第二章02 小間使いの宿痾
「すまない、剣災。材料がないからパンは作れない」
「ぁう」
俺たちの仕事場である異世界画材店未来堂に着き、すぐに工房で作業中のアズさんに頼んでみた。ダメだった。考えていなかった。材料がなければパンなど作りようがないではないか。っていうか、早く来たのに普通にアズさんは職場にいた。逆にいついないの……?
『ケンシローの嘘つき……』
恨めしげなルビーの視線が俺に突き刺さり、俺の安い立場が揺らいだ。
「アズさん、ルビーがパンを食べたいってごねるんです。なんとかできないですか?」
『ごねてなどない。余とケンシローとの契約でありんす』
「……」
まずいなぁ、死ぬのかなぁ、俺。こいつは殺意高いこの店のアイドルだもんなぁ。
「甘く揚げたラスクならあるでしゃる。上客用のお茶請けでしゃるが」
にゅるっと後ろから現れたのは店長のアオネコ。どこまでも青い猫である。
「揚げ直せばあったかいぞ? 硬いけど」
『焼き立てのふんわりしっとりしたパンが食べたい……』
くっ、そんなにふんわりしっとりしたパンが食べたいなんて……ルビー、お前はかなりの贅沢を言っているんだぞ? パンドラゴンかお前は。
「メディエーター商会に行ってみてはどうだ? 覚魔の同僚ということは向こうも知っているのだから色々と振る舞ってもらえるだろう」
「ハッ! その手があったか!」
『やった! ケンシロー、今すぐララの実家に行くでありんす!』
よっしゃあ! そうとなったら話は早いぜ! という具合に俺とルビーは意気揚々と未来堂を出ようとした。
そこで店長から一言。
「にゃるん、君たち。メディエーター家に今から言って始業時間に間に合うでしゃるか?」
「……」
『……』
もちろん往復して間に合う時間でないのは時計塔を見なくとも分かる。
「茶とお茶請け程度なら支給するでしゃる。仕事はしてもらえないと困るでしゃるな」
「……はい」
『……うむ』
俺とルビーは異世界画材店未来堂の従業員として、仕事に従事することとなった。
***
「剣災、こっちだ」
「剣災、なにをしている。そっちだ」
「剣災、違う。あっちだ」
「剣災、あっちじゃない。そっちだ」
「剣災、どっちだ?」
「分かんねえ……」
ケンシロー・ハチオージの異世界画材店未来堂での仕事は大きく分けて二つ。
ひとつ、画材の素材となる物質の調達。
ひとつ、調達した素材の加工。の練習。
ルクレーシャス鉱山での激闘を終えて、俺の仕事は後者ばかりになった。
つまり、職工見習いとして画材の世界のお姫様ことアズさんに仕事を教わっているのだ。
正規従業員(研修生)みたいな?
そして俺に専門的な知識や技術があるわけもなく、毎日小間使いの如くてんてこ舞いの状態である。それでも給料が出るからありがたいのだが。
「俺は今、どこに向かっているんだ……」
「剣災、早くこっちにこい」
「はぁい」
オッサンの職工兼清掃員におつかいの物品を渡し、アズさんに呼ばれて戻ることになる。
さて、俺は五秒前まで何をしていたでしょう。俺にも分からん。
俺、この仕事向いてねえんじゃねえかな……。
工房のアズさんブースにたどり着き、彼女からの次の指示を待つと、彼女から一言。
「おつかいだ。ここにある絵筆を全部店長に渡してくれ」
「……? 全部って、全部ですか?」
アズさんは現在、絵筆の柄の部分を鋭意製作中だ。
「もちろん、この籠の中の絵筆全部だ。数を確かめておいてくれ。大中小の三種類、それぞれ五〇〇本ずつ――一五〇〇本あるはずだからな」
籠? このサイズって桶では……?
「……それ、イチから数えて運ぶんですか?」
「運びながら数えてもいいが、剣災にそんな器用な真似はできないだろう」
アズさんの真実を見抜く碧い眼が、俺を見つめて断言する。
俺にその自覚がなくとも、アズさんが視たならばきっとそうなのだ。
金言術師の金言は尊く正しい。
俺が絶句していると、アズさんは気を利かせてくれたのか、助け舟を出してくれる。
「手伝ってやろうか?」
「いいんですか? そっちの仕事は?」
「もちろんストップすることになる。店長は激怒するだろうな」
「……ひとりでやります。空いてる籠貸してください」
肩を落とし、腰を落とし、まず籠に乱雑に入れられた絵筆を大中小の三種類に分けていく。それが終わったらそれぞれの籠の中の絵筆の数を数える。絵筆の総数は一五〇〇で合っていたから、それぞれ五〇〇本ずつあるかどうかを確かめるだけだ。
アズさんの隣で俺はその作業を黙々とやる。
「剣災、お前の好きな季節はいつだ?」
黙々とやっていたのに話しかけられた。そのわりにアズさんは手を休めることなくテキパキと、おそらく最も効率的なやり方でことを進めていた。
「……雨季はそんなに好きじゃないです」
強いて言うなら誕生月の八月が好きかもしれない。
「奇遇だな。アタシもだ。……雨は色々と湿気るからな」
「……なるほど」
職人っぽい発言。この工房にも湿気られて困る物と、湿気られないと困る物がある。
「質問を質問で返すようですが、アズさんの好きな季節は?」
アズさんは俺の質問にようやく手を止め、虚空を眺めて考え事をする。
その横顔はお姫様と言って申し分なく、碧眼とブロンドの髪は美しいという形容さえもが力不足に感じられた。
そして数秒後、アズさんは俺に今までで一番優しい笑顔を向けて、
「秘密だな」
と答えを隠した。
秘密なら聞かないが、好きな季節程度で秘密にする必要があるのだろうか。
話が一区切りついたところで俺は絵筆を全て数え終え、それら全てをひとつの籠に戻してアオネコ店長の元へ向かうことにした。
異世界画材店未来堂はメーカーとしての側面の方が強く、これらを業者に卸したり、アトリエに直接売ったりしているので大量に画材を生産しているというわけだ。重い。
「剣災、その仕事が終わったらアタシを呼べ。一緒に昼食をとろう」
工房から会議室に移ると、室内のテーブルでアオネコ店長がだるんとしていた。
「店長の重役っぷりがすごい……」
「にゃるん。褒めていないことだけは分かったでしゃる。死因はなにがいいでしゃるか?」
「すんません。それより先におつかいの品です」
俺はアズさん謹製の絵筆が入った籠を店長の鼻先に置く。
「何本でしゃる?」
「大中小の三種類、それぞれ五〇〇本ずつ」
「重畳でしゃる。じゃあ、戻ってアズの指示を仰ぐのでしゃる」
「はぁい」
つまり、昼休憩に入れるということだ。会議室にいないということは、ルビーはまだ休憩はお預けらしい。接客業は仕方がない。閑職なのに。
「しかし」
とアオネコ店長は独り言のように呟く。
「今日もアズは体調が悪いでしゃるな」
「体調? こんなに絵筆を量産しておいて?」
俺が数えて運んだ絵筆一五〇〇本はアズさんが一人で午前中に作った品だ。金言術で手際を見極め、効率化を極め、最短時間で作り上げたものである。半日で一五〇〇本って常人じゃあ作れないと思うが。
この前、魔境と化したルクレーシャス鉱山に入ってむしろ仕事の量は増えているのに。
「絵筆の質が落ちているでしゃる。昔はもっと洗練されていたでしゃる」
「昔、洗練……?」
一瞬ピンとこなかったけれど、俺はなんとなく思い至る。
「金言術師としての限界でしゃる。見た目の老いるスピードが遅く寿命の短い金言術師。彼女の命の期限は近づいているでしゃる」
「……」
命の期限。若い姿のまま常人より早く寿命が来る、――――特性。
アオネコ店長の灰色の目が俺を見つめて揺れる。
「剣災君、アズの技術を少しでも多く遺してほしいでしゃる」
アズさんの技術を未来にまで、永遠に。アズさんは自分の技術と画材で永遠に残るのだと決めた人だから。
「遺す……ですか」
俺は宮廷騎士に成りたかった。宮廷騎士に成れると信じていた。宮廷騎士に成って剣で永遠を刻むような人間になりたかった。成れると信じていた。
宮廷騎士にしか成れないのだと思っていた。それ以外に成ってはいけないのだと思っていた。宮廷騎士に成るべきなのだと思っていた。
俺の取り柄は剣の力だけだったはずだから。
でも、ここで出会って少し変わった。
俺の剣に成ってくれる少女と、画材の世界のお姫様と、鋼の意志を持った女竜。
彼女たちは確実に、俺の人生に新しい力を与えている。
俺に違う在り方を示してくれた。俺はその厚意に報いるべきだ。報いたいのだ。
「俺、昼休憩なんでアズさん呼んできます」
ララは今もまだ、その画才で永遠を描きだすような天才宮廷画家に成りたいと思っているだろうか。
***
異世界画材店未来堂には厨房がある。厨房というより調理場だ。火の魔法陣が組み込まれていて、魔力の扱いが雑な俺でも火を熾せるようになっている。それが三口。あとは包丁とまな板を置くスペースだけ。俺の部屋全体よりは確実に狭い造りの調理場だ。
そこで俺とアズさんが二人きり。昼食をとるためだ。
ヴァレリー民は大量の朝食・昼食をとる習慣があまりない。その代わり夕食はドカンと食べる。だから昼休憩は本当に休憩所でぐだぐだと休憩するだけなのだが、アズさんは昼食をちゃんととる派の人間である。
そして俺はタダ飯なら頂いて損はないので有り難く頂戴することにする派の人間である。
――で、二つの小瓶を取り出したアズさんがなにを作るかといえば、
「こ、この磯の香りと香ばしく醗酵した匂い……っ!」
「昆布と味噌だ」
「よく俺の故郷の調味料なんか手に入りましたね」
「剣災の顔を見て思いついたんだ。お前の故郷の食材は長寿食品だからな。アタシも率先して死にたくはない。今日ようやく手に入った」
アズさんはカットした根菜や馬鈴薯、そして豚肉を昆布出汁の入った鍋に入れて煮ていく。豚汁を作っているらしい。
見た目は二十歳手前の俺と同年代なのだが、本当は金言術師としての寿命ギリギリの三十代手前の女性である。
強く見えて実は脆く儚いアズさんは、姫様のように美しさを漂わせながら、無表情で料理を続け、ようやく鍋に味噌を入れる。溶いて鍋全体に馴染ませると、おたまで小皿に移し、味見する。
アズさんの表情が和らぐ。美味しかったのだろう。なまじ表情の起伏が少ないアズさんは目つきが少し変わるだけでがらりと印象が変わる。思わず抱きしめたくなるほどに。
「ほら、剣災。お前の番だ」
アズさんは口をつけた小皿を俺に向ける。俺にも味見をしてほしいらしい。
「アズさんが作ったものにケチをつける隙間なんてないでしょうに」
「いいだろう。こうしてみたかったんだ。アタシに旦那がいたらきっとこうする」
「……」
そういえば、アズさんに求婚されたことがあったのを思い出した。本気なのか冗談なのかは未だよく分からないが。
「いただきます」
俺は小皿を受け取り、残っていた出し汁を飲み干す。味が薄いというか、優しい味というか、塩分控えめというか、俺には少し物足りない味。だがアズさんの体にはちょうどいいのだろう。
「美味しいですね。これはこれで」
アズさんの碧眼が揺れる。その気になれば嘘も見抜けるアズさんの目が俺を見つめる。
「嘘というよりは気遣いか。剣災には物足りなかったようだな」
「アズさんの目にはこれがちょうどいいんでしょう? アズさんの体が優先です」
「……かわいいやつめ」
アズさんは俺から小皿を受け取り、調理を終了して配膳に移る。そして俺と一緒に会議室を借りて食事をとることにした。
味噌の風味が俺の体に染みわたる。なにこれすげー安心する。思い出したくないはずの故郷の嫌な思い出が美化されてフラッシュバックする。母さんの顔が見えた気がした。
「剣災、もう小間使いは飽きたか?」
俺が金髪碧眼美女の作った豚汁で懐郷の念に駆られていたら、その金髪碧眼美女に話しかけられる。
「正直言うと飽きましたね。でも今の俺にできる仕事なんてそれくらいです」
「安心しろ。アタシが教えられる間は少しずつ、アタシが教えていく。他の連中も教えられる。剣災は良い職工になれる。――しかし、お前は本当に職工に成りたいのか?」
ふっと豚汁をいただく俺の手が止まる。
俺が成りたいもの。成れるもの。
宮廷騎士に成りたいという気持ちに揺らぎが生じているのは自覚している。そして、職工に成りたいという気持ちはどこか希薄だ。
職工には簡単に成れるだろう。ここで働く以上は職工だ。アズさんの指導を受ければ人並み以上の職工にもなれるはずだ。しかし、
「情熱が足りない」
俺の心を読んだかのように的確なアズさんの言葉。口はおろか、モノローグにも出したくなかった言葉。
「今のお前は血気盛んなわりに情熱が中途半端だ。まるで二兎を追う獅子のように」
「……」
二兎を追うものは一兎も得ず――――故郷の古い言葉だ。
「アズさんは俺にどうしてほしいですか?」
「それを言うと、お前はさらに困る。だから言わないでおく。今はお前が決める番だ」
「さらに困る、ですか」
アズさんが俺になにを求めているのか。気になるが今は気にしないようにしよう。
今話しているのは俺が何を求めているのか、だ。
成りたいものを目指すべきか、成れるものに落ち着くべきか。
どちらにせよ俺に足りないのは――情熱。
絶対にそれに成ってやろうという強い意志。気概。精神。
剣を持てば戦える。しかし剣を持たない俺には戦意が足りない。平和的に夢を叶えるために一番重要なものが抜け落ちている。
――厄災の子だ。
ふと故郷で言われた言葉を思い出す。山賊達を一掃した時にかけられた言葉だ。山賊にではなく同じ生き残った村人に言われた。
殺すためだけに走り回り、剣を振り、哄笑を上げ、また走る。
それが齢十三の時の俺が宿した狂気――いや、病気か。
あの時から俺は殺意のみで動いてきたのかもしれない。
しかし、今は手綱を握ってくれる人がいる。その人と一緒になら、その人のためになら、俺は進むべき道を見つけられるかもしれない。
「最後に決めるのは俺自身です。でも、一人きりで考えることじゃない」
「なら、お前はどうする?」
いつの間にかアズさんは食事の手を止めて俺を凝視していた。それに気づいて俺は彼女に微笑む。
「ララに率直な意見を聞いてみます。あいつは太陽みたいなやつですから」
きっとひどく情熱的な意見を物理的にぶつけてくれるだろう。俺がなよなよしていて足踏みしていたら、見かねて激怒したら股間を蹴り上げてくるだろう。
そういうやつなのだと、俺は知っている。
第二章2話目です。よろしくお願いします。