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第九章/2

第九章/2



 家に戻ると、母さんがわざわざ玄関先まで来て出むかえた。

 ふだんは適当に「おかえりー」と声がするだけで、満腹になったあとの流しそうめんのように流されるのだが、学校での火災の件があったからだろう。心配しているようだった。


「あんた、大丈夫だったの? 学校から連絡あった後も、なかなか帰ってこないもんだから何かあったのかと思ったじゃない」


 慌ただしい様子である。時間をみると六時を少し過ぎたころだった。保健室に残っていたぶん、学校からの連絡から俺が実際に帰るまでの時間に差が出てしまったようだ。


「ああ、大丈夫だよ。俺含めて生徒はみんな火災の起きた旧校舎から離れた体育館にいたから」

 こたえながら俺は靴を脱ぎ、家に上がる。

「避難後の点呼でも全員いたみたいだし、心配はないよ」


「そうかい? ならいいんだけどねぇ。まさか学校で火事が起こるなんて思ってもいなかったから、電話もらったとき母さん、心臓止まるかと思ったわよ」


 いつもは勉強のこと以外は興味がないくらいに口うるさく勉強しろという母さんだが、やはり子は子、というところか。


「すぐ帰ってくればよかったんだけど、体調を悪くした子がいてさ。その子の様子が落ち着くまで他の友だちと一緒に残ってたんだ。連絡入れとけばよかったんだけど、忘れてた。心配かけてごめん」


 こういうときこそ携帯の出番だというのに、と自省する。


「まったくそうよ。連絡の一本くらい入れなさいな」

 母さんの呆れ半分、怒り半分にいう声を背に二階の自室にむかおうとして、ふと俺は思うところがあり途中で足をとめた。


 母さんの方に向き直り、

「やっぱりさ、俺が怪我したり、その……死んだりとかしたら、悲しいか?」


 きっと、姫宮さんからご両親のことをきいたからだと思う。母親に対する姫宮さんのきもち。反対に、姫宮さんのお母さんからの、娘への想い。そういうものに触れて、ふと、じぶんはどうなんだろうか、そう思ったのだ。


 母さんは目を丸くして数秒動きをとめ、そのあと呆れたように大きく溜め息を吐いた。

「あんたね、そんなの当たり前でしょうが。あんたは自慢できるほど優秀な子じゃないけど、それでも大変な思いをして育ててきた私の自慢の大切な息子だよ」


「大切、ね……」


 母さんは眉根を寄せてうんうんと頷くと、

「そうさ。有名大学に通ってるとか、エリート社員だとか、教授だのスポーツ選手だの芸能人だの、そういう世間一般から見て凄い人は世の中にたくさんいる。だけどね、私の息子は地球の裏側まで探しに行ったってあんたしかいないんだ。それが大切じゃなくてなんなのさ?」


 そういうと母さんはバンと背中を叩き、

「もうすぐ夕飯だからね。先に風呂入っちまいな」

 台所へと戻っていった。


 俺は着替えを用意すると風呂場へとむかった。


 さっと身体を洗って湯船につかる。お湯がどっと湯船から溢れていった。肩まで沈みこむと、疲れていた全身にじんわりと湯の温かさが染みわたっていく。


「ふはー」


 ぐっと伸びをすると、両腕をゆったりと湯船のふちにかける。


 風呂場の壁タイルの目を眺めながら、考えていた。


 最後に保健室で話したときの姫宮さんの表情。

 ずいぶんと哀しそうな顔をしていて、それがどうにも気にかかっていた。


 旧校舎が燃えるのを見て、過去にじぶんの家が火事にあったということを思い出したから暗いきもちになってしまったのだろうか。

 保健室で休んでいるときに両親の夢を見て、円満とは言いがたい家庭環境に育ってきたことを思い出したから、哀しいきもちになってしまったのだろうか。

 俺に過去の家庭環境や、ヘッドホンをかぶる歪んだ理由を教えたことを後悔したのだろうか。


 いや――。


 ほんとうにそれだけとは思えなかった。


 なにか確信があるわけではない。確証があるわけではない。


 けれど、あの姫宮さんのすべてを諦めたような表情。いままで黙っていた、隠していたことを俺に打ち明けたという心境の変化。


 その引き金になったのは間違いなく今日の旧校舎の火事だろう。しかし原因は『旧校舎が燃えたこと』そのものではないんじゃないかと思う。ただ過去の記憶を思い起こしただけであそこまで取り乱すとは思えないからだ。


 ――姫宮さんの心の安定を打ち砕く何かがあったはずなのだ。


 それがいったい何なのかまでは、わからないのだけど。


「ううん……」


 保健室での姫宮さんの話を思い出しながら、身体を湯船に漂わせる。意識を、思考の海へと放流する。


 話をきいた限りでは、ヘッドホンをつけていることは、第一音楽室にこもり、教室に顔を出さないこととは直接の関係はない。過去に、父の怒声から逃れるために耳栓がわりにつけはじめたのが癖になってしまい、日常的にそうしていないと安心できなくなってしまっただけ。


 たとえるなら手術した後の痛みから逃れるために痛み止めの薬を飲んでいたら、その効用が切れて痛みがぶり返してくるのを恐れるあまり、薬が切れるまえに次の薬を服用しようとしてしまうのと同じようなものだ。


 だが、ヘッドホンにしたって、第一音楽室にこもることにしたって、すべて根ざしているところは一緒なんだと思う。


 それは、不安――。


 彼女は不安なんだと思う。過去に経験してきた辛いできごとが意識下に刷り込まれてしまっていて、なにかしようとするたびに「もしかしたらまた辛いできごとに見舞われてしまうのではないか」という恐怖心に縛られている。一歩を踏み出すことができなくなっているんじゃないだろうか。


 その結果、彼女は不安という心理でがんじがらめにされてしまって、自分の殻にとじこもり、他者との接触を遮断するしかなくなってしまった。第一音楽室にとじこもり、ヘッドホンで外界の音を遮断しているように。


 唯一の生きる理由だった母もいなくなってしまって、道がすべてとざされたように感じたんじゃないだろうか。急にひとりぼっちになってしまって、必死にじぶんを守ろうとしていたのかもしれない。


 いま、彼女は生きることに積極的ではない。


 だけど死ぬことができないから、その結果として生きているだけ。


 でも……彼女だって決してそれを良しとしているわけではない。


 なにかきっかけが必要なんだ。


 彼女が自分の殻を破って、他人と関われるようになるために、必要なものがある。


 ただ、それがなんなのか、どうしたらいいのかが――俺にもわからない。


「だああー」


 俺は頭の先まで湯の中に沈み込む。


 ぶくぶくぶくと、苦しくなるまで息を吐き続けた。

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