第二章01 竜との契約
まず、努力をしろ。次に努力をしろ。そして努力をしろ。最後に努力をしろ。そうすれば、次の努力が待っている。
***
さらさらと雨が降り頻る季節が来た。
雨季だ。
広大な版図を持つヴィクトリア帝国の中枢、首都ヴァレリーとその近郊では季節を六つに分けて呼称している。春――つまり春季、次に雨季、夏季、秋季、冬季。最後に恋季。
つまり、一年間を六分割した場合、今は降雨量の多い雨季であり、春と夏の境目である。
『汝、余の服が乾いておらんでありんす』
「そりゃあ、連日、湿度が高いと乾くものも乾かねえわな」
眠気で屍のように答える俺を睨むように紅玉の瞳が不満に揺れる。
「……なんだよ」
『許そう。乾かすがよい』
つるつるの鱗に覆われた純白の尻尾が艶めかしく俺に指示する。
「俺にできるわけねえだろ。勝手に俺の評価を高めないでくれ」
魔法をまともに使えない俺に衣服を乾燥させる術などないのだ。
『じゃあ、余は今日全裸で店番をしろというのかえ?』
銀髪赤眼で半人半竜の少女、ルビー・メタル・シルバー。
彼女が画材屋で全裸接客をしている様を想像して即座に脳裏に薄い靄がかかる。
「……他に服があるでしょうが。ララからのおさがりのきゃ~わい~やつが」
『今日は紫の気分なのでありんすっ。知っているでありんすか? 紫は高貴な色なのでありんす』
「人が紫を選ぶ心理は欲求不満からきていると聞いたことがある」
『汝が余を悦ばせてくれぬからでありんす』
「酒も飲めない年端も行かない女を弄ぶ趣味はねえ」
もちろん今のルビーはちゃんと寝間着を着ている。寝間着っていうか、俺のワイシャツ一枚なのだが。ちなみにルビーのそのワイシャツが俺の今日着る予定の服でもある。
『あーはいはい。なんだか目が疼くぞえ』
「ずっる……!」
まだルビーが全盛期の鋼竜だった時、俺がトドメの一撃で蹴り潰したのが彼女の紅玉色に輝く片方の瞳である。後悔はしていない。あの時ああしていなければ俺は死んでいたのだから。ただし、傷が残っていないとはいえ、女の目を潰したのは間違っていないと言えなくもないので多少はばつが悪いのだ。
どんな雨でも洗い流せないものはある。
『くふっ』と髪を弄びながらルビーは妖艶に笑い、俺の「対応」を待つ。
「なにが目的だ」
『女心が分かっておらぬな。察するのが愛情でありんす』
「別にお前に対して愛情はない。扶養義務も本当はない」
べし。
ルビーの尻尾で頬をひっぱたかれた。
『メスとオスが出会ったらやることはひとつでありんす』
「その気もないのにからかうためだけにそういうこと言うのやめろ。痴女って言われるぞ」
『汝だけの痴女アイドルでありんす』
ルビーが上手いこと言った感を出しながらひらたい胸を張る。まったく上手くない。なんだそりゃあ……。
俺からすればルビーの実年齢はともかく、見た目年齢は十四かそこらで妹程度にしか思えないのだ。――いや、かわいい店のアイドルか。そして俺がドラゴンアイドル『護悪』のプロデューサー、略して『護悪P』だ。なんか俺のPの使い方しっくりこねえな。
護悪P云々はともかく、現に俺とルビーは何週間も同棲しているが、潔白通り越して無色透明もいいところだ。
物理的にルビーが夜這いを仕掛けてきたこともない。
つまり、彼女のそれは軽口であり戯れ言でもあるのだ。
『――――まあ、冗談は抜きにして、今日は所用でララが迎えに来ぬ。それがどういう意味か分かりんす? ケンシロー・ハチオージプロデューサー?』
ハッ! そっちのほうがしっくりくる! 俺、ハチオージPだ! ハッPだ!
「……今日の朝食は俺が作ることになるな」
『そう。つまり今日、余は死ぬ』
「俺の料理に殺傷力はねえよ! 殺意高い系ドラゴンが!」
鋼にして氷を司る竜。宮廷騎士を千人も殺してきたと悪名高い伝説の元鋼竜である。
『――――であるからして、今日の朝餉は外で食べたい。さすれば今日のところはこっちの地味なカーキ色の服で我慢してやろう』
「服を撒き餌に目的は外食かよ……この家の経済状況を分かって言ってんのか?」
『分からぬな。預金残高を言うてみるなんし』
「えーっと……言えるか! 俺だって見栄くらい張りてえんだよ!」
悪いが貯金残高を言えば俺の評価は地を抉る。少なくとも四桁はある。左隣にマイナスが付く特典付きだが。赤い。出血大サービスとはこのことだ。サービスできていないけれども。ルビーに健全なサービスをしてもらいたいくらいだ。
『今日だけでありんす。焼き立てのパンが食べたいのでありんす』
「パンか……」
パンは挽いた小麦にバターとか塩とかいろいろ俺にはよく分からないものを混ぜ、発酵させ、焼き上げるという若干高級品なのだ。焼き立てとなればなおさら。買えない。
「なるほど、『焼き立てのパン』が食べたいんだな?」
『失礼。余の言い方が悪かった。「焼き立ての美味い」パンが食べたいのでありんす』
「……」
くっ、俺が適当に小麦粉を練って作って茶を濁そうかと思ったのに! 俺に美味いパンなんて作れるはずないだろが!
「ルビー。ちょっと俺、今から掘られてくる」
『いや、パンを買うためだけに男娼になる必要はないぞえ?』
「じゃあ我慢してくれ」
『ええー? プロデューサーのくせに!』
ルビーがとんでもなく渋い顔をして甘えてくる。なんとしてでもパン食べたいガールな顔だった。
とはいえパンを買う金などない。ララにたかって金を借りればパンくらいは買えるが、あいにくララは今朝いない。宮廷で絵画の勉強会に出ているのだ。皇帝陛下の肖像画を描いた実績から招かれたらしい。あとは豪商の家柄とかの関係もあるのかも。
そもそも、ルビーを養うための金・モノを今までララから借りてきたからはっきりいって、負債が増えるからあまりその手は使いたくない。
「……」
困った困った。ケンシロー・ハチオージは困った。こうかはばつぐんだー!
今回は完全なルビーのわがままだが、可愛い女の子のわがままくらい叶えられない男がこれから先なにを成し遂げられるというのか。
「よし、ルビー。仕事場に行くぞ。焼き立ての美味いパンを食べさせてやる」
『仕事場……未来堂に? なにを言うておるのでありんす? 余に画材などを食べる嗜好なぞないなんし』
「ふっふっふ、ルビーはまだまだベビーな考え方をするんだな。俺の激烈スマートな作戦はこうだ! ――――アズさんに作ってもらう!」
『……』
銀色に白けたルビーの視線が注がれる。痛い。
「画材もブーツも作れちゃう器用なアズさんだ。パンくらい作れるだろ。なによりあの人は胸が大きい」
『なるほど。あの小器用な変態巨乳女ならパンくらい作れるかも知れぬ。パンみたいな胸をしておるしな。確かに手触りはふかふかというか、もちもちというか……』
金言術師として申し分ない『視る力』を持つアズさんなら絶対だ。これでアズさんが料理苦手な人種だったらそっちの方が可愛いからどっちにしても俺の勝ちだ。
……って、え? ルビーさんはアズさんのお胸をもしかして……?
「んじゃ、さっさと着替えて仕事場に行くぞ。始業時間に間に合うように早めに家を出ないとだな」
『くふふ、これだから余はケンシローが好きでありんす』
「言ってろ。殺意高いアイドルドラゴン」
都合よく使われている感は否めないが、恩やらエゴやらはお仕着せられるうちに着せておくのもコミュニケーションというものだ。
俺は着ていた寝間着を脱ぎ、ルビーの着ていたワイシャツのボタンを上から順番に外していって、彼女を下着だけの姿にする。
眩しいくらいに純白でひんやりとする冷たい肌が露出し、ルビーはやさしく燃える紅玉の瞳を俺に向ける。
俺は上半身裸。ルビーは下着姿の半裸。憲兵がここに居たら俺は確実に牢屋行きだ。
かなしいかな、毎日こういうことの繰り返しなのに俺には色事の機会が全くないのだ。
「後は自分でできるか?」
『くふふ、ボタンの外し方はまだ難しいでありんすが、付けるのは習得したでありんす。それより焼き立てパンの約束は成ったということでよいでありんすな?』
ルビーは言いながらララのおさがりであるカーキ色の服を身に纏う。
「ああ。竜と人との契約だ。お前も契約も守ってやるよ」
もう何個もルビーとはお約束やら契約やら誓いやらを立てている。今さらの話だ。
俺が仕事着に着替え終わったところで彼女を見ると、彼女の着替えも終わっていたところだ。
ふと思う。俺は液体のパンの方が好きだな……なんて。
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