第一章/3
第一章/3
そして話は冒頭へと繋がるわけである。
旧校舎には美術室や音楽室、実験室や工作室などの特別教室が設けられているのだが、そのどれもが新校舎の方にも同様にある。「第一~」と頭につく教室は旧校舎に、「第二~」とつく教室は新校舎にあるのだ。
基本的に、現在では旧校舎側――第一の方の特別教室は使われていない。
授業ですでに新校舎側の特別教室が使用されているときに、べつのクラスが学級活動なりなんなりで使いたいという場合に代用される程度だ。よって旧校舎に人が立ち寄ることじたいが珍しい。
他人と関わりたくないのであれば、たしかに旧校舎の教室というのはうってつけの場所なのかもしれない。だが、どうにも整合性が取りきれていないような印象が残る。
たとえばクラスメイトとの交友関係に何かトラブルがあったのだとすれば、べつに旧校舎まで行かずとも素直に保健室に行けばいいはずだ。それで充分、クラスメイトとの関わりは抑えられる。
それよりもさらに極端なパターンで誰にも会いたくない、他人と関わりたくないというのであれば、それこそ家にひきこもるのではないだろうか。
もちろん、これは俺がそう思うというだけであって、その子にはその子なりの許容できるラインというのがあるのかもしれないし、まったくべつの事情というものがあったりするのかもしれない。
ともかく、話を聞いてみないことにはどうにもならないか……そんなことを考えているうちに旧校舎の最上階(三階)へとたどりついた。
「えっと、音楽室は……あっちだね」
弥子が旧校舎の東へと廊下を進んでいく。旧校舎へ来ることなどめったにないので記憶はあいまいだが、たしか第一音楽室は旧校舎三階の最東端にあったはずだ。
俺も弥子のとなりについて歩いていく。
うらさびしい無人の校舎を進み、だんだんと目的の教室が近づいていくにつれて、姫宮未恋とはどんな人間なのか、ひきこもっているような人間だからなかなかコミュニケーションをとるのも難しいだろうとか、やはり学級委員だからといって個人的な事情に足を踏み入れるようなことはしない方がいいのではないだろうかとか、そんな面倒くささや気後れを感じてしまう。
第一音楽室に到着し、ドアの前で立ち止まる。
二枚板のスライド式ドアにはそれぞれ小窓が付いていたが、すりガラスになっているため、覗きこんでも中の様子はわからない。
弥子は制服のポケットから鍵を取り出し(担任の武山先生からあらかじめ預かっていたらしい)、それを縦長の錠に差し込む。
「ほら、カズくん。鍵あいたよ」
持ち前の明るさが滲み出た嬉々とした笑顔をむけた。これから新たな友人をむかえにいくのだとでもいうように。
俺としては、そううまくいくとも思えないというのが本音ではあるが。
「さ、いくよ」
掛け声をひとつ、弥子は古びたドアに手をかけると意気揚々とスライドさせた。
夕陽とともに、中の光景が目に飛び込む。
旧校舎の教室はめったに使われることがない。だから機械的に整列された机や、その周辺に並んだ楽器も古びていて、うっすら埃をかぶっている。
においもやはり、自分たちが普段使っている教室とは違った独特のものが鼻をつく。
傷だらけになった木目調の床と、灰色に薄汚れた木製の壁や天井を、夕陽の橙色が淡く照らしている。
ここが古びているからだろうか。じぶんたちが普段使う教室よりやや広いくらいのこの空間は、まるで時間の流れから取り残されてしまったような、昔のモノクロ写真を見たときに感じるような、退廃や懐旧の色を帯びているように見えた。
そんな寂れた教室の窓辺。古びたグランドピアノのすぐ近くの席に例の少女(と思しきひと)はいた。
物悲しい空気の一室をかざる置物みたいに、ぽつんと椅子に座っている。制服もおろしたてみたいにやけに綺麗で、よけいに作り物めいた、人形のような雰囲気を感じさせられる。
突然俺たちがやってきたことに驚いたのだろう。ワンテンポ遅れて少女はこちらの方へ振り向いた。物憂げな表情がわずかに変化して動揺の色を見せたような気がした。
黒髪の、おとなしそうな女の子だった。
その手には文庫サイズの本(小説だろうか)があって、余計に物静か、内気、おしとやか、そういった静的な雰囲気を強めている。
ただ――。
奇妙なことに、そんな彼女のおとなしそう、物憂げといったイメージには似ても似つかない、それこそラジカセを担いだヒップホップな外国人がつけていそうな大きくてごついオーバーヘッドタイプのヘッドホンを、彼女はかぶっていた。
俺たち三人の視線がぎこちなく交錯して、数秒の沈黙が室内に漂った。
彼女は澄んだ黒い目を丸くして、無言のままこちらを見つめている。読んでいた本は閉じて、膝のうえに置いていた。
なんだか学校版座敷わらしでも見たような気分になって、俺は姫宮未恋(と思しき人)をただぼんやりと眺めていた。
べつに弥子の説明を信じていなかったわけではないのだが、ああ本当にいたんだ、とか、ならばなぜ彼女はこんなところにこもっているのだろうとか、そういった疑問が頭の中に浮かんできて、次の行動へ移れなかったのだ。
それはこの第一音楽室の彼女も似たようなものだったのだろう。
おそらく、めったに人が来ないはずの第一音楽室に、教員ならともかく、なぜ生徒がやってきたのだろうかと戸惑っているのではないだろうか。
沈黙を破ったのは弥子だ。慌て気味に、
「あ、えと……はじめまして! あたし、三年三組の学級委員をやってます、鳴河弥子です! それで――」
弥子は商品紹介をする通販番組のプレゼンターみたいに両手の平を俺にむけて、
「こちらはカズくん!」
と紹介した。いちおう「どうも」といいつつ頭をさげてみる。
が、相手はぼうっとこちらを見つめたまま。
数秒の間を置いてから、
「あ……っ」
かすかに聞きとれる程度の小さな声をもらし、頭のヘッドホンに手をかけた。
そのままそっと外すと、ヘッドホンを膝のうえ(厳密には膝のうえに置いた本のうえ)にのせた。よく見てみるとヘッドホンのコードが足元に置いた鞄の中から伸びている。中にウォークマンか何かが入れてあるのだろう。
「ごめんなさい。その……きこえなくて」
涼やかな、透き通るような声だった。ただ、やはり俺たちに戸惑っているのか、すこし遠慮がちな声量ではある。
「そっか、それもそうだよね。ヘッドホンつけてたら、きこえないよね」
失敬しっけいと反省気味に舌を出しながら、弥子は彼女の方へと近づいていく。俺もそのあとに続く。
適当に近場の席に腰をおろし、あらためて弥子と俺は順番に自己紹介をした。そのあと、
「はじめまして。姫宮未恋ともうします」
彼女も丁寧にお辞儀。
なんだ、第一音楽室にひきこもっているというからもっと陰気とか根暗といった感じの子をイメージしていたのだが、思っていたよりふつうの子じゃないか。そう思った。
弥子や小次郎みたいなあっけらかんとした明るいやつというふうではないけれども、おしとやかで上品な良い子、顔立ちもいいから男子なんかには人気が出るんじゃないだろうか。
「あの、どういった御用件でしょうか」
じゃっかん不安げに姫宮さんが尋ねた。
「えっとね、クラスのことなんだけど、未恋ちゃん、教室にきてないでしょ? もしよかったら、来てほしいなーって」
開幕3秒以内のノックアウトを狙っているボクサーみたいに、弥子はいきなり話の核心をついた。まずは事情を聞こうという予定だったのに、初手がど直球とは。弥子らしいといえば弥子らしいが。
「あっ、えっと、もちろん、事情とかそういうのもあると思うし、無理にっていうわけじゃないんだけどねっ」
俺の視線での訴えに気がついたのか、両手を振りながら慌てて補足を入れる弥子である。
「…………」
姫宮さんは下をむいて、無言。
無視というわけではなく、何かいいたいのだが何といえばいいのかわからなくて、言葉を持て余している。そんな様子だった。
押し殺すように小さく息を漏らすと、視線を逸らして完全に沈黙してしまった。
「えとえとー……!」
なんだか気まずい雰囲気になりつつあると察したようで、弥子はおもむろに立ち上がり、
「と、とりあえずさ、空気の入れかえでもしようよ。やっぱり旧校舎の教室って空気があまりよくないっていうか、乾燥してるっていうか、重いっていうかー」
空気が重い原因は古さじゃなくて俺たちだが、それについては黙っておく。
立ち上がった弥子は近くの窓へと寄り、手をかける。
そのままあけようとしたのだが――
「あれー? なんか新校舎の方の窓とは鍵のつくりが違うみたい。あけにく……い」
ガチャガチャと鍵をいじくりまわしている。
「どうあけるんだろ、この窓……」
四苦八苦したのち、
「は! カズくん、思いついたよ!」
思いついてしまったらしい。鍵の開け方を思いついたのなら良いが、おそらくそっちではないのだろう。
「……なんだ」
「ふふ。この窓、まどろっこしいなぁ~」
やってしまった。しかも弥子はすさまじく笑顔だ。だが当然、弥子以外にはまったくウケていない。
ただでさえぎくしゃくしていた空気に、悪い意味で流れを変える爆弾が投下されてしまった。いや、爆弾なら騒がしくなるだろうから、やはりここは水だろうか。ことわざ通りの水を打ったような静けさだった。
「あの、その鍵は、横にあるボタンを押しながらじゃないと、まわらないんです」
見兼ねてか、姫宮さんがおずおずと助言をする。
「あ、そうなんだ。ありがとね、未恋ちゃん」
がらがら……と弥子は窓をあけるが、侵入してくる晩春の夕風がむなしさを助長するだけだった。
「お前は時と場合を考えろ。ったく」
頭をぽかんと叩きつつ(つっこみであって決して暴力ではない)、ちらと姫宮さんの方を見てみたが、どう反応していいのかわからないようで、第一音楽室の隅へと視線をさまよわせていた。
「う~、ごめんカズくん。あたしとしたことが……」
「いや。もうお前らしすぎて清々しいくらいだよ……」
気を取り直し、
「姫宮さんは、いつもひとりでここに?」
今度は俺から質問してみることにした。
彼女はすこし考えてから視線をあげてこちらを見ると、小さく頷いた。
「朝、武山先生が、登校の確認をしに。それ以外は、ひとりです」
「給食のときはどうしているんだ?」
「学校へ来る前に、とおりがけのコンビニで、お弁当を買っているので、それを」
「じゃあ、朝以外は誰にも会わないのか」
「はい。日によっては、休み時間中に、先生が様子を見にくることもありますが」
姫宮さんは丁寧に受け答えしてくれる。
澄んだ声でゆっくりと。言葉を区切りながら話すのは、ひとつひとつ考えながら発言しているからなのだろう。思いついたことをすぐに口走る弥子とは正反対のタイプだ。
他にもいくつか聞いてみたところ、どうやら朝の七時半くらいに登校し(部活動の朝練があるような生徒以外はまだこないような時間だ)、夕方の五時くらいに下校しているらしい。第一音楽室にとじこもっているといっても、当然ながらここで暮らしているわけではない。
そして学校にいる間、この音楽室から出ることはほとんどせず、ひとりで一日を過ごすのだそうだ。
もうすこし踏み込んだこと――どうして教室に顔を出さなくなったのかをきいてみようとしたところで、姫宮さんがいいにくそうに、
「あの、今日はこのあたりで」
そう遮られてしまった。
いちおうクラスメイトとはいえ初対面の人間に根掘り葉掘り事情をきかれるのも嫌だろうし、なにも急いで姫宮さんを教室につれてこなくちゃいけないわけでもない。無理に居すわっても得られるものは少ないだろう。
俺は軽く弥子に目配せをし、
「そうだな、今日はもう帰ることにするよ。悪かったな、突然押しかけちゃって」
「いえ、そんなことは」
姫宮さんはわずかに首を振った。
「さ。いくぞ、弥子」
弥子を促して俺は音楽室をあとにする。
「そだね」
弥子も俺のあとについて歩き出し、
「あ、未恋ちゃん!」
と、途中で慌てて立ち止まる。
「はい……?」
不思議そうな顔で応答した姫宮さんに、
「また、来てもいいかなっ?」
弥子はそう問うた。
姫宮さんはほんの小さく首を縦に動かしたような気がした。