第二章21 病巣アレス
浮遊大陸は完全に空に浮かんでいる大陸である。なんでもそれは魔法によるもので、『創世の大賢者』と呼ばれる大昔のエルフ族の人物が使用した禁断の魔法らしい。
その禁断魔法のおかげで、数千年間その大陸は浮遊を続け、この世界を漂い、そして巡り続けている。選ばれた高潔な血族――――例えば純魔族や半魔族を住まわせて。
この世界が丸い球体でできていると発言したのはたしか浮遊大陸から好奇心で下界を見下ろしていたハーフエルフ族のとある一族のひとりだった。
何百年も前の大発見であり、そしてその日以来その一族の末裔は、この世界を正しくする力があると信じ崇め奉られ、「姫巫女の一族」として丁寧に扱われてきた。
しかしその姫巫女の一族は丁寧に扱われすぎていて、捨てられた不出来な末代以外は浮遊大陸から出ることを許されなかった。
「――――つってな」
『あの毒舌女のことでありんすか?』
「そうそう。その不出来な末代ってのがシロフォン先輩なわけだ」
『なるほど。悲劇のヒロインぶった痛々しい女なわけでありんすな』
「……そんな単純なもんでもないんだろうけどな。あと、お前が言うか、それ?」
親竜を人間に殺されて赫怒の氷を撒き散らしていた鋼竜が。
『余は余だけを特別に扱っておるので例外なのでありんす』
「すっげえ嫌な性格だな!?」
――――とはいえ、噴魔を引き起こしている樹竜にも同情できるなにかがあると思うと、どこかやるせない気分になる。そう思わなければ、納得が出来ない。
降りしきる雨の中、知っている誰かが風邪を引いたりしないだろうか。
『ケンシロー、止まりんす!』
ルビーの叫び声で俺はハッと足を止める。
「どうした!?」
右方遠くで噴魔の轟音が聞こえるが、ルビーが指差したのは左側だった。
見ると、灰桜色の髪をした男の子が一人倒れていた。髪色が灰桜色ということはアレス族ではない――――?
「おいおいおいおい、こんな時に……!」
俺が助けなければと駆け寄ろうとして、またしてもルビーに『止まりんす』と制される。
【なんだ。やべえのがいるなぁ】
「ナギ、お前起きてたのか」
【そりゃあ、オレサマは常時ビンビンよぉ。それより……真剣タイムのようだぜぇ】
『なあんだ。僕の正体がもうばれちゃったのか。さすがは鋼竜と風の魔剣だ』
「――――っ!?」
感情のこもっていない声。それなのに、気位の高そうな性格だけは充分に伝わってくる十歳かそこらの少年の声だった。
男の子はゆらりと立ち上がり、そして翡翠色の瞳を光らせて俺にゾッとするような薄気味悪い不敵な笑顔で微笑みかける。
『こんにちは。君の声は聞こえていたよ。ケンシロー・ハチオージ君。僕の名前はバウム=バウム。樹竜とは呼ばないでね』
その刹那、薄笑いを浮かべるバウム=バウムという男の子から、悍ましい殺気を感じた。まるで立っていられなくなるほど気持ちの悪い――――
『おっと。さすがにこれはご挨拶が過ぎたか。ダメだなぁ、僕も引っ越しで気分が青天井なのかなあ』
中性的で、感情が無くて、気持ちの悪い声だ。
「……引っ越し? お前、引っ越すの? え? 引っ越しってどういう……」
まだ俺はこいつの正体をよく理解して話してはいないんだが。
『引っ越しは引っ越しだよ。溜まっていたゴミを全部出して、新鮮な状態で新天地に赴くのさ』
「……は? 溜まっていたゴミ? 新鮮な状態?」
意味が分からない。名前がバウム=バウムで、自分を樹竜とは呼んでほしくないということは……? は?
「つまりこうじゃ。使い惜しんで溜め込んだ魔力を噴魔として発散して身軽になる。そうして違う土地でまた神樹……神の真似事をするということじゃ!」
木の上方から先輩が現れて、飛び降り、そしてそのままバウム=バウムに飛び蹴りを食らわせた。
ゴキリ……という生々しい音が鳴った。男の子は動かなくなり、深緑色の苔になる。
「これは……?」
と、再会の祝福もおあずけで先輩に聞いてみると、先輩は俺に一回転からの裏拳を食らわせてきた。
「――――っ!? 痛いんですけど!?」
思わず俺は倒れこむ。ルビーは俺の下敷きになる前に跳び上がって着地した。
「ちょっと、なにするんですかぁ!」
「大うつけか貴公は! なにをしに来たのじゃ!」
なにをしに来たのかと問われると、俺にもなんと言えばいいのか分からないところがあった。本当に俺はなにしに来たの……? これは仕事じゃないよな……?
「いや、その……」
「守るとか止めるとか助けるとか、そんなありきたりで下らぬことを言うつもりじゃないじゃろうな!? ええ!? この厄災が!」
「違います! し、死んでほしくないから来ました……!」
俺の本音がぽろりと出てしまった。それを聞いて先輩は怒り顔を引っ込めた。そのくせ顔を赤くする。
「ば、馬鹿ものめ……これはわらわの仕事じゃ。誰にも手は出させん。だいたい、これでわらわが死のうと別に誰も悲しまんじゃろうに……」
「俺は悲しみますよ! たぶん隠れて泣きます!」
「人の死を悼むなら堂々と往来で泣かんか、凡愚が!」
「痛い!」
今度は強力な頭突きを食らった。横暴すぎる。
しかし先輩の気持ちも分からなくはない。俺もルクレーシャス鉱山で鋼竜に挑んだ時は自分ひとりでなんとかしようと思っていた。結果、ララに心配されてついてこられ、人質に取られるという始末。その挙げ句店長たちに助けに来られて逃げ帰ったのだ。
「俺、すごい場をかき乱してる!?」
トラブルメーカーってもしかしたら最的確な言葉なんじゃ……。
「当たり前じゃアホが! さっさと帰れ雑魚!」
【ひゃははぁ! なんだなんだ? 痴話喧嘩にしちゃあ荒々しいなおい!】
「うるせえ。痴話喧嘩じゃねえ。頭割れそうに痛いんだよちくしょう……」
「その程度で涙目になるならとっとと帰れ、凡愚!」
「帰りません! 先輩が死なないように見てます!」
「見てるだけか!? この朴念仁が!」
「じゃあ、俺はどうするのが正しいって言うんですかぁ! 先輩を死なせないためにはどうするのが正解なんですか!?」
「むっ……」
俺が半ば投げやりに無責任極まることを言うと、先輩はその勢いに舌を巻いたように閉口する。
「……わらわはただ、アレスを滅ぼす樹竜と相討つだけじゃ。――――それが目的の仕事じゃからな」
先輩は寂しそうに俯き、伏し目がちに自分の青い髪をいじる。この時だけはいじけるただの思春期盛りの女の子にしか見えなかった。
「それは本音ですか?」
『まさしく、強がりでありんすな』
【ひゃははぁ! だな!】
「うるさい! 欠陥品共が! わらわより弁を立たせるでない!」
噴魔するアレスで舌戦合戦をしている俺たち。
『そろそろ静かにして』
「うっ……」
またしても、さっきと同じ気味の悪い無感情の声が樹海のどこかから聞こえてくる。しかしあのバウム=バウムとかいう男の子は先輩にやられて……いや、体を苔にして移動するのはローゼもやっていた。ということはまだあの男の子はご存命……?
「それで先輩、いきなり本題に突入するんですけど、この声の主が樹竜で?」
「そんなところじゃ。言っておくが、この樹海全体が樹竜の肉体で、腹の中――病巣そのものと考えるんじゃ。さっきのはその一部じゃな。いうなればさっきの餓鬼は貴公で言うところの……糞じゃな。つまり貴公そのものじゃ」
「酷い言い様……俺もさっきのも排泄物ですか」
っというか、さらっと言ったけれど俺たちは樹竜に囲まれているってことじゃないか。
『だから言うたでありんす。樹竜は汚物と』
「……」
なんだか全国のイツキって名前の人が可哀想だ。俺の知らないところでいじめられていたりとかしていないだろうか。イツキさんとは一面識もないけども。
『うるさいよ、鋼竜。汚物っていう方が汚物なんだよ。ほら、鋼竜のお尻は汚物だらけさ』
樹海のどこかから樹竜だか、バウム=バウムだかの声が響き、
『うるさいのはどっちでありんすか! おなごは汚物など出さん!』
『へえ、羨ましいなあ。女の子は綺麗で無垢なんだね。羨ましいから、――――殺しちゃおうかなあ』
「つっ……!」
今日イチの気持ちの悪い禍々しい殺気が俺を襲う。行き場のない魔力を殺意に変換されているような感覚。これはヤバい。悍ましすぎて動けない……!
ヒュンッと後ろから縄状のものが落ちてくる音がした。
『うぬぁっ!?』
「ルビー!?」
ルビーの声で後ろを向くと、足を蔦で絡め取られて樹海の奥に連れて行かれそうになる彼女が見えた。俺が彼女に手を伸ばそうとすると、
『ケンシロー! 避けるなんし!』
声に押されて俺は伸ばしかけた手を止める。そこにメキッと鈍い音が鳴る。
「うっがあああああああああ!」
激痛、激痛、激痛、激痛、激痛、激痛。
太く固い木の根がうねって俺の腕を絞めて千切ったのだ。
俺の千切れた腕の断面から血がほとばしる。だらだらと止まることなく流れ出て、
「このうつけ!」
先輩の再生魔法で即座に腕が再生していく。
『ケンシロぉー!』
俺の一命はすぐさま取り留められた。しかし俺の治療をしている間にルビーが樹竜に連れ去られてしまった。不覚だった。この中で一番護らなきゃいけない相手だろうに!
「くそっ! ルビー!」
「待て! ケン! 無策で追いかければ樹竜の思うツボじゃ!」
追いかけようとした俺を先輩が引き止める。これでは鋼竜の時の焼き直しだ。
「このっっ、樹竜ぅぅうううううう!」
俺の無駄吠えは、噴魔で空いた虚空から降り頻る雨に吸い込まれ、アレスという名の病巣に消えていく。
噴魔に樹竜。ここはもうただの病巣だ。――病巣アレスだ。
第二章21話です。樹竜をどういうやつにしようか迷ったのですが、最終的にこういうやつにしました。
樹という名前の方には申し訳ないですが、そこまで救いようのない悪者にする予定はありませんので悪しからず。それでは応援よろしくお願いいたします。