舞台上の彼女
かなり短い話です。
自殺を思わせる描写があります。
名前は知らないが、顔は見たことがある。
体育ではけらけら笑いながら校庭を走り回っていたし、クラスメートが教科書を借りに行くところも見た。
それなりに友達に囲まれていて、移動教室や全校集会に埋もれていた。
それはあまりに平凡で、だからこそ僕は気が付かなかったのだ。
「何で?」
語彙力の無い僕にはそう問いかけることしかできなかった。
そんな彼女は今、フェンスの向こうにいる。
声を発することすら躊躇われるほど不安定な足場と空気が、苦しくて苦しくて、息が出来ない。
「何でだと思う?」
彼女は少し不機嫌そうだった。
この場にそぐわないほど純粋に、ご機嫌斜めな心持ちを顔で表していた。
問われた言葉に、答えが思い浮かばない。
ほんの少しの空気の震えとその意味が、彼女の足場をいとも簡単に崩してしまいそうだ。
そんなリスクを負えるほど、僕には準備できていない。
「ていうかさ、あんた誰」
彼女は問いを重ねた。
それは尤もな問いだった。
そしてお互い様だった。
校内で、廊下で、課外授業の先で、人波に埋もれる顔を見たことがあるというだけ。
僕は彼女が誰なのか知らない。
何故ここにいるかも知らない。
ただ1つ分かることがあるが、それを口にするにはどうにもバカバカしい気がして躊躇われた。
「僕…は、2-3の…」
「そんなのどうでもいいよ。興味ない」
我ながら律儀に名乗ろうとしたが、彼女はそう切り捨ててそっぽをむいた。
下からの上昇気流が彼女の前髪を搔き上げる。
鬱陶しいだろうなあ、とどこか呑気な自分もいた。
「僕は別に…その」
「なに」
「此処に来たら…君が居て」
「で?」
「それで、どうしようと思って…」
彼女は眉間の皺を深くする。
そうだろう、僕とこんな冴えないキャッチボールなんて。
たった今自分でウンザリしているところなんだ。
「どうもしなくていいから、どっか行って」
「え…」
「興味ないでしょ、あんたも私に」
「……でも」
情けない話だが、この時点で僕の脚は棒のようだった。
まるで機能停止したみたいに動かず、冷たくなってしまっていた。
だから彼女がどんなオーダーをしようと、僕の頭がどんなに命令しようと、動けずにただ黙るしかなかった。
その様子を見て、彼女は更に機嫌を悪くしたらしかった。
「何なのよ。見物?趣味悪いね」
「そんなんじゃ…」
「じゃあ何よ、止めるつもり?何様なの?」
畳み掛けられて俯いた。
適切な答えが僕の手持ちにない。
何て言ったら彼女は怒らないだろうか。
何て言ってしまったら彼女は歩き出してしまうのだろうか。
「…わからない」
わからない。
わからないというのが僕の答えだった。
彼女がどうしてそこないるかも、僕が何故動けないかも、僕が何をすべきなのかも、全てが未知との遭遇だった。
「わからないって、何が」
また聞き返されて、ようやく僕もウンザリしてくる。
ここまで一方的に問い詰められていい気分はしない。
僕にもそれくらいの感情はある。
「どうして、そんなことするの?」
努めてハッキリと話したつもりだ。
効果はあったらしく、彼女は少し目を見開いた。
それから気まずそうに目を伏せ、再び顔を上げた時には少し笑っていた。
「どうしてかな。私にも分からないよ」
「……」
「でもこれだけは分かる。私物凄くダサい」
「…何だそれ」
少しおどけて見せた表情は、僕が日常に紛れて見たことのあるものだった。
そうだ、彼女はそんな顔をして、いつも笑いの中にいた。
彼女を頼ってくる者、親ってくる者、見守っている者。
その周りには沢山の、沢山の人がいたはずだ。
それなのに何故、彼女はここにいるというのだろう。
「学校の他に、悩みがあるの?」
自然とそんな問いが口から溢れた。
しまった、と思った時には遅かった。
あまりに迂闊で安易な問いだった、と。
しかし彼女はそんな焦りなど知りもせずに答えた。
「無いよ。何にも無い」
「……」
彼女はフェンスに指をかけて、網目の向こうからこちらを見た。
それは世界の壁のようで、まるで彼女と僕の住む世界が決定的に異なっているようだった。
異空間だ、そこから先は。
彼女と僕の間にある、空間の隔てられた世界だ。
「じゃあ、どうして…」
彼女には友達がいて、仲間がいて、見守る大人がいる。
時に失敗をして、時に怒られて、それでも最後には周りと笑っているような、そんな彼女ではないのか。
極々ありふれた学生生活を送り、卒業し、呼ばれた同窓会で懐かしみ合う関係性を築いている、そんな人物ではないのか。
僕がどんなに願っても羨んでも手に入らなかったものを、軒並み全て両手に抱えた存在だった、はずではなかったのか。
「私がこうする理由なんて、あんたには知る必要が無いでしょ」
「……」
彼女はまるで舞台の上にいるかのように両手を広げた。
フェンスに絡んでいた指が離れる。
胃がぞくりと震えた。
「友達もいる、勉強も嫌いじゃない、先生とは仲良し、帰ったら美味しい夕食も一緒に食べる家族もいる。ちょっと面倒だけどバイトは順調だし、部活ではまずまずの成績。受験?特に迷ってないし、不満も無い」
彼女は笑っている。
こんなに底の見えない笑顔は初めてだ。
「ねえ、それが理由になると思う?」
問われて、答えなくとも俯いた。
それは僕には理由になり得るものだ。
「悩みがない。不満がない。五体満足で、環境に恵まれている。この私が今ここにいるのは、そんなにおかしい?」
言葉を返さない僕に対して、彼女はより舞台役者のように振る舞った。
どこか楽しんでいるようにも見えた。
僕は相変わらず言葉が浮かばないまま、足も動かない。
しかし時間が過ぎるにつれ痛々しい緊張感は薄れていった。
まるで慣れてしまったような、弛んだ空気に変わりつつある。
彼女はそこにいて、今も話をしている。
この先起こり得る事態は永遠に来ないように思えた。
なら彼女は何故そこにいるのだろう?
考えられる有り触れた全ての推測を否定したのは彼女自身だ。
尚更訳がわからなくて、困ってしまう。
そんな困る気持ちもあれど、心を占めたのはもっと激しい思いだった。
「おかしいよ」
ぽつりと、やっと返した。
人の目を見られない僕だったが、舞台上の彼女のことは真っ直ぐ向き合えるらしい。
「だって、おかしいよ」
「……」
「友達も沢山いて、先生にも認められていて、帰ったら家族がいて、あったかいご飯を食べられるのに。それなのに、そんなところで、何をするの。おかしいじゃないか」
今思えばとても幼稚な話し方だったろう。
それでも彼女は黙って聞いていた。
聞きながら、それを否定することもなかった。
勿論肯定も無かったが、彼女は判断する気すらないようだ。
「人が何か行動する時、そこには必ず目的があるでしょ」
彼女はそう答えた。
そうして初めて、風が吹き上げる端から下に目をやった。
ちらりと向けられた視線が、何かを辿る。
校庭の方から何かが聞こえた。
微かな悲鳴、呼び声、怒号。
彼女はそれらを見下ろしてから、何事も無かったかのように僕に向き直る。
「私だって同じ。目的が、あるの」
「……」
「ただそれが、あんたの思っていることと同じじゃないだけ。分かる?まあ分からなくてもいいけど」
最後は自分に言い聞かせるかのような呟きだった。
なのに僕には鮮明に届いた。
届いても理解はできない。
だって、僕なら、僕ならば。
「ねえ、飛んで欲しくない?」
唐突に彼女は問うた。
僕に、僕自身の判断を問うてきた。
それは安易に答えられないものだった。
だから、発するにはあまりに小さくか細くなってしまった。
「…うん」
「本当?」
「うん」
「心からそう言える?」
「うん」
「名前も知らない私なのに?」
「うん」
頷くだけでも、決して軽い返事だと思われたない。
心底そう思っている。
それは間違いない。
僕は、彼女が今ここで宙に放り出される未来を、受け入れ難いと思っている。
できることならフェンスの内側に戻ってきてほしい。
そのまま僕の日常に溶け込んでほしい。
「なら、叫んでよ。大きな声で」
「…え?」
次の要求も唐突だった。
だから思わず聞き返した。
しかし、気付けば彼女の指がフェンスに戻ってきている。
チャンスだと思った。
「やめて、って、言って」
そんなことでいいのか、と思った。
が、そう求めてきた彼女の表情はどこか諦めの影が差していた。
その意図を探る猶予は無い。
「…やめてよ」
「もっと大きい声で」
「飛ばないでよ。頼むから」
「もっと」
彼女は俯いている。
おかげで表情は見えない。
フェンスにしがみついたまま頭を垂れる様子は、幽霊のようにも見えた。
「落ちないで」
「足りない」
「飛び降りなんてしないで」
「それで?」
「こっちにきて!戻ってきてよ!」
風で揺れる前髪からほんの少しだけ見えた瞳は、僕ではなく、僕の後ろを見ていた。
何だか背後が騒がしい。
だけど僕は言葉を発した。
それは自然に飛び出した。
「死なないでよ!死ぬなんて嫌だよ!」
その瞬間、彼女は顔を上げた。
そしてまっすぐに僕を見据えた。
「自分だって、死のうとして来たくせに」
瞬間、悪戯がうまくいった子供のような笑顔で。
***
宙を撫でる白い指と、散らばる髪は今でも鮮明に覚えている。
そして、その一瞬前に見せた、あの笑顔も。
僕は、悲鳴を上げながらフェンスに駆け寄っていく大人に突き飛ばされて、地面に倒れ込んだ。
だから視界は暗転してコンクリートに変わったし、足音と人の声に紛れて、決定的な接触音も聞けなかった。
だけど大人達の反応から一目瞭然だ。
彼女はもうこの世にはいない。
本当に異世界にいってしまった。
永遠に手の届かない舞台に吸い込まれてしまった。
結局彼女がそうした理由に関して、後から様々な憶測が飛び交った。
俗なワイドニュースが取り上げた中には、仮面夫婦だった両親、不治の病説、呪いの存在まで囁かれていた。
しかしどれも断言できる根拠はなく、持ち上がっては消えるだけのものだ。
僕と同じように、世界も彼女のことを理解できなかったらしい。
だけどきっと、彼女は僕のことを少なからず見抜いていた。
例えば平凡な日常に価値を見出していたこと。
例えば彼女の名前を知らないこと。
そして、あの日僕こそがあの場所から飛び降りようとしていたこと。
『自分だって、死のうとして来たくせに』
その通りだった。
孤独や物理的な痛み、劣等感、空腹から逃れるため、僕は学校の屋上に入り込んだのだ。
そうして偶然彼女と出会い、見事先を越されてしまう。
彼女が飛び降りた時、僕は彼女を止める台詞を吐いていた。
もっと大きな声で、と要求され応えていた。
馬鹿げた話だ。
死ぬためにそこにきた人間が、死のうとしている人間を止めるだなんて。
彼女もその滑稽さを楽しんだのだろうか。
底の浅い僕には分からない。
けれど、その状況は大人達に尤も効果をあげていたようだった。
あの日の僕は、立入禁止の屋上に入り込む彼女に気付き、偶然居合わせ、目を離すことも大人を呼ぶこともできないままただ説得を試み類。
地上で彼女を発見した大人達が慌てて駆け付けるが間に合わなかった。
必死の説得の甲斐もなく、彼女は僕の目の前で飛び降りてしまう。
そうして僕は心に深い傷を負った。
それが大人達の得たストーリーだった。
僕は僕の知っていることを説明したが、“目撃者の錯乱”“未成年の不安定さ”で全て同じ物語に戻された。
結局あの舞台の筋書きは後から来た観客に塗り替えられてしまった。
それが何となく、惜しい気がしている。
そうして僕は、大人達のシナリオの中十分なアフターケアと見守りが置かれることとなった。
勿論、当初企ててていた自殺などできるはずもない。
最期の場所に選んだ屋上も封鎖された。
環境を整えられた僕には、自殺する理由も薄れていった。
彼女が死んだおかげで僕は生き延びるという、極端な皮肉が出来上がってしまった。
こうして数年の時が過ぎた今でも、彼女の目的は分からない。
何かから逃げたかったのか、知らしめたかったのか。
大人達が作り上げた有り触れた筋書きを、彼女はどう思うだろうか。
残った世界が純粋に彼女の目的だったとするならば、僕はこの命が今も続いていることに最高の自惚れを抱いてしまうのだ。
後味が悪かったらすいません。
モヤっとした話でデビューしました。