第十章
第十章
――俺と先生が資料室に行っている間。弥子と小次郎は、帰宅前に保健室へ寄って姫宮さんに会いに行ったらしい。
しかし保健室には誰もおらず、姫宮さんの鞄だけが残っていた。鞄があるのだから一時的に席を外しているだけだろうと考え、ふたりは保健室で待つことにしたのだが、けっきょく戻ってきたのは別件で出ていた保健の先生だけだった。
何かあったのではないかと話し始めたとき、姫宮さんの鞄の下にノートの切れ端のような紙が挟まっているのを弥子が発見したのだそうだ――
「これ……」
弥子がその紙を差し出す。
俺たちは一旦保健室に集まっていた。この場にいるのは武山先生と保健の先生、そして俺と弥子と小次郎の五人だ。
俺はそれを受け取り、内容に目を通す。
メモといっても、そこにはたった一言『ごめんなさい』と書いてあるだけだった。
ただ、昨夕から今朝までの姫宮さんの様子を考えるともしかしたら……と最悪なケースが頭をよぎる。
「とにかく姫宮を探そう。見つけたら保健室に連れてきてくれ」
武山先生がいう。
「はい」
俺たちは手分けして校内を探すことにした。
先生たちが三階、小次郎が二階、弥子が一階を見ることになった。
俺は校舎外を見ることにして、まず渡り廊下を進んで体育館へむかった。
しかし体育館のドアには鍵がかかっていて、中に入ることはできない。確認できないのは心許ないが、姫宮さんが体育館の鍵を持っているとは思えない。中にはいないだろうと結論付けて、俺は校舎に引き返す。
今度は校庭を見てみようかと思い、靴を履き替えに下駄箱まで行く。
「ああ……そうか」
ちょうど下駄箱のまえまで来たところで気がついた。
姫宮さんの下駄箱に靴があれば、彼女はまだ校舎内にいるということになるじゃないか。勝手に見て良いものかどうか迷ったが、状況が状況なのでしかたないとじぶんに言い聞かせる。
確認してみると、姫宮さんの靴は残っていた。上履きのまま外に出たのでもない限り校舎内にいるはずだ。
校舎内に戻り、廊下を歩きながら俺は姫宮さんのいそうな場所を考える。
ふつうの生徒ならじぶんのクラスや、部活動で使用する教室、あとは図書室のような解放されている特別室だろう。しかし――。
「弱ったな……」
姫宮さんはいつも旧校舎の第一音楽室にいて、しかしもうその場所は燃えてしまっている。唯一の選択肢ともいえるそれが、すでに無くなってしまっているのだ。
いや――。
待てよ、とじぶんに言い聞かせる。
俺は早とちりしていたのかもしれない。
旧校舎が燃えて使えなくなったといっても、それは学校の活動として利用できなくなり、立ち入り禁止になっただけだ。
危険だが、入ろうと思えば、入れないことはない。
やはり姫宮さんは今日もまた、第一音楽室に行ったんじゃないだろうか。
あのピアノを見に行ったんじゃないだろうか。
そして、そこで――。
「馬鹿っ……!」
俺は廊下を駆けた。
旧校舎に姫宮さんがいる確信はない。だが、自信はあった。なんども彼女に会って、なんども彼女と話したあの場所に、彼女はきっといる。そう思った。
新校舎の最南端に到着する。
立ち入り禁止という立て看板が置いてあり、その奥に旧校舎へ行くための渡り廊下につながるドアがある。
立て看板を無視してドアノブに手をかける。
鍵はかかっていなかった。内側からなら鍵がなくても自由に開閉できるつまみ式のロックのドアなので、ここを姫宮さんがすでに通っていて、だから鍵があきっぱなしという可能性は充分にある。
ドアをあけて、渡り廊下を進む。
旧校舎の入り口前まで来た。火災のときこちらまでは火が来ていなかったので、この辺りの外観はいつもと変わらない。
いつもならここのドアもあいているのだが――。
「駄目か」
ガチャガチャとノブを回すが、びくともしない。さっきのドアとは違って今度は外側からになるので、鍵なしではあけることができない。
「くっそ……どうするか……」
俺はできるだけ冷静になるようにじぶんに言い聞かせて、考えてみる。
もし姫宮さんが旧校舎の中にいるとすれば、このドアの鍵がかかっている理由として考えられるのはふたつだ。
ひとつは、最初鍵はあいていたのだが姫宮さんが中に入ったときに内側から施錠した可能性。
もうひとつは、最初からここの鍵はしまっていたという可能性。
前者なら今から職員室にでも行って、事情を説明して鍵を借りてこないと俺にはどうしようもない。
後者なら、鍵を持っていなくても旧校舎の中に入る手段があるということになる。
べつの手段……窓を割れば入れるか、と乱暴な発想をしてみたが、姫宮さんがそんなことをするとも思えない。
仮にそれをやろうと考えたとしても、男の腕力ならまだしも、女子の姫宮さんにはそんなこと――
「いや……それでいい」
じぶんの頭の回転の悪さが嫌になる。
俺は上履きのまま渡り廊下から外に出て、旧校舎に沿って走った。
旧校舎を囲むように張られた立ち入り禁止のロープの内側を進んでいく。
新校舎とつながっている入口とは反対側、旧校舎の最東端まで行く。
「ここだ」
一階。第一家庭科室。出火原因はガスによる爆発だった。その影響で窓が割れているのは当然、壁も壊れかけている。
壊す方法もなにも、最初からここは壊れているんだ。
「ここからなら中に入れる」
窓枠をよじ登る必要もない。壁の崩れた部分から中に入れる。
俺は割れたガラスに気をつけながら、家庭科室へ。旧校舎への侵入に成功した。
「ひどいな……」
爆発があった場所というだけあって、家庭科室の中はかなり崩壊していた。
壁も天井も焼け焦げていて、とにかく真っ黒な空間。そんな印象だ。調理台もほとんど原形を留めていないし、足場には電灯や棚、その他の食器類らしきものが散乱している。
煤を踏みながら家庭科室の中を進む。ドアは吹き飛んでいて、すんなり廊下へ出ることができた。
やはり廊下の周囲も焼け焦げていて、一日経ったというのにまだ仄かに物が燃えたあとの臭気が漂っている。
俺は階段をあがっていく。煤で足をとられないように、ゆっくりと。
前方の段を見てみると、煤が部分的に擦れて消えている。それは楕円形で、丸や波線のような模様がかすかに付いている。いうまでもなく上履きの跡だ。
すでに誰かがここを通ったということになる。
――やっぱり、姫宮さんがここに来ているのだ。
俺はきもちが急くのをおさえて、先を進む。
三階に到達し、第一音楽室の方へ。
ここ数日、ほとんど毎日のように通った廊下は、一階ほどではないにせよ、ずいぶんと変わり果ててしまっていた。クリーム色だった壁も焼けて茶色や黒に変わってしまって、朽ち果てているといってもいいくらいだ。
第一音楽室のまえに到着する。
ドアはすでにあいていた――というより、焼け落ちて外れてしまっていた。
倒れた戸を避けながら中に入る。
そして……
――やはり、そこには姫宮さんがいた。
ヘッドホンをつけて、開け放した窓のそばに立っている。吹き込む風でときおり髪や制服が揺らめいていた。周囲の壁や音楽室の備品はだいぶ焼けてしまっていて、荒野に一輪の花が咲いているみたいだった。
「危ないぞ。こんなところに来ちゃ」
声をかける。ヘッドホンをつけているからきこえないか、と思ったが姫宮さんはゆっくりと振り返った。
タイミングを計ったように、いっそう強い風が窓から吹き抜けてきて、姫宮さんの髪が大きく揺れた。片手で髪をおさえながら、
「……どうして、ここに」
ヘッドホンを外して首にさげると姫宮さんはそう尋ねた。表情は相変わらず物憂げで、思いつめているようだった。
「朝、言っただろ。また会いにくるってさ」
そうこたえながら俺は姫宮さんのもとへ歩み寄る。
「なにしてたんだ? ここで」
「その……ピアノを、見に」
言いよどみながら、姫宮さんは例のグランドピアノを視線で示す。
グランドピアノも他のものと同様に焼け焦げてしまっていて、なんとか原型は留めているものの、楽器としてはほとんど駄目になってしまっているように見える。
「もう、あのピアノとも、お別れです」
下を向いて、そうつぶやいた。すべてを諦めたような、そんな雰囲気だった。
「それだけか?」
俺は端的に問うた。かなり不躾にきこえたかもしれない。
「えっ……」
当惑した様子で、姫宮さんは顔をあげる。
「ここへ来たのは、ピアノの状態を確認するためだけか」
すこし声の力を強めにしてそうきくと、姫宮さんは一瞬驚いたように大きく目をひらき、そのあと力なく、そっと肩を落とした。
そして絞り出すような声で、
「……死のうと、思っていました」
そうこたえた。そのまま視線を伏せて、身体ごとそっぽをむけてしまう。窓の外――真下の校庭を見るかのように。
沈黙になるよりもまえに、俺は話を切り出す。
「あのピアノ、姫宮さんのお母さんと関係があるんだろ」
姫宮さんの肩がわずかに動いた。そして視線を俺から外したまま、小さく頷くと、
「あれが……わたしを生かす最後の綱でした」
姫宮さんは胸元に持っていった両手をぎゅっと握りしめた。
「母は昔この中学の生徒で、吹奏楽部でピアノをしていたそうです。そして三年生になって、卒業生としてなにか寄贈しようという話が出た際に、ピアノの寄贈を提案し、企画を進める中心になったそうです」
弱々しい声で姫宮さんは語る。
「当時使用されていたピアノはとても古いもので、卒業クラスの担任のひとりが音楽の先生だったということもあって、母の案は採用され、あのピアノが学校に寄贈されました」
彼女は思い出を懐かしむような目で、グランドピアノを見つめる。
「わたしがこの中学にあがったときに、母がその話をしてくれました。三者面談で母がこの学校に来たときには、実際にあのピアノで曲を弾いてくれたりもしました」
しかしすぐに哀しそうな顔に戻って、うつむいてしまう。
「自宅で火事があって、母との思い出のあるものが全部焼けてしまったわたしにとって、あのピアノは、母のことを思い出させてくれる唯一のものでした」
「だから、この第一音楽室に通うようになったのか」
姫宮さんは静かに、こくりと頷いた。
「……はい。あのピアノの、そばにいたくて」
「でもさ。ずっといる必要はなかったんじゃないのか? 昼休みとか放課後に来るくらいでも。頼めば先生だって使用の許可はくれただろうし、なにも一日中いる必要は……」
俺が疑問を投げかけると、姫宮さんは首を左右に振った。
「……怖かったんです。目を離したら、わたしの知らないうちに、また大切なものがなくなってしまうような気がして。だから、できるだけ、そばにいたかったんです」
過去に。帰宅したら家が燃えていて。じぶんの知らないうちに大切なものをいっぺんに失って。その経験が彼女にそういう思考をもたせるようにしていたのか。
「でも、もう終わったんです」
姫宮さんはそっと歩き出す。俺から離れるように、べつの窓のある壁際まで移動する。
そして窓をひらく。
また強く風が吹き込んで、姫宮さんの髪が揺らめいた。
「やっぱり、わたしはなにかを好きになってはいけないんです。大切なものを持ってはいけないんです」
その肩が、震えている。
「わたしは、ほんとうに母のことが――お母さんのことが好きでした。大好きでした」
その声が、震えている。
「失いたくなんかなかった。ずっと一緒にいたかった。わたしはお母さんと過ごす毎日のために、お母さんのために生きてきたのに……!」
吹き込む風にかき消されてしまうんじゃないかというくらいに弱々しい声で姫宮さんはいう。
「もう、どこにも、いなくって……。どこを探しても、どんなに呼んでも、お母さんはいなくって……」
姫宮さんが顔をあげる。頬も、唇も、まぶたも、彼女の表情を示すそのどれもが、悲しみに歪み、引きつっていた。
「もう、なにも失いたくない。好きになるたびに、傷ついて。大切に思うたびに、消えていく。そんな日々を続けていくのが、わたしはもう、つらいんです」
まっすぐ、俺を見た。
「もう、死にたい」
その目が潤むと、瞬く間にその水の揺らぎは膨張し、涙が溢れだした。それはまるでコップいっぱいに注いだ水が、許容量の限界をむかえて溢れだしていく様子にそっくりだった。
涙のしずくが頬を伝い落ちていく。
彼女はいま、本気で死を望んでいる。
だけど――
「駄目だ……。死ぬのは、いけない。それだけは駄目だ」
俺は彼女にいいながら、自問自答していた。
こんな言葉をかけていいのか。
こんなことをいう資格が俺にはあるのか。
どうして俺は、姫宮さんが死を選ぶことを引き止めるんだ。
ただの偽善か。正義感か。使命感か。他の誰かが同じように死にたいといったとしても、平等に俺は同じことをいうのか。
いや、違う。
俺は――。
「俺は、姫宮さんに生きていてほしいんだ。姫宮さんがいなくなったら、俺は悲しいんだ」
こんな言葉じゃ、駄目だ。
これは、過去にもいった言葉だ。
そして、否定された言葉だ。
姫宮さんは嗚咽混じりにいう。
「その言葉は、無責任で、残酷です。わたしは、もう、誰かのために生きられないんです。あなたをどんなに悲しませるとしても、あなたをどんなに苦しめるとしても……わたしはもう、これ以上耐えられない」
そう返ってくるのはわかっていた。前に話したときもそういわれたから。
だけど――なんだ――カチンときた。イラっときた。
「俺が姫宮さんに生きていてほしいと思うのは、俺のエゴだ。俺がもっと姫宮さんと一緒にいたいから、俺がもっと姫宮さんと話したいから、俺がもっと姫宮さんのことを見ていたいから――」
俺は姫宮さんの前まで歩いていく。
彼女は一歩、後ずさった。
俺は構わずもう一歩踏み込む。距離が埋まる。
そして彼女の両肩を掴むように手を置く。できるだけやさしくと思っても、どうしても力が入ってしまう。
「俺は姫宮さんのことが――」
「いわないでください」
俺に肩を掴まれたまま、視線を伏せた。
「その先は、いわないでください。わたしのきもちが、揺らいでしまうから」
彼女は力なく首を振る。
「もし、わたしがこのまま生きて、もし、カズアキさんに何かがあったときに、あなたを失ってしまったときに、そのショックに耐えられる自信がないんです。もうこれ以上、苦しむことも、悲しむことも、受け入れられないんです」
姫宮さんは両腕を伸ばし、俺を遠ざけようと、そっと胸を押す。
「駄目だ。いま姫宮さんを離すことはできない」
俺は彼女との距離があかないように、肩を掴む手に、今度は意図的に力を込めた。
「いま姫宮さんを離したら、俺は、俺の大切なものを失うことになる。俺は絶対に後悔することになる。だから――」
「だからそれが!」
姫宮さんが声を荒げた。激しく首を左右に振って、
「それが、わたしを苦しめるんです! わたしはもう耐えられない! 受け入れられない!」
「違うんだよっ! そうじゃねえんだよ!」
だがそれよりも強い声で、俺は彼女の言葉を押しこめた。
「俺にはおまえの悲しみも、苦しみもわからねえよ! なんだかんだで恵まれた人生を送ってきた俺にはくみ取ってやれないくらい辛い思いをお前はしてきたんだろう? だけど、それでも俺は、おまえに生きていてほしいんだよ! 俺はおまえが好きなんだよ!」
「だからそれは――」
「だけどな……! 絶対言わねえぞ、俺のために生きてくれなんて言わねえぞ! どうしておまえは、誰かのために生きようとするんだよ! 誰かに気をつかって生きようとするんだよ! 生きる理由を他人から見つけだそうとするんだよ!」
はっとしたように姫宮さんの瞳が大きく開く。
「死んだ母親のためでもない。お前を心配する友だちのためでも、お前に惚れてる俺のためでもない。おまえは、おまえのために生きるんだろうがっ!」
ふたたび彼女の瞳が濡れて、涙が溢れだした。
「わたしだって――」
泣くのを堪えるように口元をつぐんで、それでもきれいな顔が台無しになるくらい、ぐしゃぐしゃに表情が歪んでいく。かまわず俺は言葉を続けた。
「おまえはなにをしたい。誰かのためじゃない、おまえ自身の、ほんとうの気持ちは――」
「わたしだって、あなたが好きなのよっ!」
叫び声が――第一音楽室に響き渡った。
「なっ……」
俺はびっくりして言葉を見失う。
姫宮さんは俺の胸に顔を押しあてる。嗚咽混じりの声で、
「わたしだって……あなたのそばにいたいの。あなたの声が聞きたいの。あなたに触れていたいの」
しがみつくように俺の制服をぎゅっと掴み、泣き声でつかえながら姫宮さんはいう。
「でも、不安なんです。はじめて恋をしました。はじめて誰かを愛しいと思いました。こんなにきもちが溢れるのは、はじめてで……だから、もしもそれを失ってしまったらと思うと、怖いんです……」
彼女の声は依然として、怯えるように震えていた。
俺はふーっと息をつく。
「大丈夫だ」
そっと肩を押して、姫宮さんの身体を離す。
「俺はいなくならないから」
「……でも」
姫宮さんがなにかいおうとするのを遮って、
「これまでだって、なんども会いにきたんだ。これからだってそうさ。姫宮さんがどこにいたって、俺は必ずむかえにいく」
わずかに姫宮さんの顔に落ち着きが戻る。
「…………」
返事はない。
無言のまま彼女は顔をあげて、互いの視線が交錯する。俺は姫宮さんの目をじっと見て、
「でもそれは姫宮さんのためじゃない。俺がそうしたいから、そうするだけだ。だから姫宮さんも、じぶんのために、じぶんのしたいことをすればいい」
「はい……」
すこし遠慮がちに、でも力強い声で彼女はこたえた。
「……わたしも……がんばってみます。いきなりは難しいけれど、すこしずつ。わたしの、したいことを」
お互いに見つめ合う。
姫宮さんがゆっくりと目をとじた。背伸びをして、ほんの少しだけ彼女の顔が近づく。
――たったいま、いきなりは難しいっていわなかったか?
心の中であたふたと戸惑う俺とは対象的に、姫宮さんは頬を朱に染めながらも、じっと俺のこたえを待っているようだった。
吸い寄せられるように、俺は姫宮さんの唇に、じぶんの唇を重ねていた。
彼女も目を閉じていたし、なにより姫宮さんがいまどんな表情をしているか、それを確認する勇気は持てなくて俺も目を閉じた。
背中だとか腰だとかに手をまわした方が気が利いているかとも思ったものの、身体が思うように動いてくれなくて、けっきょく手は両肩に置いたまま。
第一音楽室の静寂がやけに沈黙を強調しているようで、ほんの数秒が、数十分にも、数時間にも感じられた。
やがて、どちらからともなく離れると、俺たちはほとんど同じタイミングで目をひらいた。
「あの、すごく……どきどき、しました」
目の前に立つ姫宮さんは、さっきの何十倍も頬を真っ赤に染めている。
「ああ、俺も……その、姫宮さんと同じきもち、だよ」
俺は照れ隠しに頬を掻くと(じぶんの頬が熱くなってないか確認する意味合いもあった)、
「そ、そろそろ、保健室に戻ろうぜ。姫宮さんがいなくなって、みんな大慌てで探してたんだ」
「そうですね。……わたし、謝らないと。みなさんに心配をかけてしまって」
ふたりで歩き出す。足もとに気をつけながら、ゆっくりと。
気づいたらいつの間にか俺たちは手を繋いでいて、ちょっと照れくさくなったが、それでも離す気にはならなかった。
「……あの」
と、グランドピアノの近くにきたところで、姫宮さんが立ち止まる。
「どうかしたのか」
「……このピアノと、お別れがしたいんです」
グランドピアノはずいぶんと焼けてしまっている。おそらく近いうちに処分されてしまうだろう。勝手に旧校舎に入ることも今後はないだろうし、このピアノを見るのは、きっとこれで最後だ。
「ああ、いいぞ」
俺がそうこたえると、姫宮さんはピアノに近づいていき、鍵盤蓋をあけた。
焼けた表面と違って、白鍵と黒鍵はきれいな状態を保っていた(もちろんピアノじたいが古いので劣化や変色はしているのだが)。
そして同様に焼けてしまった椅子を、ピアノのまえに置く。
「弾くのか?」
俺がそう尋ねると、
「はい。カズアキさんに、教えてもらった曲を。じつはひとりでいるときも、練習していたんです」
姫宮さんはにこりと、やわらかな笑みを見せた。
「でも、音は出ないんじゃないかな」
俺は横から手をだして、適当にいくつかの鍵を叩いてみる。
やはり思ったとおり、どこを押しても音は鳴らない。ダン、ダンという打音がするだけだ。ピアノ内部の弦やハンマーが完全に駄目になってしまっているらしい。
「それでも、いいんです。このピアノで、弾きたいんです」
しかし姫宮さんは力強くいう。決意は固いらしい。
「わかった。それなら……――」
俺は制服のブレザーを脱ぐと、椅子の座面に敷いた。
「あっ……」
「そのまま座ったら、煤で汚れちゃうからな」
姫宮さんは驚きと申しわけなさを混ぜたような顔をしたあと、
「……はい。ありがとうございます」
ふたたび笑顔になって、そうこたえた。
姫宮さんは椅子に腰をおろすと、グランドピアノの鍵盤に指を置いた。
すっと目を閉じ、深呼吸するようにゆっくり息をする。
そしてどこかぎこちなく、けれど、とてもやさしい手つきで演奏をはじめた。
ピアノの音は鳴らない。
ただ鍵盤を叩く音だけが、第一音楽室に響くこともなく、消えていく。
「お母さん……ありがとう」
小さな声で、でもたしかに、姫宮さんはそうつぶやいた。




