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第二章/2

第二章/2



 その日の放課後。


 最初のうちはできるだけ毎日会った方がいいんじゃないだろうか。という弥子の意向で昨日と同じように俺たちは旧校舎の第一音楽室へとやってきていた。


 俺と弥子と、姫宮さんの三人。


 静かな第一音楽室にはときおり、外で部活動をしている生徒たちの掛け声が響いてくる。

 俺たちが来たとき、どうやら姫宮さんは昨日と同じように古びたグランドピアノのすぐそばの席に座り、頭にはオーバーヘッドタイプのヘッドホンをかぶって本を読んでいたようだった。俺たちに気づくと、本をとじヘッドホンも外し、小さく会釈した。


「迷惑じゃなかったかな?」

 すこし申し訳なさそうに弥子がたずねた。


 姫宮さんは心もとなげに、膝もとにおいたヘッドホンのコードを指でいじりながら、

「……いえ、大丈夫です」

 と答えた。


「そっか、それならよかった。あのね、これ」

 弥子は鞄の中からけっこうな量の紙束を取り出し、それを姫宮さんの机のうえに差し出す。


 それは授業のノートのコピーだった。一学期が始まってから今日までのぶんらしい。


「余計なお世話かもしれないけど、いまクラスでどんな授業やってるのかなーっていう目安になればいいなって」

 少し照れくさそうに弥子は頭をかく。


「ありがとうございます」

 抑揚の少なめな静かな声で姫宮さんはこたえると、ノートのコピーを何枚か手に取り目を通していた。


 俺も一緒になって何枚か手に取り、見てみる。

「へえ、きれいにまとめてるじゃないか」


 ただの板書の書きうつしというわけではなく、体裁もきれいに整えられているし、重要そうなところにはチェックや補足説明を入れたりと工夫がみられる。ところどころに、そのときに思いついたらしいダジャレのメモが注釈されているのがたまにきずだが。


「高校受験とかもあるから、ちょっと本気を出してみようかと。へへへ」


 弥子の成績は中の上から上の下といったところと記憶しているが、今年はとくに気合いを入れているらしい。


「あ、でも先生からちょろっと聞いたんだけど、未恋ちゃんって成績いいんだよね。あたしのノートじゃ役に立たないかも」


 弥子は遊園地の絶叫マシンに乗ろうとした子どもが身長制限で乗れなかったときのような歯がゆそうな顔をした。


「いえ、そんなことはありません。ノートも、参考にさせていただきます」


 やはり落ち着いた口調で謙遜気味に姫宮さんはこたえる。絶叫マシンに乗れなかった子どもを励ますようなほがらかな表情をしていた。


「でも、学期はじめに学力調査の試験あったでしょう。あれ、総合で一番成績がよかったのって未恋ちゃんだったって」


「姫宮さんも試験受けたのか?」

 気になったので割って入って尋ねると、


「はい。場所はこの教室で、ですけど」


「へえ、そうなのか。すごいじゃんか」


 成績のよろしくないじぶんの立場でいうのもなんだが、俺は素直に感心していた。

 授業に顔を出していないわけだから、頭の良し悪し関係なくテストのたぐいは苦手なんじゃないかと思っていたのだが。


「ふだんから勉強してるのか?」


「授業時間にあわせて、ここで自習を」


 姫宮さんは机のわきに置いた鞄をちらと見る。その中に自習道具が入っているのだろう。


「みなさんが授業の間、わたしもここで、参考書や教科書をつかって。休み時間や放課後は本を読んでいることが多いですが」


 たしか姫宮さんが教室へこなくなったのは昨年度の三学期あたりという話だったから、かれこれ四ヶ月ほどそうしているということか。

「でもまあ、自力でちゃんと勉強して、結果も出しているのは偉いんじゃないか。俺だったら三日坊主で勉強なんてそっちのけにして漫画やゲーム三昧になっちまいそうだ」


「偉くなんて、ありません」

 姫宮さんは申し訳なさそうにかぶりを振った。

「授業時間にあわせて自習するのは、先生からここにいる許可を得るための条件……約束ですから」


 彼女のくちぶりからすると、この第一音楽室にいることを選んだのは姫宮さん自身なのだろう。そりゃあ先生たちからしてみれば、できれば教室に、最低でも保健室に来てもらいたいだろうから、予想していたことではあるけども。

「そういえばさ、どうして姫宮さんはこの音楽室に来るようになったんだ?」


「えっ……」


 ただでさえ静かだった場がより一層、しんと静まり返った。


「えっと……」


 姫宮さんは授業中に難解な問題を答えるように指名されてしまった生徒みたいに、困り果てて黙ってしまった。


 つい、話の流れで出てしまった言葉だったが、いってすぐに失言だったと反省した。


「そのことについては、ごめんなさい」

 姫宮さんはまぶたを伏せ、そのまま頭を下げる。顔を上げたあとも、その表情は心なしか哀しげに見えた。


 弥子も気まずそうに俺と姫宮さんの顔を交互に見ている。と、近くにあったピアノを見て閃いたように、


「カ、カズくんさ! ピアノ弾けたよね!」


 やけっぱち気味に弥子が叫んだ。


「ああ、まあ弾けるっていっていいのかわかんねーけど……」

 俺はしぶしぶこたえた。たしかに一曲だけ、小学生の頃に練習して弾けるようになった曲があるにはある。


 弥子のいいたいことはわかる。このまま沈黙の空気はまずいから、俺がピアノを弾くことでそれを話のネタにしようということだろう。


「……そう、なんですか?」

 姫宮さんが意外そうにたずねた。


「いや、ほんと弾けるなんていっていいようなレベルじゃないよ。ピアノを習ってたわけでもないし、一曲だけ」


「でもけっこううまいんだよ」

 ハードルをあげるようなことを平気でいう弥子である。


 俺は言い訳気味に、

「小学生のころにさ、学校で音楽会っていう行事があったんだよ。ふつう小学校のクラスわけってのはそういう行事のときにピアノを担当できる子がいないと困るから、クラスにひとりはピアノを習っている子がいるように配分されるんだけど――」


「へーそうなんだ」

 感心気味に弥子が相槌を打った。それとは対照的に姫宮さんは無言で俺の説明を聞いている。


「ただ、俺たちの学年にはピアノを習っている子が少なくて、俺を含めてクラスにはゼロだった。だから音楽会のときにピアノをできるやつがいなくて、誰でもいいから頼まれてくれないか……って流れで俺がやることになったんだよ」


「なんだかんだで頼られると断りきれずに頑張っちゃうのはカズくんのいいとこだもんねー」


 なにか含みがあるような気がして、ちらと横目で弥子をにらみ、話を続ける。


「俺もピアノなんてやったことなかったから、それから毎日放課後に音楽の先生のとこに行って、楽譜の読み方もそっちのけでとにかく指の動きだけを徹底的に叩きこんだんだ。だから弾けるのはその一曲だけ。それも小学生にできるレベルのな」


 俺は肩をすくめてみせた。ピアノが弾けるといえばたしかに聞こえはいいが、ベートーベンだのショパンだのいわれてもまったく区別がつかないし、そもそも俺みたいな無精者にピアノなんてスマートなものは似合わない。


「聴かせてください」

 しかし姫宮さんはそういった。


 俺はすこし驚いた。姫宮さんの方からこちらに興味を示してくれたのはこれが初めてだったからだ。話題を切りだしたのは弥子――こちらからだが、それでもこれはちょっとした前進、収穫なんじゃないだろうか。


 弥子の方も、ボウリングでガーターばかり出す友だちが珍しくストライクを取ったときみたいに「おお」とでもいいたげな顔をしていて、たぶんいま鏡を見たら俺は弥子と同じような表情をしているんだろうなと思った。


「わかった。でも、あんまり期待しないでくれよ。ほんとうにたいしたことないから」

 いいながら俺はすぐそばの古びたグランドピアノへとむかう。


 古び具合がむしろアンティークっぽさをかもしだしているピアノ椅子に腰をおろし、ピアノとむきあった。


 グランドピアノは全体的にほこりをかぶっていて、こちらもどことなく古びて見える。とくに屋根のあたりはうっすら白くなっている。ほこりなので、雪を散りばめたように……とはさすがに思わなかったが。屋根の隅あたりに『寄贈 第二十三回卒業生一同』という文字が刻印されているがそれもかすれていて、じゃっかん読みとりにくい。正確にじぶんが何期の生徒かなんて覚えていないが、逆算するとおそらく二十五、六年くらい前のピアノということか。


 鍵盤蓋をあけて適当に鍵を叩いてみる。音はちゃんと鳴るみたいだ。

 調律に関してはよくわからないが、音にこだわりがあるわけでもないのでよっぽど外れてない限りは心配ないだろう。


「それじゃ、弾くぞ」

 俺がいうと、姫宮さんは小さくうなずき、そっと瞳をとじた。耳を澄まして、感情を落ち着かせて音に耳を傾けよう、そんな雰囲気だが、期待に添えるかどうか……と思うといささか不安だ。


 俺はふーと息を吐き、鍵盤にそっと指をおいた。ここと、ここをおさえて……という、いかにも素人な覚え方だが。


 よし、と心の中で自分に合図を出し、演奏を開始する。


 最初はやさしく和音を鳴らす。当時小学生ながらにこの寄り添うような音の重なり合いがきれいで心地よいと思ったものだ。


 広がった和音を、すかさずダンパーペダルを踏んで引きのばす。じんわりと広がっていく余韻の波に乗せるように、右手でやさしくリズミカルに打鍵していく。小気味よく、跳ねるようにと音楽の先生に教えられたのを思い出す。


 曲は昔に流行ったアーティストのウェディングソングなので、けっしてピアノソナタ第何楽章みたいな大それたものではないのだが、耳馴染みのよいメロディーと落ち着いた曲調が俺は好きだった。


 寄せては返す波のように左手で順に和音を流し、右手では軽やかに短音を乗せていく。


 小学生でも弾けるようにと考えられたアレンジなので、実は単純な運指やコードの進行を主に構成されているのだが、音楽経験のない俺にとっては難しく、どこかぎこちない。


 物静かな教室に、ピアノの旋律だけが響く。古いピアノとはいえ、鍵楽器の儚くやわらかい音色はじゅうぶんに美しさを感じさせる。


 しっとりとした伴奏に、少し浮かれた明るい旋律が乗る。穏やかな水面に、次々と波紋が広がるように音は響き、消えていく。


 そして徐々に旋律は力強さを増し、パンッと弾ける。


 比較的、動きの複雑な前奏が終わった。本来なら歌が入る部分へと繋がるので、伴奏の方はうってかわって緩やかになる。


 そして区切りのいいところで演奏を終えた。


 どう弾くんだっけと思い出しながらの、いわゆる身体が覚えているという状態での演奏だったので、ぎこちなくミスも多かったのだが、弥子はぱちぱちと拍手をしてくれた。


「けっこう間違えたけど、まあ素人の演奏だから勘弁してくれ」

 俺は照れ隠し気味にいいながら、席を戻る。ちょっと顔が熱い。こんな熱くなるのは、風邪をひいたときかサウナを出たときくらいだ。


 目をとじて聴いていた姫宮さんは、目をあけるとゆっくりと俺の方を見て、

「やさしい演奏をされるんですね」

 そういった。


「カズくんにやさしいって言葉が贈られるなんて、ピアノさまさまだねー」

 弥子はにやにやしながら茶化しをいれる。俺としても、褒められると少し背中がむずがゆい感じがする。


「いえ。本当に心が落ち着く、やさしくて明るい音色でした。わたしは、好きです」

 姫宮さんの表情はどこかせつなげで、何かを懐かしむような目をしていた。そしてそのままグランドピアノを見つめていた。


「ほめられて良かったね、カズくん」


 弥子が小さく耳打ちする。もちろん姫宮さんの言葉にはある程度下駄をはかせている部分があるんだろうけど、ほめられて悪い気はしない。

 少し照れくさくて、俺は頬をかいてみたりなどしてみる。


 と、そのときどこからかブゥゥゥンという低く、くぐもった音が聞こえた。


「あ、いけない」

 弥子が慌ててポケットから携帯電話を取り出した。メールがきたらしい。さっと目を通すと、

「ごめんね、演劇部のメンバーに呼び出されちゃった。行かなきゃ。そろそろ練習が詰めの段階に入るから、あんまり遅刻できないんだよね」


「いやそこはふだんから時間通りに行くようにしろよ」

 俺が軽くつっこむと、弥子は両頬を不満そうに膨らめて、


「いつもは練習がはじまるの遅めなんだよー。でもほら、こんど文化部発表会があるでしょ? 今年はそれが五月の二十九日になっちゃったから練習時間がすくないの」

 弥子は愚痴気味にそういった。


 M中学ではいわゆる文化祭、学校祭というような行事がおこなわれない。昔はあったらしいのだが、授業時数だか教育課程だかの都合で廃止になったらしい。その補てんを兼ねているのかはわからないが、毎年五月から六月の間に一日だけ、午後の二限ぶんの時間をつかって、いくつかの文化部や有志の発表会というものが行われる。今年はそれが五月の二十九日(再来週の火曜日である)という比較的早い時期に決まっているらしい。


「まあたしかにそれは大変だな」


「でしょー。先生たちの都合もあるんだろうけどさ、生徒のことも考えてほしいよね」

 ぶつぶつと文句をたれながら弥子は、「それじゃまたね、未恋ちゃん」とそのときだけ笑顔になって第一音楽室を出ていく。


「……はい」

 姫宮さんはこくりと頷き、弥子を見送る。


「それじゃ俺も帰るかな」

 ぐーっと伸びをし、あくびをすると、俺は鞄を肩にかける。

 姫宮さんに簡単に別れの言葉をかわし、第一音楽室を出た。

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