第四章10 男女以上恋人未満
誰彼時を過ぎ、窓から差し込む月明かりに照らされた恋しい少女の頬を撫でる。
涙を押し殺して泣き疲れたララはあどけない顔で眠っていた。
「寝顔はやっぱり美少女だな」
起きている時も美少女だと思えるようになったのは、恋のお蔭か、病気のそれか。
それとも俺は恋の病で仕事をしていたのか。
俺は部屋を出て甲板へ向かった。
「やあ、ケンシロー君。丁度いいところに来たのだね。今、夕食を持っていこうと思っていたところだったのだよ」
釣竿をもって甲板で釣りをしていたフィールが俺に気づいて声をかける。
「ああ……」
「おや? ララさんは?」
「――ちょっとだけ、悪い事をしていた」
こいつになら、あらぬ勘違いを受けてもいいと思った。
「ふふん。傷心、という顔をしているね。上手く出来なかったのかい?」
「……」
こいつのあらぬ勘違いは、少し漆黒趣味が過ぎる。どういう思考の飛躍をしてやがんだ。
「……レンナは?」
「ララさんが怖いと言って、先に夕食を済ませて部屋に戻ったよ」
「お前は何してる?」
「食事がてら暇つぶしに釣りをね。ああ、でも……もうやめようと思っていたところさ」
彼が釣り糸を引き揚げると、釣り針が先についていなかった。何のための釣りだよ。
「今日の夕飯は?」
「麦パンと蒸留酒さ。ふやかして食べ給え」
船旅一日目から乾きものか。心が渇いているというのに。
「操舵室に行こう。これからこの船を加速させる。明日の朝ごろにはタリア島に到着する。猛スピードになって危ないから甲板に出る鍵は締めておくよ」
フィールに促されて、大の男が二人入れば精一杯の狭い操舵室に入る。
【操舵室】と名は付いていても、舵輪の類はなく、あるのは魔力を込める金属の棒だけ。
そこにフィールが手を触れると、船が加速する。
加速して、左右の丸窓から見える景色が目まぐるしく変わる。変わるといっても、外は月と星しか見えない夜空だったからそこまでの違いは分からないが。
「なにかに悩んでいるという顔をしているね。相談していくかい?」
……。こいつに借りが出来るのは嫌だが、ここで前に進めなくなるのはもっと嫌だ。
「……じゃあひとつだけいいか?」
フィールは静かに麦酒の入った杯を傾ける。どうぞ、ということか。
「――――両想いの相手と恋を成就させるにはどうしたらいい?」
「ぶっ――」
フィールが口に含んでいた酒を抑え目に噴いた。
「なに笑ってんだよ。……真剣な悩みだぞ」
「笑ってなどいないさ。――ただ、君とララさんは既に恋仲なのだとばかり……」
「――」
両想いの相手と言っただけなのにララが出て来るとは。そんなに分かり易かったか。
「そもそも、その相談は少し気味が悪いよ、自覚はあるかい?」
「分かってるよ」
ララは俺のことを好きだと思う。あれだけ同僚という言葉にショックを受けていたのだ。きっと友達以上の関係には至っていると思っていたのだろう。俺だって本音ではそう思っている。
だから、俺がララに恋を告白すれば、きっと恋仲になるのは容易いはずだ。しかし、
「――恋仲で仕事を続けるのはしんどいと思ったんだ」
恋愛感情が高まれば、きっと仕事に支障をきたす場面もあるだろう。だから、容易く好きだとは言えない。劣情に身を委ねることなどできない。
仕事とララのどちらが大切かと聞かれたら、ララと答えられる。ララの為なら仕事なんて捨てられる。しかし、ララの為に仕事を捨てたら、ララを護ることができなくなる。
――他のやつらとの約束を履行できなくなる。
ルビーに自分が稼いだ金でパンを食べさせられなくなる。ずっとその契約を先延ばしにし続けていた。ルビーはまだ、呆れながらも待ってくれている。
アズさんも、ローゼも、リシェスも待ってくれている。
俺は皆から力を貰って、待たせている。
一番大切だという理由だけで、他の大切をなげうっていいわけじゃない。
この感情が本当に幸せなのかよ、店長……!
「フィールは考えなかったのか? フォルテに惚れていて、もし恋仲になったとしたら――」
「ふふん、さすがに身分や階級もあるから一緒の職場で仕事というのは、一概に問題ないとは言えないものがあるね」
宮殿外の治安を維持する宮廷騎士団屋外調査室の室長と副長という立場が恋仲になるのは問題だろう。公私混同することになるのは避けられない。若い身空で上司・部下から反感も買うことになるだろう。
「しかし、ケンシロー君たちはただの街の画材店の従業員だろう? お互いが好き合ってさえいれば、恋仲自体が問題になるとは思えない立場に映るけれど?」
ララが剣に成り、俺が剣を振るう。そこだけ見ればたしかに仲が良くなるのも当たり前に見えるが、他の連中はどう思うのだろうか。
アズさんは、俺に愛情を抱いてくれている。恋愛感情の縺れを仕事に混同するようなことはしないだろうが、彼女の心になにか大きな負荷をかけてしまわないだろうか。
ルビーや、ローゼや、リシェスも同じように、俺とララのために変に気を遣うことにならないだろうか。
――俺とララの関係が彼女たちの負担になったりしないだろうか。
もしララとの関係が上手くいかなくなった時に、他の連中は――――
「俺とララが恋仲になって、それで他の連中は――」
「ケンシロー君の今の表情を色々な人に見せてやりたいよ」
「――あ?」
「今の君の顔はまるで、ララさんと破局することを前提にしているような顔だよ」
「――――」
こいつは本当に、俺の顔が見えているのか?
「……だってあいつには、親が決めた婚約者がいるし」
「心底好きなら、関係ないよね?」
「だってあいつには、……宮廷画家に成る夢があるし」
「本当に好きなら、不可能ではないよね?」
「お前は何が言いたい!?」
フィールの言い方ではまるで俺のララへの想いがニセモノみたいに聞こえるではないか。
「君のララさんへの想いを否定したりはしないよ。しかしね、明確に恋をしていると認識したのはいつなんだい? 実はかなり最近、とか?」
「……さっきだよ」
ララと半裸で同じベッドの上で目覚めた朝に、漠然と恋しいと思った。
ララに向かって口だけ動かして喋り、あの時、明確に恋しいと思った。
俺の答えを聞いて、フィールは自分の黒髪を撫でつける。
「まだ、君は自分の想いに整理が出来ていないんだ。表情や内情、発している言葉が噛みあっていないと見受けられる」
「……っ」
「自分が恋をしていると認識して、舞い上がっているように見えるね」
「――」
舞い上がっている? 俺が?
「……たしかに、俺は人を愛せないんじゃないかと思っていた。前にフォルテの手紙に書いてあったんだ。――俺は鈍感な自己愛と敏感な他者愛を抱えてるって」
フィールはただ、俺を見る。
「他人のことを気遣いすぎるあまりに、自分の感情を蔑ろにしているって意味だと思うんだ。自分の感情を蔑ろにするから、俺は自分が誰を恋しく思っているだとか、愛しく思っているだとかが分からないんだ。だから、ララを異性として好きだと思えて、舞い上がってるのかもな」
「舞い上がっているけれど他者愛が敏感すぎて、考えすぎて上手く接することができない?」
「……そうだな」
ララを慮るあまり、ララのことを決めつけで考えてすれ違う。
鈍感な自己愛と敏感な他者愛。
この場合の「鈍感」は良くも悪くもない言葉で、
この場合の「敏感」も良くも悪くもない言葉で、
つまり今の俺は良くも悪くもない只人の男なのだ。
一利なければ一害もない。薬でも毒でもない男。
「俺はララのことを、男女以上恋人未満だと思っていた。でも、もしかしたらそれは……」
俺はそこで言葉を矯め、
「違うな。俺はやっぱり舞い上がっているんだ。それで、今はよく説明できない」
フィールは麦酒を飲み干して、操舵室の椅子から立つ。
「ケンシロー君。ララさんと一度、唇を交わしてみるのはどうだろう? キスさせてくれと頼めば、きっと彼女は拒否しない。それで気持ちが冷めればそれまでだし、高まればそれ以上の関係・行為に及ぶだろうね」
「今からかよ」
「君にとってはそうだろうね。僕にとっては今さらに映るけれど」
「……興が乗ったらな」
「ふふん、聴覚は鈍感にしておくよ」
……興が乗ったら、の話だろ。
「明日の朝にでも成果を聞かせておくれよ」
フィールは俺に夕食の麦パンと酒を盆に乗せて手渡し、自室に戻ろうとする。
「フィール」
「――?」
彼を呼び止め、ひとつだけ質問をする。
「お前、過去に女を抱いたことは?」
フィールは薄く笑い、そして背を向けて答える。
「数人だけだよ」
彼はそう言い残して今度こそ自室に戻った。
俺は操舵室に一人残って立ち尽くす。
手の盆には二人分の硬いパンとそれを柔らかくするための酒。
未だ男女以上恋人未満のあいつは素直に食べてくれるだろうか。
第四章10話目でした。そして作品中第100部分目でした。
10月から初めていつの間にかここまで来ることができました。応援ありがとうございます!
これからもよろしくお願い致します!