第二章05 病魔ヶ時
誰しも夜中は気が病むものだ。鬱にも躁にも成る。
「悪趣味め」
「はっはっは! 許しておくれよ、ケンシロー君。僕なりの旧交の温め方さ。君を見て楽しくなってしまってね。それに、僕のは悪趣味というよりかは漆黒趣味さ」
「ブラックジョークかよ。極東人には伝わんねえよ」
個室に通され、俺とフィールは杯を交わす。
深く木椅子に腰掛けたフィールは蒸留酒の入ったグラスを傾け、上品に呷る。
こいつのこういうところが俺は嫌いだ。
俺よりも誰よりも魔法が使え、演習では必ず俺に勝っていたのにもかかわらず、決して俺に態度を大きくせず、鷹揚に親密に接してくる。俺の劣等感だけが嵩んでいく。いっそ高々と嘲笑、罵倒、悪罵された方が気も楽だというのに、たまにちょっかいを出してくるだけだった。形骸化した騎士道の中で、こいつは病的なまでに騎士然としている。
「――で? なんでお前はメディエーター邸にいるんだ?」
「仕事の話さ。宮廷騎士団とメディエーター商会関係でひとつね」
「宮廷騎士団とメディエーター商会に繋がりが?」
いや、メディエーター商会はヴァレリー経済を回す巨大化物商会だ。よく考えればそれも有り得る話か。
――ん? 宮廷騎士団?
「フィール、お前……宮廷騎士団に入ったのか?」
フィールは俺を慮ったのか、やさしく眉をひそめ、首肯する。
それもおかしな話ではない。魔法騎士養成学校に通った人間の約八割が様々な騎士団に召し抱えられる。だとすればそこを首席で卒業したフィールが、帝国を代表する宮廷騎士団に入れないわけがない。
「そういうケンシロー君は、異世界画材店未来堂……だったかい? 画材屋に就職とは驚いたけれど、でも鋼竜を討伐したと聞けばそれも頷ける。君は居場所関係なく出来ることをするだけなのだね」
勝手に分かられた気がするが、それもあながち間違いではないため強く言い返せない。
「それはそうとケンシロー君。君はここへ何をしに? ……というのは愚問か。ヒルダさんだね」
――?
ヒルダ、ヒルダ……ヒルダというのは……ああ、ララのミドルネームか。そういえばそんなミドルネームだったな。
「ああ。ララにいろいろと馳走になってた」
「ほう。ということは、今宵はもう済ませたのかい?」
「ん? 済ませた? なにを?」
「んん? いや、君がまだだと言うのなら僕からはこれ以上追及しないでおくよ」
いまいちフィールの意図が読めず、俺は頭を捻る。
ふむ……と俺が思案していると、個室の扉をノックされる。
「シュバルツ殿。夜分遅くに申し訳ないが、もうひとつ案件がある」
壮健な深く低い中年男性の声だった。
「どうぞ」
フィールが鷹揚に入室を許可すると、扉がゆっくり軋み音を鳴らしながら開き、そして声の通り、中年男性が姿を現した。
筋肉の上に贅肉を被せたようながっしりとした体つきで、明るい茶髪とあごひげを蓄え、商人服を身に纏っている。
「もうお休みになられたと思っていましたよ。バイロン・ロイル殿」
フィールは酒の残ったグラスをテーブルに置いて立ち上がり、入ってきた御仁に深々と騎士のお辞儀をした。
「すまないな、シュバルツ殿。もうひとつ頼みが……って、貴様はケンシロー・ハチオージ……」
どうやら俺のことを知っているらしく、俺を見てなにやら複雑な心境を抱いた苦々しい顔をしている。
バイロン・ロイル? 誰だ?
……と、そこで目を眇めつつバイロンロン某を眺めていたら、彼の双眸に印象が重なるものがあった。
……いや、まさか。目つきというか雰囲気というか、この邸宅にいる限りありえそうなのはそれくらいだとか――――まさかね。
「もしかしてケンシロー君。君は今までロイル殿に会ったことがなかったのかい?」
フィールはやや辟易したような声音で、呆れを押し殺すような表情で、俺に確認するように問いかける。
「……有名人……だよな?」
首をひねりつつ姑息な正解を口にした俺を見て、フィールは艶のある黒い前髪を梳るようにかき上げる。
「……ラウラ・ノーラさんの旦那様で、ララ・ヒルダさんの御父君だよ」
バイロン・ロイル氏。バイロン・ロイル・メディエーター。メディエーター!
現メディエーター一族の長。メディエーター商会の商会長。ヴァレリー経済界の王候補。
「……は、はは……知ってた。やっぱり有名人じゃん」
しかも世界のバランスを金の力で調停する知的モンスター。
「……いつも娘さんにはお世話になってます。その、娘さん――ララさんとはご職場のお同僚として色々と助けられておりまほし……」
「ケンシロー君。人語が下手になっているよ」
「むぅ……やはりうちのバカ娘が世話を焼いている男というのが貴様か。……それよりもシュバルツ殿」
バイロン・ロイル氏は俺とフィールに視線を行ったり来たりさせ、暗に俺へ部屋を出るようにと訴えてくる。
「いや、いいんです。彼は協力者です。相席を許可して頂けませんか」
協力者? フィールはなにを言っている?
「……」
バイロン・ロイル氏は胡乱な視線を俺に送り、そして蒸留酒の瓶を手に取った。
「ハチオージ君。これからする話は仕事の話だ。できるだけ内密に。そして、決して忘れることなきよう」
「――――いや、あの、仕事の内容によるんだがですが……」
敬語が整っていない今の俺の職業は画材店の職工見習い。仕事・給料・報酬をもらうべきは店長・上司からだ。副業禁止とは言われていないが、いかに面の皮が厚い賢獣でも良い顔はしないだろう。
「安心し給え。これはれっきとしたケンシロー君向けの仕事さ」
「どっちみち、聞いたら仕事を請けたことになるんだろ? だとしたら簡単には耳を傾けられねえな。店長の顔色を窺ってからだ」
フィールはくすりと笑って肩をすくめ、酒で唇を湿らせる。
「ふふん――それじゃあ、ケンシロー君。君が居ていいのはここまでだ。――下がって、もらえるかな?」
「ぅ……」
出た。フィールの殺人スマイル。笑いかけながら、相手に自分の興味関心がないことを伝えるフィールだけの独自技能。この笑顔で何人の女性を泣かせてきたか。
「お、おう。そうだな。そもそも俺は明日も力仕事だ。早く寝なきゃまた不手際で仕事中に店長にどやされる」
俺はグラスに残った酒を一気に呷り、そしてぱっぱと退出するために扉に手を付ける。
「あんたらも明日仕事なんじゃないの? 夜更かししすぎないようにな」
「ケンシロー君。ララのことを末永くお願いする」
個室の出入り口付近から見た俺からは酒瓶を持ったバイロン・ロイル氏の背中しか見えない。だから彼の言葉の真意は分からない。きっと、そこまで分かられたくないのだろう。
「任してくださいよ、バイロン・ロイルさん。必ず守ります。……ララは俺の大切な――同僚ですから」
俺は傲然と息巻き、声音を明るくし、約束した。ララは俺が守る、と。
「――ところで二人とも、そろそろ家に帰りたいから、屋敷の出口教えてくれない?」
俺はまだ酔っていない。俺が酔うにはもっと熱にうなされる必要があった。
***
雨がまた降りだした。
今は何時くらいだろう。
夜空には雲がたなびいていて、月光はここまで届かない。
それでも酒場街は夜更かしをしていて、躁状態のように騒ぎ、魔法の光でまだ明るい。きっとここは夜明けとともに眠り始めるのだろう。
俺はその街並みを通って帰宅する。飲みたい気分でも酔いたい気分でもなかった。
扉を開いて中に入ると当然ながら無言の鬱々とした空間。真っ暗な中で湿った匂いだけがひっそりと主張していた。
そういえば、このボロ家に一人でいるのも久しぶりだ。ずっとルビーがいたから、一人の時間はなかなか――というより全く取れないでいた。取ろうと思って取れるものではなかった。
今の時間はどれくらいだろうか。あと何時間眠れるだろう。あと何時間で仕事に出なければならないのだろう。疲れるけれどやりがいはある。それだけに終の職業にしようかどうか悩む。
そして次第にまどろんでいく。深く深く、常しえの眠りにつきそうなほど、気分のいい寝入りだった。
好きなことを仕事にできなかった俺は、どこまで淡い夢を見られるだろうか。
フィールは好きなことを仕事にしたのだろうか。その仕事を好きでい続けられているだろうか。
「――――」
思わず夢の中の俺の気まで鬱々と病みそうになった。
今の時間はどれくらいだろうか。そうだ――――
こういう気分になった時を「病魔ヶ時」とでも呼ぶか。
……二度と使わない気がするけど。
第二章5話目です。次話から本章の話に本格的に入っていきます。
よろしければお付き合いください。