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第九章/1

第九章/1



 ――出火元は旧校舎の第一家庭科室。原因は家庭科室のガスの栓の閉め忘れか、もしくはガス管の損傷によるガス漏れ。家庭科室内に充満したガスがなんらかのきっかけで引火、爆発しそのまま火災に繋がったのではないかとのことだった。

 文化部発表会のために家庭科部が臨時で旧校舎の家庭科室を使用していたとのことで、その件との兼ね合いも含めて調査中らしい。

 ちなみに不幸中の幸いというべきか、火災があったとき旧校舎には誰もおらず、死傷者はなしとのこと。風向きの関係上、炎は縦には激しく伸びたが、横方向には広がりにくかったようで、旧校舎の半分くらいが焼けてしまったものの、新校舎の方には被害がなかった――




 消火が確認され、全生徒に下校の指示が出たあと。俺は新校舎にある保健室にいた。弥子と小次郎、姫宮さんも一緒だ。


 火災があったのに学校にまだ残っているというのも変な話だが、校庭に避難したあと、姫宮さんは錯乱気味でとてもひとりにできるような状態じゃなかった。

 武山先生に相談した結果、保健室で休ませてはどうかということになり、姫宮さんを保健室へ連れてきた。保健の先生が「すこし休みなさい」と寝るように促して、いまはベッドで眠っている。


 俺と弥子はその近くに丸椅子を置いて座り、小次郎はじっとしていられないといった感じで保健室内をうろうろとしている。


 先ほどまでは保健の先生も一緒にいたのだが、ちょっと会議に顔を出してくるということで、姫宮さんの様子見と留守番を兼ねて俺たちは保健室に残っていた。


「未恋ちゃん、大丈夫かな……」

 弥子が心配そうにつぶやいた。


 眠る姫宮さんの表情はけっして穏やかとは言い難く、眉根をよせて、悪い夢にうなされているようにも見えた。


「保健の先生もいってたけど、心因的なものが影響してるんだろうから、怪我とかじゃないとはいえ心配だな……」


「やっぱり、旧校舎の火を見て、火事のことを思い出しちゃったのかな?」


「たぶんそうだろうな。体育館の中にいたときも不安そうにはしてたけど、取り乱したのは外に出てからだったし」


 避難したとき、校庭にしゃがみ込んでしまった姫宮さんはだいぶ怯えているようだった。さすがに気を失ったりはしなかったが、だいぶ憔悴した様子で弥子と俺とで身体を支えながら保健室へ連れてきたくらいだ。


「うーん……」

 弥子は考え込むように息をつく。


 そして沈黙。


 休んでいる姫宮さんの横でべらべらと雑談する気にもなれない。火災があった直後というのもあって雰囲気はどうしても重苦しくなってしまう。


「火事はびっくりしたけど……まあ、でもさ」

 小次郎がこちらの方へやってきて、

「こんな言い方が適切かはわからないけれど、姫宮さんは運が良かったのかもしれないね。だってさ、もし文化部発表会を見にきてなかったら、いつもどおり第一音楽室にいたわけだろう? その場合……火事に巻き込まれていたかもしれなかったわけだ」


「そうだな。第一音楽室もかなり焼けてたみたいだったし、体育館の方に来てたのは不幸中の幸いってやつかもしれない」


 もし姫宮さんがいつものように第一音楽室にいたら、と思うと身の毛がよだつ。燃える旧校舎を見たときの姫宮さんの様子を考えると、避難しきれずに巻き込まれていた可能性は有り得ない話ではない。


 再び、眠る姫宮さんの顔を見る。けっして顔色は優れないが、静かに息をする彼女を見ていると安心した。


「んっ……ん……」


 と、姫宮さんが小さく声を出した。ゆっくりと目をひらくと、数回まばたきをして辺りを見る。そして俺たちに気づくと、


「あ……。ごめんなさい。わたし、寝てしまって……」

 保健室で休んでいたことを思い出したようで、か細い声でそういうと額に手の甲をあてる。ぼんやりとした眼差しで中空をながめていた。


「どうだ、すこしは良くなったか」


「……だいぶ、落ちつきました。ただ、その、まだ気分が優れなくて」


 顔色がすこし悪いものの、受け答えは冷静だった。


「そうか。かなりびっくりしただろうけど……でも落ち着いてきたようで良かったよ」


「はい。ごめんなさい……。先ほどは取り乱してしまって。心配もかけてしまって」

 そういって、姫宮さんはゆっくりと上体を起こすと、伏し目がちに、

「もう、だいじょうぶ、ですから」


 大丈夫――という言葉とは裏腹に、その表情はどこか暗く、思い悩むようにも見えた。


「でもムリはしちゃダメだよ、未恋ちゃん」

 弥子が身を乗り出し気味にいった。

「先生が戻ってくるまではここで休んでたほうがいいよ」


 姫宮さんのことを心配しているのは俺だけじゃなく、弥子や小次郎も一緒だ。

 と、思いついたように弥子が両手を合わせて、

「そうだ。のどとか乾いてない? 慌ただしかったぶん疲れもあるだろうし、あたし飲みもの買ってくる」


 学校内に自販機があるわけではないのだが、水筒などと同じ扱いで、お茶系に限りペットボトルや紙パック飲料を校内に持ち込むことは許可されている。学校の近くにコンビニがあるので、弥子はそこへ行くつもりなのだろう。ちなみに、金銭を学校に持ってくることじたいは禁止されているはずなのだが……まあ目をつむっておこう。


「それじゃ……お願いしてもいいですか」


「おっけー。ひとっ走り行ってくるから待っててね」

 にこりと弥子は姫宮さんにほほ笑みかけると立ち上がり、保健室を出ていった。


 さらにそれに続くように小次郎が、

「んーじゃーボクも弥子ちゃんに続こうかなー。荷物持ちが必要だろうし」

 俺の背中をぽんっと叩き、

「留守番と、姫宮さんのボディーガード、よろしくぅ」


 保健室を出ていってしまった。


 奇しくもふたりきりになってしまった。いや、小次郎のことだから面白がって意図的に出ていったんだろうが……。


 ちらと姫宮さんの方をみる。あまり表情は浮かない。無言の空間はどうも座りが悪くて、なにか話そうと思うものの、なんて声をかければいいのかわからなくなってしまう。


 言葉を探して頭の中で考えあぐねていたのだが、沈黙を破ったのは姫宮さんの方だった。


「夢を、見たんです。哀しい夢を」


 こちらに視線はむけず、うつむき加減にそういった。


「いま、寝てたとき?」


「はい。……わたしの両親の夢と、火事の夢でした」


 火事――というのは先程の旧校舎の火事ではなく、姫宮さんの自宅の方のことだろう。


「目を覚ましたときに、気分が優れないっていってたけど……そういうことか」


 姫宮さんは小さく頷く。

「とても哀しいきもちに、なってしまって。胸の奥がつかえるみたいに、苦しくなってしまって」


 手で胸をおさえて、こちらを見ると、

「その……きいてもらえますか? わたしの両親のこと。それと、火事のあった日のこと。……話しておきたいんです」


 そう尋ねた。俺はほとんど間を置かずに、


「ああ、いいよ。誰かに話せばすこしは楽になったりもするだろうし。俺でよければ」


 いままでにも姫宮さんがなにか迷っているときや悩んでいるときはそうしてきたし、それで気が楽になればいいとも思っている。


 姫宮さんは哀しそうな表情を崩すことなく、話をはじめた。


「わたしの両親は、お世辞にも仲が良いとはいえない間柄でした。ただ……お互いにいがみ合っているのではなく、父が怒鳴って、母はずっと黙っている。そういう一方的なものでしたけど」


 姫宮さんの母親についてはきいたことがあったが、ご両親の関係についてきくのは初めてだったのですこし驚いた。


「……けっこう、つらいよな。そういうの。親の喧嘩って子どもの俺たちにはどうしようもないし」


 うちの両親は比較的仲が良い方だが、それでもたまには喧嘩することもある。その発端を客観的に見ている側としては、どちらが悪いのかとか、正しかったとしても言い方が悪かったんじゃないかとか、そもそもただの誤解から話がこじれただけなんじゃないかとか、そういう責任の所在みたいなものがわかるのだけど、だからといってそれを俺が指摘することで納得したり場が丸く収まるなんてことは滅多にない。それどころか、かえって火に油を注ぐようなことになったりするので黙って嵐が過ぎ去るのを待つしかなかったりする。


 俺がそういった内容の返答をすると、姫宮さんはそっと頷いて、

「わたしの家もそうでした。ただ、うちの場合はそれが毎日で、火事のあった前の日の晩も、やっぱりそうでした。お酒を飲んで酔っていた父が些細なことで怒鳴りはじめて、どんどんと語気が荒くなって……。

 翌日は日曜日だったんですけど、両親は険悪な空気のままで。半ば逃げるようなきもちで、わたしは買いものに出かけたんです」


 姫宮さんは弱々しくシーツの裾を握った。


「夕方、帰ってみたら……自宅は燃えていました。家のまわりには近所の人が集まっていて、たくさんの消防車が来ていて。わたしは、なにがなんだかわからなくて、その場にしゃがみ込んで、泣いていたような気がします」


 いっそう姫宮さんの表情が暗くなる。そのときのことを思い出しているのか、じゃっかん肩は震え気味だった。


「出火原因はわかっていません。ただ、夕方という時間帯でしたし、喧嘩があった翌日だったこと、父と母は家の中にいたまま避難した気配がなかったことを考えると――」


 姫宮さんはその先はいいたくないようというように、ただ首を左右に振った。


「遺体の身元確認は親戚の方がしました。だから、両親が亡くなったといわれても最初は実感がなかったんです。断りなく外出しているだけでそのうち帰ってくるような、そんな気分でした。けれどお葬式のとき、白黒写真の両親の遺影をみたとき、突然涙が止まらなくなりました」


 こんなときに気の利いた言葉のひとつでもかけてやれればと思うものの、俺はずっと「うん」とか「ああ」みたいな、なんの意味も持たない言葉を返すことしかできなかった。


 しばらくの沈黙があったあと、


「あの……鞄は、ありますか」


 脈絡があるのかないのか、姫宮さんはそう尋ねた。


「鞄? ああ――」


 姫宮さんの鞄のことかと気づき、俺は立ち上がる。保健室の長椅子のうえに、みんなの鞄と一緒に置いてある。


 鞄を持って戻ってくると、それを姫宮さんに手渡した。


「ありがとうございます」

 受け取った鞄をあけると、中からヘッドホンを取り出して毛布越しに太腿のうえにのせた。そして、それをじっと見つめる。


「これは、火事があったあの日にも、付けていたものです。家にあったものはほとんど焼けてしまって、残ったのはその日に外に持っていっていたもの――このヘッドホンと鞄、着ていた服と靴くらいです」


 やはり姫宮さんがつけていたヘッドホンには、単純に音楽が聴きたいからというだけでなく、べつの理由があったのか。いうなれば、それは一種の遺物みたいなもので、大切なものだから肌身離さず……


 ――いや、ちょっと待て。それは順序がおかしい。


「あのさ――」


 俺は意を決して、きいてみることにした。初めて姫宮さんに会ったときからずっと、気になっていたことを。


「そのヘッドホンをいつも付けているのは、それが火災で残った数少ない物だから思い入れがあって、肌身離さず持っていたい……ってことなのか?」


 そう問いながらも、俺はそれ以外のこたえが返ってくることを半ば確信していた。


 いまの彼女の話から逆算すると、姫宮さんがヘッドホンを外に持ち歩いてまで使うようになったのは、火災が起こるよりもまえからだったということになるからだ。

 姫宮さんがヘッドホンにこだわる理由は、火災とは関係ないべつのところにあると考えられる。

 もちろん昔から音楽が好きでヘッドホンを持ち歩いていたという可能性はある。しかし、これまでの関わりの中で、姫宮さんがそこまで音楽好きというふうには、どうにも思えない。


「これは……その」

 一瞬ためらう様子を見せたが、

「いえ……」 

 姫宮さんは下を向いてヘッドホンを見つめたまま、

「もう……いいや」

 捨て鉢のようにそういった。


 すっと一息つくと、

「ヘッドホンをかぶっていると、落ち着くんです。じぶんが世界から隔離されたような、周囲のものとの関わりを遮断されたようなきもちになって、安心するんです」


「安心する?」


「その……」

 ふたたび逡巡し、言い淀んでから姫宮さんは、

「もしかしたら、敬遠されてしまうかも、しれないけれど」


 そう前置きして、鞄の中からウォークマンを取り出す。それはすでにヘッドホンのコードと繋がっている。


 再生ボタンを押すと、そっと俺に差し出した。


「これが、いつもわたしの聴いているものです」


 どんな曲なんだろうか。ピアノを聴いているという話を以前にしたことがあったから、クラシックのたぐいか、そうでないにしても落ち着いた曲調のものだろうか。


 そう思いながら、俺は受け取ったヘッドホンをかぶって――


「うっ――」


 一瞬、


「なんだよ……?」


 理解が、できなかった。


「なんだよ、これ……!」


 聴いた途端、耳の中を棘だらけの棒で掻きまわされるような痛々しい錯覚に見舞われ、同時に万力で頭を締められるような強い圧迫感に襲われた。

 突然理解不能なものに直面して身体が硬直する。

 身体の芯からカッと熱くなって冷や汗が滲みだす。厭な閉塞感に恐怖を覚えて、ほとんど反射的にヘッドホンを外していた。


「なんで……こんなものを……」


 これは、曲なんかじゃない。


 ただひたすら、鼓膜をつんざくようなザザアアアアっという雑音が鳴っていた。それは電波の合わないラジオみたいな、いわゆる砂嵐のような音だった。


 一瞬も途切れることなく、雑音が鳴り続けて……閉塞感や圧迫感を覚えるのは当然だ。

 こんなものをいつも聴いているなんて、いや、聴いていられるということそのものが、にわかには信じがたいことだった。


「はじめてヘッドホンをつけたのは、中学一年生の秋あたりだったと思います。父の声から逃れようと思って、耳栓のつもりで付けたのが、きっかけです」


「父の声から、逃れる?」


「以前、カズアキさんや鳴河さんのご両親がどんな方だったか、お聞きしたことがありましたよね」


「ああ。そうだな。覚えてるよ」


 なんどか第一音楽室で話してきた中で、そういう話題もあったのを覚えている。姫宮さんは母親については優しい人だったと語っていたが、父親についてはなにもいわなかった。さっきの話から推測するに、あまり話したくなかったのだろう。


「わたしの父は、とても不器用なひとでした。融通が効かなくて、真面目すぎるがゆえにハードルは全部跳ばなければいけない。それも良い結果を出さなくてはいけない。そういった一種の脅迫観念にとらわれていて、上手に妥協することのできないひとでした。

 ふだん色んなことを我慢して、色んな無理を抱え込んでいて、そのストレスの捌け口がお酒でした。毎日仕事が終わって家に帰ってきてからお酒を飲んで、酔うと気が強くなるぶん、真面目にやっているときの反動が大きく出るんだと思います。母に、怒鳴っていました」


 先ほどの、姫宮さんの両親の夫婦関係はあまりうまくいっていなかったという話を思い出した。

「それは……つらいな」


「わたしにとって、それは当たり前の日常でした。小さいころから、ずっと。でも、慣れることはありませんでした。夕飯でわたしが一緒にいるときでも、夜中わたしが部屋にひとりでいるときでも。母が悪いわけではないのに、父は延々と言いがかりのような理由で怒鳴っていて。母は、父の苦労や負担を知っているから我慢していました。それでもわたしは父の怒鳴り声がきこえてくるのが、つらくて、苦しくて」


「誰かに相談したりはしなかったのか?」


「なんどか、母に相談しました。子どもながらに、離婚してはどうかと尋ねてしまったこともあります。でも、母は『ごめんね、我慢してね』とわたしにいいました。父も決して悪いひとではなかったし、なにより離婚すればそれはそれで別の問題が出てくる、だから我慢してほしい、そういわれました。母はわたしにやさしくしてくれましたし、わたしも母のことが好きでした。……だから決めたんです。母と一緒に、耐えようと」


 姫宮さんはときどき俺の様子をうかがうようにこちらを見る。俺は俺で姫宮さんの心境や表情が気になって、ちらちらと視線がぶつかっては互いにすぐ逸らして、そんな動作を繰り返していた。


「家にいれば毎晩、父の怒鳴り声がきこえてきます。階も違うし、部屋も離れているのに、それでも大きな声が聞こえてくるんです。その度にわたしは胸が痛くなって、苦しくなって、吐き気がしました。でも、わたしは何もできない。止めることなんてできないし、酔っているから、話して説得できるものでもない。だから、ただ我慢していました。

 ……そうやって毎日を耐えていたら、いつのまにか、わたしはどこかから人の声が聞こえてくるだけで、恐怖を感じるようになっていました。身体が勝手に、震えるんです。嫌な記憶がよみがえってきて、怖くなるんです。内容なんて関係ありません。テレビのお笑い番組で笑っているんだとしても、世間話をしているんだとしても、ただ声や音がきこえてくるだけで苦しくなりました。だから、きこえてくる音を全てシャットアウトする必要があって……そこでわたしが見つけたのが、ヘッドホンでした」


 姫宮さんは俺からヘッドホンを受け取ると、それをふたたび膝元においた。


「わたしは家にいるとき、誰かの声――ほとんどそれは父の声なのですが、声が聞こえてくるたびに、ヘッドホンをかぶりました。そうして音楽を大音量でかけました。曲はなんでもいいんです。できるだけ周囲の音を掻き消せるように、アップテンポな曲。無音やドラムだけのパート、穏やかなピアノのような他の音が入り込んでくる隙間のある曲じゃなければ、それでよかったんです」


 ヘッドホンのバンド部分をそっと撫でる。


「わたしはそうやって、じぶんを守ることにしました。ほとんど反射的に、大きな声や音がきこえたら、ヘッドホンをかぶる。そしたらいつのまにか、家にいるときは常にヘッドホンをかぶっていないと、安心できなくなっていました。いつ声がきこえてくるかわからないから。声がしてからじゃ遅いと感じるようになっていたんです。誰かが怒っているかなんて関係なくて、どこかから声がきこえてくること自体が、わたしの恐怖の対象になっていたんです。だからいつも、ヘッドホンをかぶっていました。そしたらいつのまにか、寝ている間もヘッドホンをかぶるようになって。外に出るときも、ヘッドホンがないと不安を感じるようになっていました。流す曲も、ふつうのものでは音の隙間があって安心できなくなって、ラジオのノイズを録音して、それを流すようになりました」


 黙りきった俺の顔を一瞬だけ見て、すぐに視線を戻すと、姫宮さんはなにもかもを諦めたような、せつなげな表情をした。


「それがわたしの、ヘッドホンをつける理由です」


 返す言葉がみつからなかった。俺はまた「ああ」とか「うん」とか、じぶんでも覚えていないくらいに、ほとんど返答になっていないような言葉を短くもらしただけだった。


 度重なる沈黙を、ふたたび姫宮さんが破る。


「わたしは母に、死にたいと言ってしまったことがあるんです。……そのとき母は泣きながら『未恋はわたしの命よりも大切な、大好きな娘なの。だから生きていてほしい』と、そういいました。わたしは本当に申しわけないことをいってしまったと後悔しました。それと同時に決心しました。わたしは母のために生きようと。生きるために、ヘッドホンをかぶって、苦しみから身を守ることにしました。

 苦しいことはあるけれど、家に帰れば母がいて、母がピアノを弾くそばで本を読む。その時間が楽しみで、それだけのために生きていました」


 姫宮さんはそう語ると最後に、


「わたしは母に、生きると約束したから、死ねません。だけど、もう生きる理由もありません。母を失ったあの日から、わたしの時間は止まったままなんです」


 そのあとはずっと沈黙が続いた。


 飲み物を買ってきた弥子と小次郎が戻ってきてからも、あまり会話は弾まずに、やがて先生も戻ってきて、解散となった。


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