのかもしれない。ただの心の防衛本能なのかもしれない。
ツラい現実から目を背けるための自衛の手段で死を願うのだ。
俺も死を希望したことはある。しょうもない理由で、「死にてーなー」と呟いたこともある。でも実行はしなかった。俺は心の底まで死を希ってはいなかった。
――――いや、どうだかな。俺はただ死にたいという思い以上に、未来が見たかったのかもしれない。
だからきっと、自死に至る人っていうのは未来が見えなくなっているのかもしれない。
未来が見えないくらい、真剣越えて病的に現実を見つめているのだと思う。
世界はこんなにも広いのに、――――希死に至る病に囚われてしまっている。
俺が出来ることは、俺が今、抱えている「起死に至る病」でそれを打ち消すことくらい。そして「死にたくない病」を感染させるくらい。あとは未来を切り拓くくらいで――――
ゴォォォォォォオオオオオ
息を吹き返したように噴魔が再び天に向かって昇っていく。
その濃密なまでの魔力の凝集体は妖しく光り輝いて、見る者の心を惹きつけかどわかすかのようだった。
俺はローゼの案内でまっすぐ樹竜の首を走りぬける。
昨日の今日でいつのまにか樹海のねじくれた木の根や滑りやすい苔地にも慣れてしまった。この樹海で何度も悪戦苦闘したことを思い出し、そして俺は未来へ向かって走る。
誰彼時になってようやく温泉地帯に辿り着く。辿り着いて、彼女を呼ぶ。
「先輩! 無事だったか!?」
「……ケンか。わらわは大丈夫じゃ。今しがた樹竜の分身を源泉に突き落としたところじゃて。魔力に焼かれてもう跡形も残っておらぬ」
誰彼時色の光に照らされて、本当に先輩その人なのだろうかとふと思う。
「それはよかっ……たのか?」
先輩はローゼを一瞥し、
「そっちの植物女は大丈夫なようじゃな」
もう一度魔力の源泉に視線を落とす。
「ああ。人生の中の仕事の位置づけってやつを叩き込んでやったよ」
「かっは! 職歴の浅い男に仕事論を説かれるなどわらわなら憤死ものじゃ!」
「そんなに業腹なこと!?」
かっはっは! と先輩は愉快そうに高笑いし、雨空を仰ぐ。
「始めるかえ」
「ああ、先輩。始める――――」
先輩は俺の口に指を添える。
「フォルテ。呼び捨てでフォルテじゃ。そこだけ敬称じゃと気味が悪い」
先輩――フォルテと呼ぶことを許された。いや、本当はずっと前から許していたはずなのだ。俺が彼女を畏怖して気づかなかっただけで。
「ああ! フォルテ! さっそく樹竜のバカげた大自殺を止――――」
フォルテの隣に立とうとした刹那、白い光が俺とローゼにまとわりつく。
「――――これは!?」
俺が事態に混乱しかけてフォルテの顔を見ると、彼女はひと仕事終えた後の気持ちの良い疲労感でも覚えたかのような晴れやかな顔をしていた。
「ラブコールじゃ。召喚札の光じゃよ。貴公らの仲間が呼んでおる」
「…………はぁ!?」
ここまでやってあいつら……!
「さよならじゃな」
「ふっざけんなぁあ!」
フォルテも一緒に連れて行くために掴もうとしたが、彼女の体は透過――いや、俺の体が透過し始めた。
「わらわの生まれ星座は貴公と同じで獅子座じゃ。連れ戻すには用意したカードが足りなかったようじゃな」
ここまでやって俺はなにも変えられなかったのかよ。
「戻って来るんだよな!? なあ!?」
「……どうじゃろうかな。旅立つのは確かじゃが、故郷に錦を飾れるかどうかは――」
「おい! ふざけんなよ! どうして! ……どうして!」
「かっはっは! ケンシロー・ハチオージ!」
フォルテの強い声音に俺の心はびくりと戦慄く。
そして彼女は慈母のように優しく微笑み、
「まず、努力をしろ。次に努力をしろ。そして努力をしろ。最後に努力をしろ。そうすれば、次の努力が待っている」
そう言って俺たちに背を向けた。
そして俺たちの視界は白く霞み、どこか彼方へ飛ばされて行った。
次の刹那、
「うおあっ!」
どてん、と俺は丸太の床に腰をしたたか打った。
「ケンシロー!」
次の瞬間、亜麻色の髪の少女に抱きつかれる。
「ララ……ってことは、ここは?」
見ると、アレスの里の村長が御者をする植物製の木馬車の荷台の中だった。ララとアズさんと、ルビーとフィール。彼の片手にはナギ。そして一緒にローゼもいる。
「スイズイ街道よ。ごめんなさい。ルビーとナギだけが戻ってきて、それで心配すぎて呼び戻しちゃった」
「お前! ……まあいいよ」
強くは責められない。ひたすら心配かけた俺にも責はある。
「すまない。剣災。獅子座の剣災と山羊座の賢樹しか呼び戻せなかった」
賢樹とはローゼにつけたあだ名か。
「それで、バウム=バ……樹竜は!?」
俺は荷台の幌から顔を出し、外を確認する。
「ぁぁ…………」
スイズイ街道の大空には浮島のようにとても巨大で、とても荘厳で、深緑色で、灰桜色で、そして力強く空を行く、天を衝くような巨木群を生やした――――マンタのような平べったい超巨大竜が飛翔していた。尻尾のような木の根を泳ぐように揺蕩わせて、
そして――――
『―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ッッッッッッ!!』
静けさと慌ただしさを貫くような凄まじい轟音が鳴り響き、そして空中に浮かんだ樹竜のさらに上空へ向かって、ここからでも巨大さが実感できる強大な魔力の光輝が強い光圧を備えながら伸びていく。白く光り、赤く光り、黄色く光り、青く光り、緑に光り、忙しなくその色を変えていく。――――今だけはそこが中天だった。
『――――――――――――全てに、ごめんね』
何者かの呟きが聞こえた。舌戦の終わりを告げているようだった。
「フォルテ……」
最後の花火が打ち上がってしまった。
「フォルテ――――――――っ!」
俺が叫んでいるうちに、樹竜の爆発の余波が爆風となって遅れて襲いかかる。
木馬車が爆風に押されて吹き飛ばされ、荷台の中に居ながら、数百歩分もの距離を投げ飛ばされた。
「………………………………ッッ!」
最後の仕事が終わり、アレスの里が滅ぼされた瞬間だった。
倒された荷台から外に出て見上げると、巨大な妖しい光の凝集体が魔を放ちながらいつまでもいつまでも、縮小と拡大を繰り返して天を犯すように昇っていっていた。
その光は西方に沈む朱色の太陽をあざ笑うかのように、熱く強く、柱型の光源としてそこに在り続けていた。
「……くそったれが」
なにも変えられなかった。樹海を迷い、走り回った結果、――樹竜の肉体全てが魔力の凝集体に変換されて光の柱として天に伸び続けている。
「誰かが悪かったわけじゃないさ。きっと君も、副長も、樹竜も、誰しもが」
フィールが疲れてふて腐る俺に慰めの言葉をかけるが、俺の気持ちはちっとも収まらない。俺は俺を気遣うこいつがやっぱり嫌いだ。なのにこいつは気づかない。
病識が足りないのか、治す気が無いだけなのか。
「……それでも、それでも俺は生きてほしかったよ。それなのに、あんな……つまらない理由で……っ!」
たとえ当人には納得できる大事な理由だったとしても俺には到底、納得できる終わり方ではなかった。最後の最後に俺はエゴを押し付けられた。
「気負うな、剣災。お前は弱かったわけじゃない。まだ少しだけ、強くなれるだけだ」
アズさんの慰めが今は鬱陶しく、それでもしっかりと俺の心に染みていった。
――舌戦の激戦が終わった。
これが樹竜の、アレスの里の病魔騒動の顛末だった。
――悪罵の病魔の、最大の病魔の、嫉妬の病魔の、絶望の病魔の、縺れて巨大に増長し続けた、宿痾の終わりだ。
爆風で視界に広がっていた雨雲の全てが吹き散らされ、深い紺色の空に綺麗な月が浮かび始めている。
今の俺にとって、その光景はただ壮大で、ただ強大で、陶然と心を蠱惑的に惹き付けられるような、
――――希死に至る病の姿に見えた。
第二章28話でした。次回は第二章のエピローグです。
そして第三章へ続く前後日譚を挟んで第三章を始めようと思います。
まだまだ彼らの仕事は終わりません。
よろしければまだまだお付き合い下さい!