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わらふ、つの

作者: 朝凪

「僕はこれで。今日は終日社におりますので」

 浅井が立ち上がる。古びた畳がギュ、と鳴った。「何かありましたら」とだけ言葉を繋ぎ、彼は足早に部屋から出て行った。私は傍らの煙草盆を引き寄せながら溜息を吐いた。

「何かあったら、何なのだろうねえ。あれは有能だけれど、皆まで言わないから些か困る」

 私の正面に座る少年は曖昧に頷いた。縁側で風鈴がりりんと歌う。昼下がりの淡い光が部屋を包む。

「煙草を吸うけれど、良いかな」

 少年は、今度ははっきりと頷いた。私は淡く微笑み、煙草を摘まんだ。指先で緩く捏ねながら、少年を眺める。

 薄気味悪いくらいに白い顔をした少年だった。のっぺりとしたその顔にはほとんど陰影がない。少年の黒いひとつの瞳は、どこか一点をぼんやりと見つめていた。決して美形ではないが、絵になりそうな容貌だ、と思った。

「浅井は有能だけれど、人を疑うことを知らない。純粋だが狡い男だよ。君はあれに騙されたのかね」

 雁首に固めた煙草を詰める。台所の方で、かたかたと小さな音がした。郁代さんは、もう夕餉の仕込みを始めたのだろうか。私と彼女以外食べる人はいないのだから、こんな刻限から張り切る必要などないだろうに。

「若い日々を、可惜こんな場所に捨てさせることはなかろうに、浅井は厭な男だよ」

「……本の」

 少年が言葉を発する。掠れた声だった。「奥付で、編集部の番号を知って、あなたにお目に掛かりたいと言ったら、浅井さんに繋いで頂けました」

「取り次いでくれたのは、誰だった?」

「白石さんとおっしゃる女の方です」

「運が良いね、君は。彼女はとても綺麗な声をしているから、私も彼女が出るととても嬉しくなる」

 少年は落ち着かなげに開襟シャツの襟を触った。乙女のように繊細な指だった。短く切り詰めた爪が一揃い並んでいる。シャツの胸には、桜を象った校章が刺繍されている。羅宇に火を入れながら、私は縁側に目を遣った。冬は殺風景な庭も、今の季節は青い。伸び放題の草々が、甘やかな光に照らされている。ほう、と煙を吐くと、目の前が半ば程白く染まった。

「何故、私なんだい?」

 庭を眺めたまま、私は尋ねた。真っ赤な金魚を買おう、とふと思った。庭に飾れば映えるかも知れぬ。

「私は詰まらない人間だよ。売れ筋の作家でもない」

「あなたの御本が素晴らしく感じられたのです、僕には」

 少年の声は、些かくぐもっていた。乙女のように恥じ入って俯いているのかも知れぬ。私はすぱすぱと煙草を吸った。あっと言う間に吸い終わる。

「光栄だね……。君のような年少者に読んで頂けるだなんて」

 尤も大人も読まぬのだがね、と笑いながら、私は煙管を灰吹きに打ち付けた。ぽろりと灰が落ちる。炭を足すべきだろうかと考えながら、また煙草を捏ねる。

「よく、お笑いになるんですね」

 少年は泣きそうな顔をしていた。私からは見えぬが、きっと黒いスラックスの上で拳を固めているのだろう。「イメエジと違うかい、私は?」私はまたしても笑いながら尋ねた。

「ええ。お書きになるものは、どれも厳めしいですから。……でもそんなことはどうでも良いのです」

 先に仄かな朱色を差した繊細な指が、今度は右目を撫ぜる。正確には、それを覆う眼帯を。医者のくれるような、白い眼帯だった眼帯の清潔さは、少年の肌と変わらぬ程に白かった。

「何故、とはお訊きにならなのですか」

 少年は私の顔をまじまじと見詰めた。水を孕んだ声音とは裏腹に、そのひとつの瞳の色は、墨のように乾いていた。

「訊いて欲しいかい、君は?」

 私は訊き返した。少年は俯き、心地悪そうに尻をもぞもぞと動かした。「いいえ。……問われても、お答え出来ませんから」

「答えられぬのが答えだよ、君」

 煙管を咥えながら私は言った。しかし具合がどうにも気に食わぬ。

「どうでも良いんだ、私には。君が私を選んだという、その一点だけで良いのだよ」

 吸い差しの煙管を灰吹きに打ち付けた。カンと高い音がした。乱暴に扱えば、どこかが割れるかも知れぬ。近頃は羅宇屋が少なく、滅多に修理することも出来ない。だが、大切に扱おうという気持ちは湧かなかった。

「私は何も訊かないよ、君。君が喋るべきと思ったことを喋り、すべきと思ったことをすればそれで良い」

 卓袱台に乗った湯呑の中を覗き込む。香りの良い、老緑の煎茶だった。郁代さんは今日は随分と良い茶を出したようだ。湯呑の隣には、ぷるりと震える水饅頭。浅井の分は出さなかったのが、郁代さんらしい。

「では、ご覧に、なって下さい」

 少年はゆっくりと右目の眼帯を外した。繊細な白い瞼が現れる、と思った。

 右目には、空洞が広がっていた。

 ぽっかりと空いた黒い穴だった。「文字通り、脳裏が見えそうだね」私は言った。脳裏とは、一体どんなものかしら。美しい髄が、広がっているのかしら。

「ええ。でも見えないのです」

 少年は言った。「何も」

「ただ黒いのだね」

 私はそっと少年の傍らに回り込んだ。少年は私を見上げる。私の形の影が、少年の顔を彩る。ぞくりとする程に肌理の細かい肌をしている。生きた人間であるのが酷く惜しい。顎を摘まんで虚ろを覗く。成程虚ろである。眼窩はただ黒ひとつに染まっている。つつ、と下瞼をなぞると、少年の硬い喉が震えた。

「オヤ」

 私は指を眼窩に突き入れた。脳裏は生温かった。蕩けるような心地好さ。「あ」と少年の肩が跳ねる。

 ざらりとした心地のそれを、私はゆっくりと引き出した。「あ、あ」と少年は小さく息吐く。小指の長さ程露出したところで、それの形を知る。

「牛の角だね」

 硬い乳白色の、牛の角。緩く先の尖ったそれが、少年の眼窩から飛び出している。

 先端を摘まんで、ずるりと引き摺り出す。一息には出来ぬ。ほんの爪先程ずつ引き摺り出す。その度に少年は喉を震わせる。私の袖口を掴み、ひとつの瞳で私を見詰める。その瞳は何も語ってはいなかった。

「ああ、あぁ」

 少年の右の眼窩からみっちりと、牛の角が突き出した。眼窩一杯の牛の角。目許の肌に深い皺が寄っていた。角の淵をくるりと撫でる。ざらりとした感触が、とても好い。

「フム。実に美しいね」角に鼻を近付ける。何の匂いもしない。残念なことだ。

 ぎゅ、と少年は私の腕を掴んだ。思いの外力が強い。桜貝のような爪が、私の皮膚に食い込んだ。

「ふふ。悪いね、君。すぐに戻してあげよう」

 角の先端を指で押し込む。何の抵抗もなく、角はずぶずぶと生温かい眼窩に沈んでいく。指が眼窩に呑み込まれる程深く角を押し入れると、ふと硬さを見失った。少年の手が私から離れる。

「仕舞いだよ、君」

 襟元を正す少年に、私は言った。すっかり温くなった茶を啜る。良い茶は冷めても美味い。

「ありがとうございます」眼帯を付けながら少年は頭を下げた。白い線が、白い半面を横断する。

 古びて焼けた畳を、西日が彩る。縁側から眺めた空は金色に染まっていた。ふと見ると、煙草盆の火が消えていた。

「あなたに会って良かった、と思います」キャンパス地の鞄を肩に掛けながら、少年は言った。少年の開襟シャツもスラックスも鞄も、夕日の朱色を刷いていた。

「まるで君自身がそう思っている訳ではないかのような口振りだね」私は片眉を上げて笑った。

「そうかも知れません。……あなたは本当に良く笑う方ですね。書かれるものは、あんなに厳めしいのに」

「この笑顔が反映されたものを、ひとつ書いてみようかね、君の為に?」私は己の頬を指差した。依然ぺったりと笑みが貼り付いている。

「いいえ……それはあなたらしくありませんから」

 浅井さんや白石さんにもよろしくお伝え下さい、と頭を下げ、少年は帰って行った。

「ふふ」

 一人含み笑い、私は執筆に取り掛かることにした。あまり原稿が遅れると、浅井は怒るだろう。しかしまだ何も書いてはいない。原稿用紙はまっさらである。着想すらなかった。困ったものだ、と私は笑う。あの少年は、物語の種にはならぬ。

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